最強の黒、至高の白



 王家の豪奢な家紋の入った扉を開けると、その部屋だけが戦禍の廃墟のように荒廃していた。一瞬、魔術の幻に囚われたのかと感覚を疑う。だが黒魔術に、幻覚を見せる力はない。道理からいえば、人の神経に作用するなら、むしろ白魔術のほうが可能性がある。しかし白魔道師たるマリア自身、どう工夫したところでそんな術が使えるとは思えない。
 牢獄のような格子窓から漏れる光に、暗い部屋に舞う粉塵が光っている。微かな、焼跡のような、炭の臭気。調度品は、寝台すら、廃墟に溶けて何もない。絢爛な離宮の、廃墟と化したこの一室は、紛うことなく現実なのだろう。破壊の黒魔術が作り出した、ささやかな死の世界だ。
 マリアは死の病に伏せる、年若き王子の治療に呼ばれたはずだった。
 それだけの依頼なら、マリアが出向くことはない。ただ王子は、近年『最強の黒』と称される、世界最強の破壊の魔術を極めた黒魔道師らしい。どんな禍々しい人間なのか見ておこう。興味本位に、マリアは寂れた港町の離宮を訪れた。
 だが廃墟と化した部屋の隅に座っていたのは、小さな一人の老人だった。マリアはついぞ呼ばれることはないが、白魔術を極めた老人を、人は賢者と呼ぶ。白いローブで身を包み項垂れる姿は、破壊を極めたる凶悪なる黒魔道師どころか、悟りを開ききった老賢者を想起させた。
「やあ、こんにちは」
 無言で眺めていたら、老人から声を掛けられた。
 目を開いた相貌は、皺に覆われ既に美醜の面影を探すことに意味がないほどに老いていた。声もしわがれていたが、どこか軽い。かくしゃくとしているというのではない。どこか幼さのような、老いた容貌と相まって、不気味な違和感を覚える。知恵足らずでも相手にしているような、グロテスクな違和感だ。
 身体を直しても完全にはなれない、知恵足らずの病人たち。マリアは彼らを好んで治癒した。
「……ええ、こんにちは」
「驚かせてごめんよ。でも、お帰り。ここにはこれから、『至高の白』と呼ばれている、偉い賢者様がくることになっている。君のような子がいてはいけないよ」
 幼女でもあやすような、優しげな調子だ。むべなるかな、幼女ではないが、マリアは子供の姿をしている。ゆえに白魔術をどれほど極めたところで、その悪名がどれほど高まったところで、人は面と向かうとマリアを賢者とは呼ばない。
 賢者とは、魔力の強弱ではなく、おそらく『白魔術を扱う老人』に冠される尊称なのだ。
 白いローブの賢者の言に逆らって、マリアは部屋の隅に座る老人に歩を詰めた。あと二、三歩で手の届くほどまで近づき、老人を見下ろす。小さな老人だ。
 これは錯覚だろう、既に微かな腐敗の臭いすら感じる気がする。それほどまでに、老いていた。
「おそらく、それは私だ」
「まさか。君は黒いドレスを着ている」
 どこか鷹揚に、老人は笑う。
「黒が好きなのよ。白魔道師が黒を着てはいけないの?」
「いや……そんなことは、ないね。僕も、白が好きだ」
 呟いて、老人は白いローブを直した。皺の間に刻まれた一際深い皺、もはや色素が褪せてしまったため唇を失った口の端を、見透かしたようににやりと吊り上げる。
 知らぬ者がこの部屋を見たら、千人が千人、老人を『至高の白』と思うだろう。黒い一衣のドレスを纏うだけのマリアはさしずめ、せいぜい廃墟に迷い込んだ孤児といったところだろうか。
「ただ『至高の白』と呼ばれるほどの魔道師なら、もっと歳をとっていると思っていた。君はせいぜい、僕と同じくらいに見える」
 言葉を交わせば交わすほど、違和感が募る。老人は知恵足らずではない。その語り口は聡明だ。ただその語り口は、老人のそれではない。
「なぜ私の歳がわかるの」
