ポドールイの人形師

1-3、赤衣の魔女

前へ | 次へ | 目次へ
 ロアンヌ帝国皇帝。それは選帝会議によって選ばれる。
 ラ・ヴィエラ家が王家として帝位を継承してゆくのは、ロアンヌ数百年の歴史の中ですでに既成事実化していたが、それでも法典上は選帝会議を構成する七人の選帝侯によって、制約なく代々の皇帝が選ばれることが明文化されていた。実際にその影響力は確固として存在し、長子相続が原則のはずのロアンヌにおいて帝位についた現皇帝が、次子のミカエル・ド・ラ・ヴィエラだというのも、選帝会議の意向だった。
 ロアンヌ譜代の四人の有力な侯爵、教皇庁より選任された大司教二人――彼らは聖職者であると同時にロアンヌにおける大地主でもある――、そしてその力を怖れられ、選帝侯に封じられた赤衣の魔女。ロアンヌ帝国の選帝会議は、この七人の選帝侯によって構成されている。
 赤衣の魔女、ドロティア。彼女は大いなる不条理の力を操る術士であると共に、このロアンヌで皇帝に次ぐ権力を持つ、七選帝侯の一人でもあった。

 先に行ったナシャを追いかけ二階の宙廊から下をのぞくと、門が今まさに、軋みをあげて開きはじめるところだった。自動で開くからくり扉の向こうから姿を現したのは、佇む赤衣の魔女。真っ赤な長衣姿は、確かに魔女という風体ではあった。扉が開くにつれて漏れ入る雪の白い反射光につややかな銀の髪を洗わせる立ち体は、息を呑むほどに美しい。
「あら、ナシャ。ジューヌはいらっしゃる?」
 階段を下りてゆくナシャに、魔女ドロティアは挑むような口調で話しかけた。
「ジューヌはいないわ」
「あーら、そう」
 自動で動く群青の身廊に乗り、銀髪の魔女が流れよってくる。
 閉まりゆく扉とともに白い後光が消えゆくにつれて、衣の赤と、暗色の肌の色が静かな暗がりにしだいに沈み、ドロティアの美貌は秘密めいた妖しさを醸し出す。
「ジューヌがいないのなら、なんであんたが動いているのかしら」
 流れる身廊に階段の手前まで連れてこられたドロティアは、三段ほど高くに構えるナシャを睨めあげた。
 ジューヌがいないのになぜナシャが動いているのか。ドロティアはナシャの繰り手がジューヌだということを知っているらしい。返事に窮したナシャは、あいかわらずの浮き上がるような静かさで階段をあとずさる。
「それより、ドロティアさん。また表の鉄柵を壊してきましたね。弁償してもらいますよ」
「ジューヌが壊しっぱなしにしておくのが悪いのよ。開かないんだもの、破壊して通るしかないでしょう」
 ナシャがあとずさる分、心地よい靴音を鳴らし、ドロティアも階段を昇る。結果、二人の距離は縮まらない。
「それはこのまえもドロティアさんが壊してくれたからでしょう。立てかけるだけでもジューヌが一人でどれだけ労力を使ったか。そのせいで、腰を痛めて一日起き上がれなかったんですよ」
「情けないわね。大体なんでジューヌが自分でやってんのよ。ちっぽけでも領主なんだから、誰か雇ってやってもらえばいいでしょうに」
 魔女の言い分に、宙廊の上からシシルも頷いた。この屋敷に、ジューヌの操るナシャしか使用人がいないのも不思議だった。シシルのもともと住んでいた屋敷には、侍女や衛兵、庭師や家庭教師とたくさんいて、とてもにぎやかだった。
「そんな余裕はジューヌにはないですよ。なにも働いていないのだから……」
「自領の領民を徴集するのにお金を払う必要もないでしょうに。まぁ、ジューヌにそんな甲斐性はないんでしょうけど。ああ、なんだかあんたと話していると苛々するわ。早くジューヌを出しなさい」
「ですから、ジューヌは留守です」
 とうに嘘はばれているというのに、ナシャは頑なな態度を崩さない。ドロティアがおもむろに右手を掲げた。ナシャの頭の横に手をかざすと、ぱん、と爆発が起きる。ナシャの美しい金糸の髪が、数本こげて縮れ毛になった。
「いい加減にしないと、今度はあなたの頭が弾けるわよ」
