周瑜嬢

2、見栄を張ってもCが限度だ(by孫策)

「うーん……」
 吐血して死んだかと思ったが、どうやらまだ生きているらしい。
 周瑜は体が重いような軽いような、不思議な感覚で目を覚ました。おそらく、何日も寝込んでしまったに違いない。本当に死んだかと思うような深い眠りに落ちてしまい、時間感覚がまるでない。体の軽さは、衰弱したのであろう、肉が落ちてしまったのだと思う。体の重さは、その分筋肉も落ちたのだろう。
 ただ気になるのは、異様な胸の重みである。仰向けでいると息が苦しい。一命は取りとめたものの、無理が祟って心臓に病を患ってしまったのだろうか、そうだとすれば残された時間はやはり少ない。
 その割には、気分は悪くなかった。休息を取ったためだろうか。倒れる前よりも体の奥底から湧き出す活力を感じる。二十年ほど、若返ったかのような爽快さである。
「お姉ちゃん、目を覚ましたの!?」
 お姉ちゃん呼ばわりする子供の声を、周瑜は半覚醒のまま半ば無意識に殴った。手応えがあって、うめきも聞こえた。
「……孫権様ですか?」
 まだ意識と視界のはっきりしないまま身を起こし、周瑜は呟いた。お姉ちゃん呼ばわりした悪ガキの声は、主君孫権に良く似ていた。ただし、幼い頃の孫権である。ともすれば、太子か姫のうちの誰かだろうか。
 それにしても胸が重たい。そんなことを思いながら寝台の横に目をやると、周瑜の記憶にない娘が頭を抱えてうずくまっていた。恨みがましい涙目で、周瑜のことを見上げている。
 十四、五くらいか。かわいい顔は、幼い頃の孫権とうり二つである。あんまりかわいい顔をしていたもので、権の兄、孫策と一緒に、小さい頃はよく女装をさせて苛めたものである。碧眼児と呼ばれた孫権と、姫は同じ不思議な青い瞳を持っていた。
 しかし主君の隠し子としては年齢が合わない。もしも孫権の子だとすれば、十代前半で作ってしまったということになる。ありえないとはいうまい。だが少女にこの眩いばかりの金髪をもたらした異民族の女を、あの頃のかわいかった孫権が手込めにしていたなどと、あまり想像したくはない。
「姫、申し訳有りません。私は周瑜と申します。姫のお名前を伺ってもよろしいですか」
 詮索は頭の中だけに留め置き、周瑜は極上の笑みで取り繕った。寝起きざまに殴り付けた詫びなどおくびにも出さない。縁あった多くの女性の例に漏れず、金髪碧眼の姫君も、とろんと魅入られたような顔になる。白い頬を赤らめる、可愛らしい表情だった。
 周瑜自身の声が、異様に上ずっている。喉もやられているのだろうか。それにしては澄んだ声で、まるで他人の声を聞くようだった。
「あ、あの、孫権です、お姉様」
 今の孫権は三十前のおじさんだ、間違っても可愛い姫君ではないだろう。お姉様。『ちゃん』を丁寧にされてしまった。殴られた理由が分かっていないらしい。
 もう一度殴ろうとして、周瑜は違和感を感じて固まった。殴ろうとした、自分の拳がおかしい。おそるおそる握り拳を解いてみる。色白なのはもともとだが、なんだろう、この小さな手は。女のような細い指は。衰弱したというには、きめ細やかな肌には張りがあって美しすぎる。
 ふと重くてたまらない胸を見下ろしてしまい、周瑜は卒倒した。
「お、お姉様、どうしたの? お兄ちゃん呼んでくる!」
 慌てふためく姫の声が遠くに聞こえる。自己紹介どおり、その声は幼い頃の権にそっくりだった。