「なぜって。見たとおりだよ、君は若くてかわいらしい。……ああ、そうか。それでは僕の姿と同じ年齢にはならないか」
 皺に埋もれた細い目をさらに細め、老人はまた口許を笑みの形に歪めた。悲壮感はなく、纏う白ローブも相まって、余計に『至高の白』の風格が増す。偽物なのに。
「私は一二七歳よ。確かに、貴方の年齢と、そうは変わらないかもしれないわ」
 マリアは小娘にはできないであろう、嫣然とした笑みを浮かべてみる。老人は一瞬固まると、「余計子供みたいだ」と失礼な言葉を吐いた。
「僕はこう見えてまだ十五歳だ。この国の王子で、黒魔術の素養がある」
「あなたが『最強の黒』?」
「うん、本意じゃないけど、そう呼ばれることもある。幼い頃、二度、戦争で黒魔術を使ってしまった」
 ここ十年、王国は隣国と、二度の大きな戦争をしていた。一度目は十年前、隣国からの侵攻を受けた。隣国は強大な侵略国家で、王国はそれまでも領土を削り取られ続け、かつての王都すらも奪われていた。その時も今の港街に遷都した都に達するまでの侵攻を受け、もはや王国は潰えるのみと見られていた。
 だが一ヶ月に及んだ侵略戦争の結末は、予想外にして、あっけないものだった。規格外の強力な黒魔術の炎が、城外に陣を敷いた隣国軍を一瞬にして焼き消した。火攻めなどという生易しいものではない。一国を攻めとらんとする万の大軍が一撃にて、原型も残らぬ灰塵と化したという。
 二度目は直後、王国の報復戦だった。隣国の大都市、というより王国の奪われた旧王都といったほうが通りがいい、それが一瞬にして炎に包まれ、消し飛んだ。もはや戦争とも呼べぬ、かの街にとっては災害だった。
 以来約十年間、王国の周囲は隣国の手に落ちたが、王国と隣国は奇妙な休戦状態が続いていた。陸は敵国に封鎖され、王国は完全に孤立していた。王国に一つだけある港が外界との窓口だったが、それだけでは小さな王国の経済を回しきることはできない。
 年々貧困に追い詰められる中、それでも王国は『最強の黒』という切り札を持っていた。王国は侵略を免れ、かろうじて独立を保っている。
「前から思っていたのだが、なぜ『最強の黒』は隣国への報復を一度で止めたの。その気になれば、隣国を滅ぼすこともた易いだろうに」
「なぜって。僕は人殺しが嫌いだよ。例え敵国の民であろうと、僕の力で誰かを殺したくはない。黒魔術の二度の行使は、僕の人生の過ちだ。一度目は僕の中の黒い部分の衝動だし、二度目は父上や兄上たちや廷臣のみんなに唆された。だけどその結果を見て、僕の力で生まれた廃墟を見て、もう力を使わないと決めた。例え僕が殺されても、この国が滅ぶとしても、僕はもう黒魔術を使わない」
 小さな瞳だけを、子供のように輝かせる老人を、マリアはじっと見つめた。
「とんだ『最強の黒』だ」
 思わず漏れた言葉に、
「僕にはルースという名前がある。できれば名前で呼んでほしい、『至高の白』さん」
「魔女でいいよ。ルース」
 不満げな、子供のような沈黙が降りる。マリアが名を名乗る義理もない。
「わかったよ。気が向いたら名前を教えてください」
 溜息をつき、ルース老人は存外簡単に折れた。
「僕も幾つか君の伝説を知っているから、君が一二七歳だと言っても信じるよ。だけど目の前にいる君は、少し意地悪なだけの、かわいらしい女の子にしか見えない。それは白魔術の力なんでしょう、どうなってるの?」
 魔術師の格は、生まれた瞬間に決まる。素養のない者に、魔術は使えない。
 魔術の素養のある人間は極々稀有で、一般人にいくら教えようとも、魔術が使えるようにはならない。
 また、白と黒の魔術は、全くの別物、むしろ相反する力だ。
