青い水底に揺れる街

 四章、レキ(1)


 軽くて熱い、小さな質感を背負って、リコはドッグタウンの大通りを歩いていた。夕刻になると、乾いた空気は肌を刺すように冷たい。首筋を湿らすレイディの吐息が、こちらは逆に熱すぎる。
「レイディの正体って、なんなの?」
 リーリのマンションの部屋に取り残されて、リコはレイディに訊ねたのだ。
「実験動物」
 得られたのは、吸血鬼よりも予想できなかった答えだった。しかし一瞬の思考の空白を挟み、リコはストンと納得した。世間知らずも、感情のなさも辻褄が合う。免疫、発症、ウイルス。そんな聞き慣れない言葉をこのレイディが口にすることができたのも、説明がつく。
 残酷だ。レイディが高慢にも見える矜持を保っていられるのは、ひとえにレイディの強さだろうか。青い顔でレイディは気丈に振る舞い、枕カバーをよじってリコの腕をきつく結んだ。為されるがままになりながら、吸血鬼の血が体に巡らないよう絞ってくれているのだと、リコは遅れて理解する。自分は血まみれになりながら、手の甲を噛まれただけのリコの応急処置を済ませると、レイディはパタンとリコの胸に崩れてしまった。
 リコは今、レイディを負ぶってドッグタウンを歩いている。病院が、医者が要る。理屈も感情も関係ない。リコたちを見捨てて街を出て行ってしまった、センセイが必要だった。
 赤レンガのセンセイの家は、一週間前と変わらぬ佇まいを見せている。花壇は雑草が増えただろうか。項垂れた、スノードロップの少し哀しい花が、今は怯えているように見えた。雑草を抜いて水をくれて、護ってくれる人は、もういない。
 ドアを引くと、鍵は掛かっていなかった。外観とは違う、白く潔癖な空間は、片付いたまま生活観だけが消え失せている。表通りよりさらに、空気が冷たい気がしてしまう。
 懐かしいダイニングキッチン。一度だけ入れてもらって、センセイと一緒に紅茶を飲んだ。つい一週間ほど前のことなのに、それがもうずっと昔に思えてしまう。リコの作ったお菓子のレキが、変わらず青いホルマリンに漬かっている。スノードームに少し埃が被っていた。
「二階……」
 吐息とともに耳に触れた、仔ネコのか細い命令に従い、リコは階段を登る。階段の途中で、レイディがリコの首に強くしがみついた。
「誰か、いる」
 仔ネコの言葉に、心臓が騒いだ。センセイだろうか。いてくれたら、そう思っていたが、本当にいるとは思っていなかった。好悪の判断のつかない自分の鼓動に落ち着かない思いをしながら、リコは二階へ辿り着く。
 敷居の何もない、真っ白な大きな部屋だった。眩しいほどに何もなく、距離感を失いそうな空間だった。ガラス製の大きな水槽が、一つだけ部屋の真ん中においてある。他には、見たことのある折りたたみ椅子。センセイがリコと紅茶を飲んでくれたときに使ったものだ。そこに今は、センセイではなく、レイディと同じくらいの小さな子供が座っていた。足を行儀よく揃えて膝に握った手を置いて、じっとリコを見上げている。大きすぎる白衣を纏い、絨毯のように椅子の足で裾を踏んでいた。
 レキだ。もともと強靭ではない、リコの思考回路は完全にショートした。
「リコス・パーシコン、レイド・モモ。待ってました」
 白衣の裾を巻きながらレキが立ち上がり、リコのもとに歩み寄った。レキの声に、似てはいる気がする。しかし、酷い違和感だった。レキは『リコちゃん』と自分を甘えて呼んだし、なによりレキの言葉には、いつも眩しいほどの感情が溢れていた。声だけがレキ。そこにいるのは、機械か何か。そんな気がする。
「手当てします」
 両手を差し出されて、リコはレキにレイディを渡した。仔イヌが仔ネコをふらふらと抱き支える。人馴れしないレイディには珍しく、レキに身を預けて為されるままになっていた。体力が足りないのだろう。しかしそれを差し引いても、レキに心を開いているのだと思う。
 レキはそっとレイディを床に寝かすと、上着を脱がせた。
「包帯とか、取ってきます」
 血まみれのジャケットをそのままレイディに被せ、レキは淡々と出て行った。階段を降りていく音を聞きながら、リコは少し呆然とする。
 レキの様子はおかしい。そもそも、レキがここにいるのもよくわからない。それでも、レキに任せてしまってもいいだろうか。限界なのだ。リーリに噛まれた、手の傷が痒い。レキの置いていった折りたたみ椅子に座り込み、リコは寝息を立て始めたレイディを眺めた。