 次に目を覚ました時、そこにはとっくの昔に死んだはずの幼なじみの顔があった。
 孫策、字を伯符。強くて馬鹿で無鉄砲であっさり早死にした、周瑜の三十六年の生涯で、唯一無二の親友である。
「大丈夫か? 目覚まして、また気を失ったらしいが」
 見ると孫策も若い。そもそも若くして死んだが、当時以上に若いのだ。十七、八だろうか、ありし日の少年のような精悍な顔に、独特の不敵な笑みを浮かべている。
 ああ、自分は死んだのだ。二度と会えないはずの懐かしい顔に再会して、周瑜はストンと納得した。残してきた主にはかわいそうだが、孫策に会えたのは素直にうれしい。ともすれば金髪の少女は、周瑜の孫権に対する心象なのかもしれない。いつまでも子供扱いどころか、無意識にかわいい妹のように思ってしまっていたらしい。
 度々容姿のせいで女扱いされ、生涯腹を立て続けてきた周瑜としては、孫権に対して悪いことをしてしまったな、と思った。案外恨まれているかもしれない。
「ずいぶん楽しそうだな」
 思わず一人で笑っていると、不意に孫策に嫌味を言われた。言葉そのものよりも、その言い方に腹が立つ。偉そうで甘やかで、まるで女に対するような口調であった。
「伯……」
 友の字を呼ぼうとして、周瑜は『符』の音までを口にすることができなかった。口に手を当て、そのまま喉を抑える。子供のような、いや、……女のような、高い声。気を失う寸前に見た、恐ろしい記憶が甦る。
「俺は孫策。姓を孫、名を策」
 知っている。江東の小覇王、なんて呼び名は格好良すぎて、本当はただの無鉄砲なお調子者だ。
「お前の名前は?」
「……周瑜」
 なぜ、孫策が自分の名前を知らないのだろう。
「とすると、名前は『ユ』か。一文字だと呼びにくいな。カ、キ、コ、どれがいい?」
 昔のように、字で呼んでくれれば構わないのに。そう思いつつも、策に構っているどころではない恐怖の記憶が、周瑜の思考を支配していた。周瑜はそっと、おそるおそる視線を自分の胸元に下ろした。
「個人的には『コ』なんてギャップがあっていいと思うんだが、『カ』も捨て難いよな。『キ』だと、なんかそのままって感じでよくな」
「じゃあ、キ。うるさい」
 目の錯覚かもしれない。ぶかぶかの寝着であるから、そもそも身体の線を正確に映すはずがないのである。周瑜は意を決して、おかしな風に見える自分の胸元に手を伸ばす。
「なんだよ、冷たい。じゃあ、ユキって呼ぶな」
「策!」
「ハイ!」
 自分の胸に両手を当てて、周瑜は友の名前を呼びつけた。
「胸が、胸が大きいんだ……!」
 もう何が何やらわからない。どうしようもなくて、涙が溢れて止まらない。
 孫策はきりりと、真剣な顔をしてみせた。精悍な顔は、男の周瑜の目から見てもほれぼれするほどに凛々しい。そう、周瑜は男のはずである。不意に孫策は周瑜の胸元に手を差し入れて、膨らみに被せるように掌を当てた。
「大丈夫、まるで大きくなんてないぞ。せいぜいB、見栄を張ってもCが限度だ」
 策の行動と言葉に、理由も考えたくないような怒りと嫌悪が湧き起こり、周瑜は孫策を力いっぱい、ほとんど殺意を持って殴り付けた。周瑜の渾身の一撃を受けても、策は手を引っ込めて少しよろめいただけだった。目を逸らして視線を泳がせながら、平然とした顔で殴られた頬をぽりぽり掻いている。
「気のつえー女」
 ぼそっと呟いて、策は頬を掻いていた人差し指を――周瑜の胸を触った手の人差し指を――、ぱくりと口に含んだ。
「策の大馬鹿野郎、大っ嫌いだ!」
 感極まって叫ぶと、周瑜の渾身の一撃を受けたよりも孫策は大げさに怯んでその場に尻餅をついた。隙を見計らい、孫権が兄の背中に蹴りを入れていた。
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