 いくら黒魔術の魔道理論を聞いても、マリアには蝋燭の炎一つ灯すことができるようにはならない。『最強の黒』たるルースに、『至高の白』たるマリアの極めたる理論の全てを説いたとしても、ルースは擦り傷一つ治せないだろう。
 魔道は質から強弱まで、全ては素養に掛かっていて、鍛練や知識で強化するものではない。理論はそれを補佐する観念にすぎない。
 自分の若さの秘訣を訊ねられた際、マリアは簡単に答えることにしている。白魔術で不老の身体を保っているの、魔術に理屈などない、と。
 その答は紛れもなく真実で、実際付け足すべきことなどない。しかし訊ねられた相手が、『最強の黒』。ある意味、世の中では、マリアと対とされている存在だ。
 同類の憐れみを持って、マリアはひとりよがりな魔道理論を開陳することにする。魔術の想念は人それぞれ勝手なもので、ゆえに魔道理論はあまねくひとりよがりなものなのだ。
「これは私の個人的な魔道論なんだけどね。観念として、人の細胞の中には蝋燭のような物があるの。蝋燭の長さが寿命で、蝋燭の炎が消えちゃうと人は死んでしまうの。普通の白魔術師は、まだ蝋燭の残っている状態で消えかけた火を強くしたり、ひびが入って折れ掛けた蝋燭を修復したり、あるいは蝋燭には触れずに細胞の外装だけ治癒したり、そんなことをしているの。でも私はそれだけじゃなく、溶けた命の蝋をまた固め直すことができる。老人を若返らせることもできるし、この美貌を永遠に保つこともできる。私の白魔術が、至高と呼ばれる所以よ」
「美貌?」そう問うて、ルース老人は子供のようにいたずらに笑った。
 そして深く息を吐いた。
「すごいや。僕は何の考えも無しに、黒魔術を使っていた。理論なんて考えたこともなかった。尊敬します」
 子供のうちはそれでいいのだ。雑念なく、自然に行使する魔術が最も強力なのだ。年齢を重ねる、力と知識の折り合いがつかなくなる。そこで無理やり理論など宛がって、折り合いをつける。
 魔術は洗練されるが、想念に拘束される分、威力は弱まる。
「失礼だな、私は美しいはずだ。この国の第一王子が、あなたを助ければ私を妃に迎える準備があると言っていた。ゆくゆくはこの国の女王になるかもしれないよ」
「ミハエル兄上は、美人よりも幼い可愛らしい女の人が好きだから。そもそもミハエル兄上と結婚しても、王妃にはなれても女王にはなれないよ。まぁ構わないけど、僕の義姉上が一一二歳も年上になるわけだ。すごいね」
 ルース老人がまたくすくすと笑う。そろそろマリアも、ルースを子供として扱うことに慣れてきた。
「でも私は、第一王子よりも第二王子の方が好きね。目つきが冷たくて、知的に見える」
「よく見てるね。でも君はウーリ兄上の好みじゃないと思うな。ウーリ兄上は堅物だし、可愛らしい女の人より賢い女の人が好きなんだ。あ、知識でいえば君はすごいんだ。だって一二七歳の大賢者だもん、意外とウーリ兄上に気に入られるかも。君を見てると、なんだか忘れちゃうな。でももし君が選べるなら、ミハエル兄上やウーリ兄上より、三番目のラファエル兄上をお薦めするよ」
「三番目はぼーっとしていて、鈍そうに見えたけど」
「そんなことはないよ。ラファエル兄上は誰よりも他人の心に敏感で、一番優しい。ラファエル兄上は少し黒魔術の素養があるから、僕の気持ちを一番理解してくれる。僕を治すために君を呼ぶことにも、反対していた」
 マリアを見つめるルースの眼差に、微かに険を感じた。
 『最強の黒』たる第四王子ルースは、身を枯らせ、廃墟と化した一室の隅に座っている。
「ルースは、兄弟と仲が良いんだな」
「うん、僕は幸せ者だ」
 幾つかの言葉を呑み込んだマリアの呟きに、ルース老人はその言葉を裏付けるように、子供のような笑顔を見せた。