 レキの手際は、的確に見えた。レイディの服を脱がし、大きな傷に怯むこともなく、首を消毒液を染み込ませたガーゼで拭いた。細い糸を通した針を、躊躇する様子も慌てる様子もなく、レイディの首元に通していく。レイディは為されるがままに、目を瞑って寝ているかのようだった。だがよく見ると、時々耳をピンと強張らせ、我慢しているのがわかる。レイディは痛みに強い子なのだ。実験動物。レイディの言葉を思い出し、辛い気持ちになってしまう。
 真っ赤な傷が、レキが針を通すたび、次第次第に閉じていく。もともと器用な子ではあったが、レキには危なっかしいイメージがある。それなのに目の前のレキはひどく落ち着いて冷静な様子で、かつてのレキとは重ならない。
 縫合が済み、ぱっくり開いていた噛み傷が、赤い二本の弧になった。むしろリーリの噛み合わせが、浮き出た気がする。レキはその上に丁寧に包帯を巻きつける。首の傷の処置が終わると、レキは淡々とレイディの腕の傷の手当に移行する。
 リコはレイディの手際を、折りたたみ椅子に身を預けたまま、黙って見ていた。手伝うべきとは思いつつ、何もできる気がしないし、一度気が抜けるとまるで力が入らない。
 一通り手当てを終えると、レキはレイディの頭の下に枕代わりに服を押し込み、また階段を降りていった。何もせずに待っていると、レキはどこからか布団を運び入れてきた。涼しい顔をして、レキは水槽に、布団を畳んで敷き詰め始めた。
 水槽の中をベッドのように整えると、今度は眠ったレイディを、レキが手に余しながら引き起こす。仔ネコは薄目を開けて呻いたが、耳を揺らして、また眼を閉じた。
「リコス、手伝ってくれませんか」
 他人行儀にレキに呼ばれ、ようやくリコは立ち上がった。疲れているだけでどこか悪いわけではない。無理やり叱咤すれば、身体は正常に動く。
 レキはレイディを水槽に入れたいようだった。何も考えず、リコはレイディの脇の下に手を差し込んで持ち上げて、水槽の布団に寝かせてやった。小さなレイディは、体を横にしてちょうどガラスの水槽に収まった。
「なんか、まるでおとぎ話のお姫様みたいね」
「はあ」
 片眉をわずかに跳ね上げて、レキは気のない生返事をくれた。昔のレキなら、男の子のくせに恥ずかしげもなく、この手の思い付きを自分から振ってきたくらいだというのに。エプロンを新調したときに、不思議の国の女の子みたいなどと言われたことを思い出し、リコはため息をつく。
 さてレイディは、真っ白な綺麗な顔も相まって、まるで本当に眠り姫のようだった。この手のお姫様は、王子のキスで目覚めるものだ。小さい頃、ジプがやる気のない語り口でたくさんそんな話を聞かせてくれた。
 あとでキスしてやろうか。レイディは怒るだろうか。普段のレイディの傍若無人ぶりを考えると、そのくらいで怒られる謂れはない気がする。
「リコスは、どこか怪我をしましたか?」
 訊かれたので、リコスは右手の甲を見せた。噛み傷に、仔イヌはわずかに眉根を寄せる。
「感染者に噛まれたのですか?」
 リコは黙って頷く。一週間で、リコは吸血鬼になるらしい。その前に、リコは死に場所を探さなければいけない。
「一週間くらいで、あたしも覚醒するんだって。レキ、あたしを……」
 レキは、リコを殺してくれるだろうか。レイディを引き取ってさえくれれば、それが一番いい気がする。
 言葉が詰まって、目頭が痛くなる。情けないが、死ぬのが怖いのは、仕方のないことだろう。
「じゃあ、噛まれたばかりですね。ワクチンを探してきます」
 平板な口調で引き取ると、レキは再び階段に向かった。
 ワクチン。まるで治療法があるような口振りだった。レキの背中を見送って、リコはまた、どっと疲れを感じた。折りたたみ椅子を水槽の傍に寄せ、座り込む。水槽の縁に腕を掛け、頬を乗せて、中を覗いた。眠り姫は深い眠りについている。リコもゆっくり瞼を落とした。


