飛べない天使
格子を縫って、光が漏れる。
朝だ。空が真っ青で、風が運ぶ、若葉のにおいが心地よい。
鳥たちが翼をいっぱいにはばたかせ、空の高く、高くへ飛んでゆく。
神様は残酷だ。
くださるつもりがないのなら、初めから青い空など、見せてくれなければよいのに。
翼なんて知らなければ、憧れることもなかったのに。
暗い岩穴の牢獄で、今日も少女は細い朝陽を浴びる。青い空も、風も、翼も。少女の手には届かない。
茶色い洞穴を、陰陽に、縞々に彩る光の帯は、悲しいほどに愛しくて。ただ毎日、切なさのつもるばかりだった。
空を求めて、格子から伸ばした少女の手の先に、触れるものがあった。
くすんだ色の草むらに隠れて。指先に触れる。硬質な。丸い。
大きなものと小さなもの。縞々模様とまっさらな。
神様が、卵を二つ、贈ってくれた。
やわらかな光の春が過ぎて。
強い光の。同時に格子の影も深くなる夏が終わり。
少女は卵を抱きつづけた。
空を見上げ、片時も離さず卵を抱いた。
格子を通し、いくつもに寸断されて、悲しかった空の色が、とても、とても幸せに見えた。
緑が枯れる秋が過ぎて。
外の世界は真っ白になった。
寒くないよう卵を強く、壊れないようやさしく、やさしく、少女は卵を抱きつづける。
もしかして卵はかえってくれないんじゃないかと、急に心配になってきた。
あいもかわらず空は青いが、高く高くに、遠くに見えた。
また、春がきた。
また、朝がくる。
目を覚ますと、雛を二人、抱いていた。
縞々の大きな卵からは大きな子が、まっさらな小さな卵からは小さな子が。
小さな子はつぶらな瞳で少女を見上げ、大きな子はナマイキな目つきであさっての方をみやっている。
うれしくて、うれしくて。
言葉もなしに、少女は顔をほころばせた。
小さな方を『ソラ』と、大きな子を『ツバサ』と名付けた。
二人の雛は、少女を阻む格子の隙をやすやすと通り、光の大地を駆けずった。
そんな二人を見ているだけでも、少女は十分に幸せだったが、小さなソラはやさしくて、いちいち戻って、出られぬ少女を慰める。
ご飯を探しに行く以外、ソラはいつでも少女のそばに寄り添った。
大きなツバサは意地悪で、出られぬ少女に目もくれず、これみよがしに春の大地を駆け回る。
そんなツバサを見るのさえ、楽しくて楽しくて、幸せすぎて。春が過ぎるのさえ気づかなかった。
春が過ぎ、夏がきた。
ソラは小さいままだけど、ツバサはどんどん大きくなる。
あいかわらずソラはやさしくて、ときおり緑の葉っぱや、彩とりどりの花を摘んでは、少女のもとに持ってきた。
ようやく羽が、まだらに生えてきたツバサは、飛ぶ練習をはじめた。
あいもかわらず少女の方へは目もくれず、翼を広げ、空へ向かってはばたいている。
必死に翼を広げても、羽の生えそろわないツバサはいつも木から落ちていた。
ツバサの一生懸命な様子を見るのはうれしかったが、ツバサが遠くへ、空の彼方へ行ってしまいそうで。それがとてもさみしい。
ツバサが落ちるたびに、けがをしないかと目を覆いながらも、どこかほっとしてしまう。そんな自分に、少女はひどく嫌悪を感じた。
そんなとき。そんなときを見計らって、ソラはいつもなにかをくれる。
極彩色の花びらをくわえ、首をかしげる小さなソラがかわいくて、少女は思わず笑ってしまった。
この夏、ツバサは結局飛翔することができないままだ。
だけど青い羽毛に包まれたソラは、いとも簡単に飛んでしまった。羽虫のように翼を震わせ、矢のように鋭く。
鮮やかな緑をくわえた小さなソラが、まだらなツバサの前を行き過ぎる。
秋が来て、ツバサもいよいよ空を飛んだ。