「この王国の百年前の、『至高の白』の伝説を僕たちは知っている。千人の民を病魔から救った白魔術師の伝説」
「それは、確かルース王子の治癒にこの王国に寄った時の話だったかしら?」
「そう! 僕と同じ名前だから、やけに親近感があって」
「正確には百年前ではなく、一一〇年前の話ね。私がまだ本当の小娘だった頃の話よ。この王国も、まだはるかに強大で、傲慢だった。今この王国を脅かしている隣国は、確かまだ建国もされてなかったんじゃないかしら」

 魔女がまだ、一七歳の頃だ。未熟で若かりし時代、思い出すと恥ずかしくなる。当時はまだ、少々粋がっていたのだ。魔道の摂理に思いを巡らすこともなく、それでも魔力はとどまることなく溢れて、気の向くままに魔術を使った。
 王国の歴代王で、贈名が付けられる者はそう多くはない。それは民衆が贈り、後世の歴史家が残すものだからだ。稀代の名君か、あるいは世紀の愚王の証となる。
 当時の王は王国史でただ一人、二つの贈名で伝えられる、珍しい王となった。
 武力を持って周辺国を併呑し、王国の中興を成し遂げた当時の王は、死後貴族や学者たち知識人に、獅子王と贈名されることとなる。一方、哲学者によっては王の主ともされる民衆たちからは、狂乱王と影の贈名を賜った。
 魔女は彼の王を、獅子王として記憶に捉えている。狂乱王では、思い出に直結しすぎて、呼び名というよりただ王の性格を言っているようで、不自然な気がしてしまうのだ。
 例えば頭の悪い男を『阿呆』と呼んだり、残酷な男を『外道』と呼んだりするそれは、ただその者の性質をいっているのであって、呼び名ではないだろう。
 若い時代、獅子王は戦争に明け暮れた。しかし壮年にもなると、彼は穏やかな名君となった。王国は富み、兵は強壮、周辺国は王国を畏れ、民は獅子王に喝采を浴びせ敬った。王妃となった、滅ぼした国の美しい遺姫は早世したが、王子は健やかに成長した。
 獅子王の一人息子、ルース王子。彼は母譲りの美貌と、父譲りの智勇、その上聖者のごとく民への施しを厭わぬ仁徳を具えた、神が与え得る全てのものを与えてしまったような、天使のような少年だった。
 未来さえ約束された王国は、まさに絶頂を迎えていた。
 しかし、月満つればすなわち欠く、といおうか。
 悲劇は突然訪れた。
 王都に、流行病が蔓延した。流行病自体は、洪水や干ばつと同種の、季節性の災害のようなものだったが、その年はそれが王国史に残る悲劇に繋がった。王国の至宝として、大切に大切に、温室で育てられてきたはずのルース王子が、流行病に感染したのだ。
 世界中からあまねく高名な医師、占師、白魔術師が呼ばれたが、誰一人ルース王子を救うことができなかった。そしていよいよ万策尽き、王子の命の灯火の終焉が見え始めた時、獅子王は魔女を呼んだ。

「魔女って……、でもどうして。獅子王様は『至高の白』と呼ばれる君を、最初に呼ぶべきだったんじゃないかな?」
「私はまだ十七歳だよ。『至高の白』なんかじゃない、誰も私の魔力なんて知らないよ。そういえばあの時、獅子王はお前の兄と似た条件を出してくれた。もし私がルース王子を救うことができたら、私をルース王子の妃に迎えてくれると言った」
「いいよ。僕も仮に生き延びたとしたら、君に求婚するよ」
「それは……考えておこうか、お爺さん」

 魔女が獅子王の招聘に応じたのは、王子を助けるためではなかった。
 唯我独尊を地で生きてきたような獅子王の苦悶を見てみようかと思った。期待に違わず、むしろ予想以上に、獅子王は半狂乱になっていた。魔女のこの小さな肩に縋りつき、息子を救ってくれるよう哀願された。獅子王のあまりの迫力に、身の危険を感じたほどだ。
 もう一つ、楽しみにしていた病の王子。神に全てを与えられるほどに愛され、そして若くして神に見捨てられた王子は……噂通りの天使だった。
 寝台に伏せるルース王子は、病にやつれていても美しかった。長い淡い絹糸のような金髪が寝台の白いシーツに乱れ、小さな青白い貌を包んでいた。灰色がかった青い瞳には長い睫毛が重く影を作り、鼻はすっきりと細い。そして色を失くした薄い唇。触れたら壊れてしまいそうな、美しいガラス細工の人形のような王子だった。
 これで賢いという。これで強いという。これで優しいという。これで大国の王子だという。
 完全に過ぎるその存在に、魔女は余計に助ける気を失った。
 半ば意識が混濁とした様子のルース王子に、魔女は訊ねた。
「救ってほしい?」
 ルース王子は、力なく首を横に振る。長い金髪が微かに蠢き、光を撒いた。
「あなたが『至高の白』ならば、僕を助ける前に、城下で苦しむたくさんの民を治癒してほしい」
 魔女はルース王子の要望を呑んだ。死の淵にある城下の全ての病人を治癒した暁に、最後にルース王子を助けると。
 獅子王は人の親として、当初反対した。まず、息子を治癒せよと。しかし魔女の偏屈さと、なにより頑ななルース王子の意志に負け、獅子王は王子と魔女に協力した。城内に流行病患者を招き入れ、一刻も早く城下全ての患者を魔女に治癒させようとした。
 そんなことができるわけもないのに。噂が噂を呼び、都の外、国の外からまでも押し寄せ、王都の流行病患者は魔女が訪れる前より増えてしまったほどだった。
 やがて、ルース王子は死んだ。死してもなお、天使のように美しい顔だったことを覚えている。
 契約主を失った魔女は、もうルース王子の元にいる意味がなかった。
 悲嘆にくれる獅子王と、国中から集まった流行病患者を見捨て、魔女は王国を立ち去った。