 腕に鋭い痛みを感じて、リコは眼を覚ました。右腕に、レキが注射を挿していた。
「起きましたか? ごめんなさい、寝てるうちに済ませてしまったほうがいいかと思って」
 いかにもイヌらしい思考だ。どうせ注射されるのだ。覚悟なんて、お互い面倒なだけだろう。『ワクチン』なのか毒薬なのかわからないが、どちらにしてもリコは感謝をしなくてはならない。
「大丈夫、続けて」
「はい」
 言われるまでもないというように、レキは注射器の液体をリコの腕に注入した。熱いような痒いような不快な感覚。リコは溜息をつくことで、誤魔化す。見回すと、透明なシャーレに青い液体が張られ、白い油のような欠片が浸されていた。青い液体は、たぶんホルマリンだと思う。
「あれが、ワクチン?」
「はい。説明しましょうか」
「いらない。もう一度、寝ていいかな?」
 表情もなく頷いて、レキはリコから視線を外した。黙って、器具の片づけを始める。
「明日からも、一日一回、ワクチンを接種します。ワクチンはウイルスを薬品に漬けて不活性化したものなので、ある程度副作用は出ると思います。でも充分治ると思いますから」
 早くも、軽い嘔吐感を覚えた。唾液を飲み込み、我慢する。治ると。小さなレキがあまりにあっさり言うもので、まるで現実感が伴わない。アリウムが、リアトリスが、リーリが。レキ自身だって、苦しむ姿をリコは目の当たりにしていた。
 ただ、死ぬ方法を考えなくて良くなったことが、救いだった。

 まどろみにつき、リコは気が狂うかと思うほどにうなされた。恐怖と狂気が歪んだ夢で暴発する。レキやリーリがリコに襲い掛かってきた。ジプやレイディをリコは噛み殺した。センセイがその様子を眺め、冷笑している。げっそりとしたレキや、血まみれのレイディが、無表情に、それなのに恨みがましくリコを見つめている。死んだ人が生き返り、生き返った人が痩せ衰えたり、血を流したり、怯えたり狂ったりする。夢の中で繰り返し繰り返し、リコは彼らに襲われたり、彼らを殺したり、彼らを見捨てたりした。
 ざらりと、濡れた温かい感触を唇に感じた。はっとして眼を開けると、レイディが起き上がり水槽から顔を出し、リコの唇を舐めていた。
「う、移るよ」
「移らないよ」
 ほっとして、リコは間抜けな言葉を発する。レイディは呆れたように、大きな目を憎たらしく細めた。
 まだ、気分は悪い。しかし眼を覚ましたリコの精神は、正常だった。
 リコの様子を確かめると、レイディは水槽のベッドにひっこんで、すぐに丸くなってしまう。うなされるリコを助けてくれたらしい。だからといって、なぜリコの唇を舐めるのだろう。あまり気安く唇を奪わないで欲しい。
 そんな夜が、一週間続いた。毎日、レキがワクチンの注射をしてくれる。
 悪夢を見ることはいつの間にかなくなって、二週間が過ぎてもリコは吸血鬼にはならなかった。



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