悠々と空を旋回するその飛影は、さながら竜のごとくに勇壮だ。
茶色い立派な羽毛に包まれた、ツバサはしかし、空の彼方へ去ることははない。
あいもかわらずこれみよがしに飛び回り、しかして少女の側から離れようとはしなかった。
時折小ねずみを捕らえては、いちいち少女に見せにくる。
意地悪なツバサは、そんなときだけ格子をくぐり、わざわざ獲物を、少女の前で殺してみせた。
小ねずみの、悲鳴が怖くて、血が恐ろしくて。いつでも少女は目を瞑り、耳を塞いで、牢の隅で震えていた。
血痕をのこしてツバサが出て行った暗い穴で、いつもソラが、やさしく少女を慰める。
そんな日々が毎日続いた。そうして秋も、過ぎていった。
冬が来て、ご飯が少なくなってくる。
小食のソラも、獲物を探しに留守がちになり、少女の相手はツバサばかりになっていた。
ツバサの成長は止まらない。どんどん大きくなってゆく。やがて、格子の隙を通るのが、ひどく窮屈になっていた。
もう、入ってこなくていいよ。出られなくなっちゃうよ。
少女をいじめるためだけに、ひどく骨折って、格子をくぐって食事にやってくるツバサに、毎日少女はそう言った。
けれどツバサは、それでも牢に入ってくる。それどころか、牢から出て行くことがなくなった。
岩穴の中に居座ったまま、いつしかツバサは、格子をくぐることが叶わぬほどに大きくなり、食事探しは、ツバサの分までソラの仕事になっていた。
風が吹く。雪も降った。
毎日毎日、せっせとソラは餌を運んでくる。夏に花びらをくわえたソラの小さなくちばしは、今はひっきりなしに、しなびた虫けらを運んでいた。
それでもご飯は足りなくて、ソラも、ツバサも、しだいしだいに痩せてゆく。
ツバサはあいかわらず意地悪で、近くにいるのに、少女は触らせてはもらえない。
ソラは痛々しいほど忙しそうで、やはり少女の相手をするほど暇ではなかった。
なにもできぬ自分の非力を、食せずとも生きられる自分の体を、少女はただただ悲しく呪いつづけ。
やがて冬も、暮れていった。
早春の。空が虚しいほどに青く抜けた朝だった。
残雪の中にようやく芽吹いた、若葉の傍、ソラが倒れていた。
格子の小さな隙間から、少女は必死に手を伸ばす。わずかに少女の指先は、ソラには届かず、ただ空しく空を切る。
ようやく冬が終わったのに。プックリ太った虫をくわえて。倒れるくらいにお腹が減って、どうして自分で食べないのだろう。
目の前で悲しくわななく少女の指に、ソラはわずかに目を輝かせ、声ならぬ声で小さく鳴いた。
一日、丸一日必死に格子の隙から腕を伸ばし、ようやく少女はソラのくちばしの先に触れる。
格子の当たる肩を血色に染めながら、ようやく届いたソラのくちばしは。春なのに、雪のように冷たかった。
その春、ツバサはやさしかった。
ソラが乗り移ったかのように、ツバサは少女にやさしく寄り添い、なき濡れる少女を慰める。
白い雪の毛布が剥がれ、大地が緑に色づく中、閉じ込められた少女とツバサは、ただ風化するソラを眺めつづけた。
届かぬソラを飽くなく眺め、はばたけぬツバサをただ抱きしめて、春はしだいに過ぎてゆく。
ソラが動かなくて、食べるもののなくなったツバサは、春の終わり、少女に抱かれ。空腹で死んだ。
ツバサが死んだあくる朝、牢が開かれた。
格子が取り除かれ、切り分けられていた空が、初めて一つにつながった。
神様、どうして開けてくださるの?
きみの刑期は終わりだよ。今、翼を返してあげよう。
翼をなくした堕天使は、罪をあがない、白い翼を返された。
空を飛べる。だけど一人で、空を飛ぶ気になれなかった。
翼持つ天使は、空を飛ぶことはなかった。
格子の外れた牢の中、飽くなく空を眺めつづけた。