「なんて切ない話だろう」
 ルース老人の深く刻まれた眦の端で光るものがあった。それで留まらず、恥ずかしげもなく、大粒の涙がポロリと落ちる。
「そうね、ルース王子は本当に、顔も心も天使のような人だったね」
「違うよ。彼が何をしたっていうんだい」
 ルース老人は子供のような仕草で、白いローブの袖で涙をふく。
「人々を救ったのは白魔術師の君だろう」
「魔女の白魔術かもしれない、だけど人々を救ったのはルース王子の意志だよ。魔女は半月もの間、傍らに流行病で今にも死にそうなルース王子がいたというのに、手を差し伸べずにいられる冷血な人間だ。それどころか日々衰弱するルース王子を見下ろすことを、楽しんでいた」
「余計に切ないよ。君はただ、そのルース王子の傍らにいたかっただけじゃないか」
 マリアは絶句した。元々表情の解りづらいルース老人の顔には、頬に涙を残したまま、目から光は失われ、死者のような無表情があるだけだ。
「この国の王子なら、ルースも魔女の所業をしらないわけじゃないだろう?」

 獅子王はルース王子の死を受け入れられず、悲嘆し、やがて息子を生き返らせるよう魔女を脅した。
 魔女は断り、王国を立ち去った。すると獅子王の脅しはすぐに実行に移された。
 一つの法令が発布された。後に『至高の白』と呼ばれることになる、魔女の力を受けた者には、例外なく死を賜ると。
 獅子王は魔女が治癒した者たちを探し出し、呪われし者たちとして殺していった。
 死の病より解放され、神に感謝し、その時をただ平和に生きる者たちを殺した。男も女も、貧も冨も、老いも幼きも関係がなかった。
 その法令は、獅子王の終生まで続いた。
 魔女がルース王子の要望を受け救った人数は、数えてはいないが、二千人か三千人になるだろう。その法令によって、五万の民が殺されたとされる。魔女に救われた人間を殺し切ってしまった獅子王は、救われた者たちの子も、親も、友人も、与り知らぬ他人さえも、魔女への報復に殺し続けた。

