青い水底に揺れる街

 序章、真っ白な闇の中


 もともと研究室だったこの子供部屋には、無駄なものが何もない。天井も床も壁も真っ白な部屋には、勉強机もおもちゃ箱も二段ベッドも置いていない。窓すらない真っ白な箱部屋は、目を薄めると境など見えなくなって、壁どころか空も地面も存在しない無限の空間にいるように錯覚する。詩的な息子に言わせると、彼はいつも『真っ白な闇の中』にいるらしい。
 なるほど言い得て妙である。この部屋は愛する息子の大きな琥珀色の目にかけた、少し大掛かりな目隠しだ。
 白い部屋には、大きな水槽のような、上蓋を外したアイソレーターを置いてある。元々はこの部屋いっぱいに水槽を重ね置きしていたものだが、動物たちは順々に死んでしまって、息子だけが生き残った。総数三十匹にも及んだサンプルの中で、一番儚く脆弱に見えたアルビノの仔ネコだけが生き残るのだから、運命とは分からないものである。少なくとも、計算や確率で導き出せるものではない。
 研究が終了し、後は実地だけだった。実験用動物の必要のなくなった父は、一つを残して全てのアイソレーターを処分して、仔ネコを生かすことを決めた。ネコは半分ヒトの血を引いていたので、役所に養子にとることを申請した。
 本来、半分でもヒトの血を持った子供を動物として扱うことは、そもそも違法だった。だが先天的に免疫のないアルビノの仔ネコが、さして生きるとも考えず、そのまま実験に使用した。複数回の実験は、いずれも仔ネコの犠牲を想定したものだったが、か弱く見えた仔ネコはその全てを克服した。見かけにはわからぬ、本能的な生への執念。それは父に幾つかの興味深いデータをもたらした。そして実験用のネコが、あくまで法律的な意味であるが、自らヒトとしての身分を勝ち取ったと言える。
 水色のパジャマの子供が、アイソレーターのガラスに白い手をつき、父の方を見据えている。琥珀色の大きな瞳は茫洋としていて、ちゃんと見えているのかも疑わしいような視線だった。息子は心を凍らせてしまっている。それでも境遇を考えると、通常そんなものは壊れてしまうものであったから、息子はウイルスへの抗体ばかりではなく、心も強い子であるといえた。
 父は持ち運びのできる折たたみ椅子を、何もない真っ白な床に広げ、腰を降ろした。息子と向かい合い、本を拡げる。この場所は居心地がいい。あえて実地を急ぐ必要もない。長年没頭してきた研究が完成し、しばらくを充電期間とすることに決めた父は、この子供部屋でくつろぐことを日課としていた。アイソレーターに隔離してあるとはいえ、ヒトの子供の部屋なのだから、子供部屋である。
 以前はちょうどこの場所に、解剖台を置いていた。ここで発病した動物たちを開き、脳を拡げて観察した。その当時から、ガラス越しの隣に生きていた動物が切り刻まれていく様を、息子は同じ瞳で見つめていた。恍惚と戦慄の入り混じったような感覚が電気のように父の背中を走り、結局脊髄で縒り合わされて快感に収束する。父は息子を愛していた。
「パパ、僕、外に出たいな。もう病気じゃないよ」
 幼い声に父が目を向けると、息子は薄い唇の両の口角をほんの少し吊り上げて、甘えたような笑みの表情を作ってみせた。大きな琥珀色の瞳にも、可愛い尖がり耳にも表情を映さないものだから、それが紛い物であることはすぐに知れる。
「この間噛んだろう。まだ危ないな」
「違う。あれは、病気のせいじゃないよ」
 父は読み始めてもいない本を閉じ、息子を眺めた。
 冷たい石膏像のような整った顔をしている。一瞬見せた、可憐な作り笑顔は消してしまった。淡い飾り毛の生えた耳の先が、ゆっくりと伏せられる。ハーフの息子は、純血のネコのような大きな獣耳は持っていない。それでも活発に動く尖った耳は、大きな瞳よりもはるかに感情を垣間見せた。
「想像してみて。自分がネコの子で、真っ白な闇の中、狭いガラスの箱に入っているの。毎日毎日、イヌの子がやって来て、外の世界のことを話していくの。ボスイヌのジプも、お向かいのセンセイも、飼い主のリコちゃんも、不良のリーリも、見たこともないのにみんな知っている。クリスマスにリコちゃんにもらったマルツィパンのお菓子細工を、自分にくれる。連れ出して逢わせてくれるって、耳元で囁く。パパならどうする、そんなとき、目の前にイヌの子がいたとして」
 なるほど、残酷な想像しか浮かばない。息子を病んでいるというならば、父も病んでいるということか。
 父は神を信じてはいなかったが、科学者らしからぬことに、宿命の存在を信じていた。奇跡には、すべからく意義がある。息子が、今ここに生き延びている。それ自体が奇跡であった。
 何を思い何をしようと、それが息子の意思によるものならば、父は咎め立てするつもりはなかった。運命に選ばれた息子には、その権利がある。だがウイルスに脳が支配されての行動だとすれば、それは醜い姿である。
 父は立ち上がり、椅子をたたんで床に寝かし、その上に本を重ねた。アイソレーターまで行くと、上から中に腕を伸ばし、仔ネコの頭をくしゃくしゃに撫ぜた。柔らかな髪が反発もなく乱れ、仔ネコが迷惑そうに眉根を寄せた。不機嫌な顔にもめげず、父は両腕を突っ込んで、仔ネコの頬に手を伸ばす。白い肌は氷のように冷えていると思っていたが、丸い輪郭を両手で包むと、しっとりと汗ばんで熱かった。
「なに?」
「今噛まれたら、私は死ぬかもしれないよ」
「嘘つき。発病する前なら、ワクチンで治せるくせに」
「そんな生易しいウイルスの研究をしていたわけじゃない。感染したら、五割以上の確率で、私は死ぬよ」
 薄い唇に指を差込み、父は仔ネコの口をこじ開けた。白い、尖ったかわいい牙が覗く。口の中は綺麗なピンク色だ。ざらざらとした薄く長い舌が、コンパクトに収納されている。咽喉に、特に麻痺や痙攣などの症状はない。唾液も正常、まるで健康体だった。
 そもそも発病していたら、こんなにも落ち着いて目の前をうろつく獲物をやり過ごせるはずがない。
「噛まなかったね」
 仔ネコの白い頬で指の唾液を拭く。一瞬険悪な視線を感じたがすぐに外され、白い顔から表情は消えていた。
「もう病気じゃないもの。ねえ、僕が死ぬ確率は、何割だったの?」
「限りなく十割。ウイルスに変異が起こって、彼らが共食いを始めた。そしてその変異が、ウイルス間で拡大した。そんなことが君という個体において起きたのは、まさに奇跡だよ」
 ようはウイルスを殺すには、同種のウイルスを使うのが一番効率的なのだ。
「五割じゃ、分が悪すぎる」
 頬が濡れて、てらてらと光っていた。不思議と汚れや淫らさとは結びつかず、清浄で高貴に見えた。
「わかった、自由にしてあげよう」
 息子の脇の下に手を差し込み、アイソレーターから抱き上げた。軽い。この小さな存在が、奇跡の結晶なのだ。
 驚いて耳を立て、目を瞠る息子の顔が可憐である。
「本当に?」
「ああ、外の世界を見てきなさい」
 笑いかけると、息子は見開いた瞳を柔らかく細めた。
「パパ、ありがとう」
 蕩けるように綺麗な――しかし一目でそれと知れる――作り笑顔を、息子はにっこりと父に返してくれた。



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