「そういう乱暴をするから、ジューヌはドロティアさんには会いたくないんですよぉ」
 そんなこんなのやり取りをしているうちに、ナシャとドロティアは、二階のせりだしの宙廊まで昇ってくる。ジューヌさまの初恋の人というのは誰なのだろう。二人を眺めながら、シシルは一人、的外れなことを考えていた。
「そこっ!」
 自分の思考に耽っていたシシルは、突然ドロティアに指差された。あっけにとられて立ち尽くすシシルに、コツコツと靴音を立てながらドロティアが寄ってくる。
「見ない顔ね、新しい子?」
「あ、はい。きのうからジューヌさまのもとにお世話になっております、シシルと申します」
 ふわりとスカートの裾を持ち上げ、片足を後ろに交差させると、シシルは深く頭を垂れた。
「顔をあげなさい」
 命令口調に、シシルは言われたとおりに頭を上げる。顔にかかった髪を、ドロティアが優しく払ってくれた。
「よくできてるわね。ナシャより礼儀正しいじゃないの」
 ドロティアはシシルの視線の高さに合わせるように腰を曲げて、無遠慮なほどに顔を覗き込んできた。品評でもされているようで、ひどく居心地が悪い。
「また綺麗ね。睫毛バサバサで、目は潤んでるように見えるわ」
 ディディエにトーストを奪われたとき、シシルは不覚にも涙ぐんでしまっていた。言われて慌てて涙を拭う。
「まぁ、動きもかわいらしいこと。とても造り物とは思えないわ。自然すぎて、逆に不自然なくらい」
 誉められているんだかなんだかよくわからない言葉に、シシルはにへら、と複雑な笑みを造ってみる。
「あら、笑ったわ。どういう仕組みかしら」
 仕組みもなにも、ドロティアはなにを言っているのだろう。とりあえずシシルは、先程から気になってたまらないことを、思い切って訊ねてみることにした。
「あの、ジューヌさまの初恋に相手って、ドロティアさまですか?」
 なにせ自分を覗き込むドロティアの美貌は尋常ではないのだ。つややかな銀の髪、異国めいたきめ細やかな暗い肌。配色は違うが、美しすぎるナシャのモデルにも、ドロティアならばふさわしいように思えた。しかしシシルの言葉に、ドロティアは不愉快げに、たちまち顔を醜く歪める。
 次の瞬間、弾けるような高い音と共に、シシルの額に弾かれる痛みが走った。
「いいかげんにしなさいよね。ジューヌ! 人形使ってクソ気色悪い冗談言ってんじゃないわよ」
 しばらくの間、シシルは一体何が起こったのかわからなかった。頬が痛い。ドロティアが、シシルを叩いたらしい。父親にだって手を上げられたことはない。ドロティアの突然の、あまりの仕打ちに、シシルはただただ涙をためて肩を震わす。
「……ジューヌ、いい度胸ね。この期に及んで人形使って遊んでるとは。殺してくれるわ」
 そんなシシルの様子に、目の前のドロティアはさらに不条理な怒りを募らせる。
「あの、ドロティアさん」
「なによ、あんたから死にたいの!」
 横から口を挟んできたのはナシャだった。完全に及び腰で安全距離を保ちながら、おずおずとドロティアに呼びかけた。
「いえ、その。シシルさんはお人形じゃないですよ。あんまり乱暴しないであげてください」
 ナシャの言葉に、ドロティアは狐につままれたような顔をする。涙を堪えるのに必死で俯いたまま小刻みに震え、まだ身動きをとることのできないシシルの前にしゃがみこみ、顔を下から覗き込む。ドロティアの人差し指の長い爪が軽く、シシルの頬に突きたてられた。
「やわらかい……」
 しゃがみこんだまま、ドロティアは自分の指先の感触とシシルの顔を見比べる。とどまりきらなかった涙が一筋、シシルの頬を流れ落ちた。
「まちがえた……。きゃー、ごめんなさい!」
 ロアンヌ選帝侯の一人、赤衣の魔女ドロティア。彼女は、人形のような服を着た、人形のように綺麗な女の子を、人形と間違えて殴ってしまい、ひたすらに平謝りをしたのであった。
前へ | 次へ | 目次へ
Copyright (c) 2006 Makoku All rights reserved.