「そして前半生輝かしい業績を作った獅子王は、死後民衆に狂乱王と贈名されることになってしまった。魔女はルース王子を救うことで、獅子王を止めることができたんだよ。切ない、なんて話じゃない。狂ってしまった憐れな王と、邪悪な魔女と、ただ一人天使のようなルース王子の、罪深い伝説だね」
 そんな話をしながら、マリアは嫣然と笑んで、座ったルース老人を見下ろした。
 ルース老人は子供が可笑しさを堪え切れなくなったように、くすりと失礼な笑みを漏らす。
「なによ?」
「いや、ごめん。君、その魔女っぽい笑い方、下手だからやめたほうがいいかも。なんていうか、いたずらがばれた子供が開き直ってるように見える」
 不覚にも、顔が熱くなった。
「君は古のルース王子が好きだったんだね。好きだから彼の願いを聞いた、死ぬまで彼の傍に付き添った、彼の遺言を理解しない獅子王様が許せなかった。君は少し自分勝手だったかもしれない。けれど、君の行動に、心に罪は一つもないよ。百年経ってなお、君が口にする『ルース王子』の響きは、僕が恥ずかしくなるくらい甘やかだ」
 頬の火照りが、加速度的に拡がっていくのが自分で解る。老人の言葉に素直に反応してしまうほど、子供ではない。笑い方を馬鹿にされ、憤怒と恥辱の混じった熱に、卑怯な追い討ちを掛けられ、やられてしまっただけだ。
 一二七年を生きる、不老不死の、邪悪なる伝説の魔女が。甘ったらしい、たかが十五歳の、まだガキみたいな老人に。
「クソジジィ……」
「ねえ、君の名前を教えて」
 苦し紛れの汚い言葉にも、ルース老人は動じた様子はない。逆にまっすぐ、見返された。瞳には輝きが戻っていて、逆に直視ができなくなる。
「あたしは魔女でいいって……」
「君は魔女じゃない。名前を教えて」
 ルース老人は平和そうな笑顔を張り付け、いつの間にか魔力を漂わせていた。
 大気が震える。廃墟と化した部屋中が、瓦礫がぶるぶる震えている。宙に舞う誇りが、既に微かに焦げるような臭いを発している。
 本能的に、否応なく背筋を冷たいものが駆け上がる。
 マリアも魔術師だ。白と黒の違いはあれど、眼前の魔力の強さは正確に解ってしまう。
 マリアの白魔術とは正反対の、ルースにはまるで似合わない、強大で邪悪で、街の一つでもた易く吹き飛ばしてしまいそうな、『最強の黒』の魔力が暴発しそうに蟠っている。
 笑顔のルース老人は、目だけがまるで笑っていない。
「……マリアよ。名字はないわ」
「マリア。君にぴったりの、素敵な名前だね」
 あっけなく、『最強の黒』の魔力が消え去った。残ったのは部屋の角に座る、無害な、白いローブを纏った賢者のような老人だけ。ただ優しげな笑みでマリアを見上げる。
「ねえ、気付いてた? マリアは『ルース王子』と、それは甘やかに言うんだ。何度も、切なげに。それは僕の名だから、マリアが『ルース王子』と口にするたびに、僕は胸がドキドキしていたんだよ。マリアが愛を込めて口にする『ルース王子』は、僕のことじゃないんだけれどね」
 ひとしきりマリアを馬鹿にし、容赦なく追い詰めた後、ルース老人は世間話でもするように何気なく続けた、
「僕はマリアが好きになってしまったよ。とっても切ない」
 老人がマリアに手を伸べた。歩み寄って思わず、マリアはルースの手を取った。


 呼吸を整える。
「僕はお爺さんじゃない」
「ルース」
 暴走しかけた心を、やり場のない思いを、魔力に向ける。
「ねえ、僕も病気を治してなんかいらないよ。僕の代わりに、苦しんでいる人たちを助けてよ。そう言ったら、マリアは僕の傍にいてくれる? 同じように、僕の名前を呼んでくれる?」
「ルース、この国に苦しんでいる人は大勢いるわ。だけどそれはあのときのように、流行病のせいじゃない。私の白魔術では救えない。獅子王の崩御から百年近く、ずっと敗北を重ねる戦争がこの国の人々を苦しめた。そしていよいよ滅びるべきこの国が、十年間あなたの黒魔術の力で生きながらえ、国は孤立し、貧困が人々を苦しめている。私の力は、隣国を滅ぼすことも、この国を滅ぼすこともできない。だから誰も救えないわ」
 感情に任せて魔術を行使するなんて、何十年振りだろう。
 白魔術は暴走させても、誰も傷つかない。だから便利だ。ルースが同じように魔力を暴走させたら、一国が滅ぶ。
 ほら、白いローブの賢者は唇を噛んで耐えている。
「ルース。あなたはあの方に負けないくらい、優しくて高潔よ。我が身を嘆くこともなく、ただ人々を殺してしまった自分の所業に憂い、こんな寂しい部屋で自分に罰を課してきた」
 屈みこみ、ルースの額に手を当てて、白く薄い前髪を抑え、黒ずみ皺だらけになった額に唇を当てた。
「そしてあの方を凌ぐほどに、可憐で美しい。白い衣の、本当の天使が舞い降りてきたみたい」
 髪は伸び、艶やかな金の光沢を放った。
 肌は白く澄み切り、皺は消え去り、絹のようなきめの細かい肌が現れる。
 驚きに見開かれた、女の子のような大きな瞳。吸い込まれるような、微かに灰色がかった、深い青。
 鼻梁は高く細く端正に。唇は薄く小さく高慢に。
 天使のように美しい、小さな顔。マリアはルースの白い肌にほんのり上気した頬を両手で包みこみ、衝動のまま、花弁のような可憐な唇を奪い取った。
「な……」
 慌てふためき、顔を真っ赤にした王子が、マリアを見ている。
 マリアは冷静だ。今度こそ、嫣然とした笑みを浮かべてやる。
「私はルースを救わない。もう一一〇年前の小娘ではないから、あの時のような不安定な感情をルースに持つこともない。でもルースが望むなら、せめて死ぬまではルースの傍にいてあげる。ルースの名前を、呼んであげる」
 細胞の中の、蝋燭は継ぎ足していない。ただ魔力の迸るまま、外壁を修復しただけだ。
 今こうして見ている前でも、髪は抜け、肌は黒ずみ皺が走り、ガラス人形のような精緻な顔が次第に醜く歪んでいく。
「ありがとう。約束だよ。僕は幸せだ」
 白いローブの老人は、また表情の解りづらくなってしまった老いた顔で、にっこりと笑ってみせた。

