青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(5)


 一日のお休みのはずが、ジプの鶴の一声で、カフェは長期の休業になってしまった。昼夜逆転の生活から一転、リコは夜に寝て朝早くに起きる、健全な生活を送っている。
 ジプはなぜ、突然カフェを閉めることにしたのだろう。ボスイヌのジプは、方針を決定し、命令をするが、そこに至る過程を説明したりはしてくれない。ドッグタウンのイヌたちも、それに疑問を感じる様子もなく従うのだ。
 リコとてジプの決めることに逆らうつもりなど毛頭ないのだが、多少の想像は巡らせてしまう。アリウムのせいかもしれない。店で死人が出たのだ。一日の臨時休業で収まるはずがない。リコだったら、しばらく店を休むのはむしろ当然だ。あるいは吸血鬼のせいだろうか。センセイの話を真に受けたのかもしれない。吸血鬼がいるとすると、夜に店を開けるのは危険だった。
 考えうる理由はいくつもあって、それはどれもリコの感覚では納得できるものだ。だけどどこか、ジプにはそぐわない気がした。
 ジプは極端に現実主義者だ。死んだアリウムのことなど気には留めないだろう。一日休んだのだって、リコの癇癪に気を遣っただけだと思う。まして吸血鬼など。鼻で笑うジプの顔が、いやにリアルに浮かんでしまった。
 リコは、面倒は嫌いだった。しかし暇を持て余せる性分でもない。
 堂内は、掃除しつくしてしまった。石床は磨き上げられ、大理石もかくやと自賛したくなるほどにピカピカに光り輝いている。テーブルや椅子も、ニスを塗ったかのようにつるつるだ。手の届かない高い部分にも、テーブルを台にして上り、箒に雑巾を引っ掛けて、できる限り拭いてみた。さすがに天井には届かないが、場末な雰囲気はすっかり洗い清められ、灯りを増やしたわけでもないのに堂内が明るくなった気さえする。再開時には、料金を割り増せるかもしれない。
 洗面所も、配水管までブラシを突っ込んで擦ってやった。得体の知れない黒い物が逆流してきて、面食らった。汚染の元凶は、このように目に見えないところに潜んでいるものなのだろう。
 全てが終わってしまい、リコは椅子の一つに座り込む。店を閉めて、一週間目の午前中だ。
 ジプは煙草を吸ったり、お酒を飲んだり、日がな自堕落な生活を送っている。レイディは日なたとともに居場所を変えながら、一日中、まどろみの中にいるような呆っとした顔で過ごしていた。二人とも、退屈や手持ち無沙汰といった感覚は、持ち合わせていないようだった。
「ねえ、ジプ。夜に開けないんならさ、ランチやらない」
 ジプはストレートのウィスキーを呷りながら、鈍い視線をリコに向けた。アルコールに鼻上までも浸かっているような、意識の不確かな眼だ。ジプはアルコール中毒だったが、自分を失うような飲み方はしなかった。少し、心配だ。
「構わないけど、客は来ないよ」
「どうして」
「夜は外出禁止、昼間も極力外に出ないよう、通達してある。リコと一緒だよ」
「そっか」
 この三日間に会った者といえば、ジプとレイディと、あとは食料を差し入れに毎日寄ってくれる、センセイの三人だけだった。ジプはたまに、物資の調達のために外に出る。しかしリコは、ずっと教会の中に籠っている。聞けば街中がそんな状況らしい。
 リコはしょげてしまった。それではしばらくはランチをやっても無駄骨だろうし、しばらくが終わって外出禁止が解かれたら、また粗利の大きい夜のバーに戻ったほうがいい。
「ねえ、リコ。あんたのいわばボスは、私よね。私を好きか、嫌いかは別として」
「あたし好きだよ、ジプのこと」
「まあ、お利口さん」
 ジプは、またウィスキーを一口呷ると、いつもの酷薄な笑みを浮かべた。目が据わっているので、普段以上に危険に見える。
「もしもリコが、五十七匹の飼いイヌたちと、ボスの私、どちらかしか選べないとする。見捨てられた方は、死んじゃうの。そしたらどっちをとる」
「あたしの飼いイヌとして登録してるのは、百匹以上いたと思うけど」
「今は五十七匹しかいないのよ」
 ジプには珍しい、抽象的な話だった。
「ジプを選ぶに決まってるじゃない」
「……だよね。ごめんね、変なこと言って」
 三角耳をぺたりと後ろに倒し、ジプはくすぐったそうに、珍しい表情を見せた。
 ジプは理由もなくこんな話をするようなことはないから、何か悩んでいるのだろう。しかし、それを追究するようなことには慣れていなくて、リコは迷っているうちにそのタイミングを失った。



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