 マリアには、ルースの蝋燭の残量が見えていた。
 約束を交わしてわずか二日後、ルースはこの世を去った。
 外見だけを白魔術で若返らせた、天使のように美しいルースの遺体を前に、三人の兄たちは心から悲しんでいるようだった。
 今回も、救えるのに、救わなかった。殺されても仕方がない、構わないとさえ思っていた。
「弟の願いを叶えてくれて、どうもありがとう。最後にこの子の本当の姿を僕らに見せてくれてありがとう。こんなに綺麗な弟だったんだ、僕らは忘れかけていた。美しく、心の優しい天使のような子に、僕らは辛い思いばかりをさせてしまった」
 マリアは最後まで丁重に扱われ、第三王子のラファエルは感謝の言葉さえ述べた。
 おそらく、マリアが憎いのだろう。
 黒魔術の素養があるという、ラファエルの魔力が暴走していた。握手を求められ手を握ると、静電気のようにぴりぴりとした。ただ、ただそれだけだった。
 ラファエルはささやかな魔力を具えるだけの、幸せな黒魔術師のようだった。


 轢かれたヒキガエルの死体が、街路の端に落ちていた。煉瓦造りの道の上で、干からびている。
 遠い異国で、マリアは王国の末路を聞いた。
 第一王子のミハエルは父王を弑し、王位を簒奪して最後まで隣国と戦ったらしい。第二王子のウーリは王国を裏切り、隣国に下ったらしい。第三王子ラファエルの名前は聞こえてこない。
 ただ第四王子、『最強の黒』は、病死ではなく隣国の王に手ずから討ち取られたという。たぶんそれは、第四王子ルースではなく、かすかに黒魔術師の素養があったというラファエルなのだろう。
 伝統あるかつての大国の最後の王、ミハエルには、支配者となった隣国の歴史家が、相応の贈名を与えるだろう。反逆王か、愚乱王か、字面は違えようが似たようなそれを。
 当代の隣国の王は、まだ生きているにもかかわらず、民には獅子王と呼ばれている。
 ……そんな徒然は、マリアにはどうでもいいことだ。
 マリアはしゃがみ込み、内臓のはみ出たグロテスクなヒキガエルの死体に目を凝らす。
 人さし指を向けて、呪を込めた。
 ヒキガエルの身体を修復する。内臓が仕舞い込まれ、肌が繋がり、潤いを取り戻し、身体には緑の光沢を帯びてくる。蝋燭を作り直して、火を灯す。
 ヒキガエルは目を開けた。俊敏に起き上がり、ぴょんぴょんと跳んで行く。
「ルース、もう死ぬなよ」
 ヒキガエルは動きを止める。マリアの声が聞こえたかのようだった。
「ごめん、お前のことじゃないよ。ルースはカエルじゃないからな」
 何かから解き放たれたかのように、ヒキガエルはまたぴょんぴょん逃げて、ついに建物の死角に入ってみえなくなった。
 ……まだ当分、悲しみは癒えないだろう。
「ルース……」
 情けないと思う。
 思いつつ。
 マリアは道端で、そのまま膝を抱えて、しばらく小さくじっとした。


読んだよ!(拍手)


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