ポドールイの人形師

2-1、皇帝参上

第一章へ | 次へ | 目次へ
 雪原。悪夢。
 背後には村が赤く炎上し、視界は吹雪に飲まれ真っ白に霞んでいる。毒に苦しむ子供を抱き、司祭はとにかく悪夢から逃れんと雪の野に歩を進めた。
「クリスチャン、大丈夫です。きっと、大丈夫です」
 枯れきった文言を、ただ当てなく繰り返すのみ。
 ああ、自分は司祭なのに、死線をさまようこの少年に、力ある言葉一つ掛けてやることさえできない。神に仕えていると言いながら。毒を癒す秘術の一つも使えない。薬の一つも扱えない。
 僧衣は捨ててきた。寒い。手がかじかむ。こんな時に、自分の寒さを感じている。涙を流している。悪魔か、神か、得体の知れないものを呪っている。自分のことばっかりで。大丈夫、その台詞すら自身に言い聞かせている言葉であって。一番苦しんでいるこの少年に、励ましの言葉一つ掛けてやることができない。

 司祭ジャン・カトリノーは弱い人間です。
 我が身かわいさに、幼子を炎の中に捨ててまいりました。たった一人の少年を連れて、こうして必死に逃げております。そして今、必死に連れてきたこの少年も、救える自信がありません。神の僕を名乗ることすらおこがましい、虫けらのごとき人間です。
 祈ります、懺悔します。さもなくば呪います。
 どうか。どうか我が腕の、クリスチャンの命を助けて……

 雪に霞む霧の中、どこからか栗毛の小馬が現れた。濡れた鼻面を押し付けてくる。湿っぽくて、生温かい。
「どうしたんだい。お前も迷っているのかい」
 ぶるん、とカトリノーを気付けようとするように鼻息を鳴らし、小馬は白く滲む先に視線を向ける。何もなかったはずの雪塵の先。霞む意識に、カトリノーは幻を見た。
 整然と、雪十字の紋章を象った楯を掲げる、神の軍。率いるは、黒馬にまたがりし、神々しき黒衣の僧。彼は神の軍の進行をその腕の一振りで制し、カトリノーらの前に降り立った。
「毒か。大丈夫、助けてみせよう」
 カトリノーと同じ文言。しかし、力ある言葉。
 黒衣に包まれた神の御使いにクリスチャンの身を委ね、司祭カトリノーは意識を沈めた。


 人形館に来て、二つの穏やかな冬が過ぎた。
 この館には人気がない。誰の手も入らないから、調度品は整然と風化し、いたるところに埃がうずたかく、まんべんなく積もっている。汚いとか、だらしがないとかいうよりも。主の、ジューヌのにおいがどこにも感じられないことを、シシルは少し寂しく思った。

「シシル・ド・ラウランさん」
 階段の手すりの薄い埃の膜に、指でお絵かきをしていたシシルは、突然階段の上から長い名前で呼びあげられた。掃除をしていたはずなのが、いつのまにかお遊びをしていたシシルは、反射的に身を縮めてしまう。向き直り、慌てて後ろ手で、埃に描いた道化の仮面を消し払う。見上げた先階段の上の宙廊に、カラスを肩にとまらせた美しい陶人形が立っていた。
「ナシャさん……。その呼び方はやめてください。家が滅びたのに名前ばかりが立派でも、惨めなだけです。私のことは、ただ、シシルと呼んでください」
 気を取り直し、シシルは努めて明るく、笑みを浮かべてそう言った。『ド』は貴族の称号。気を遣われるのは、たまらない。
「私は今、あえてあなたを家の名前で呼びました。本日、皇帝陛下がいらっしゃいます」
 シシルの作り笑いに、ナシャは硬質な無表情でそう告げる。
「皇帝……」
 忌まわしい光景が甦る。家が滅び、惨めな父を見たあの光景。ただ皇帝と言う単語だけで数珠玉のように、憎しみが連鎖状にあふれてくる。苦い思いがシシルの顔に出てしまったのか、ナシャは気遣わしげに言葉を選んだ。
「シシルさん、あなたのためにも、くれぐれも軽率なことはしないでね」
 また、シシルと呼びなおしてくれたことがうれしかった。ナシャの表情に変化はないのに、どこか困ったような顔をしているように見えてしまうのが、なんだか楽しい。
「だいじょうぶ。決してジューヌさまにご迷惑をかけるようなことは、いたしません」
 階段の上、見上げた先。表情を作れぬナシャの顔が、少し笑ったような錯覚を受けた。


 軋み声を上げて、扉がおのずと開く。
 皇帝――ミカエル・ド・ラ・ヴィエラ――は、シシルが最後に、戦場となったラウラン邸で見たそのままの出で立ちで現れた。長い金髪を背中に流し、剣を佩き、輝く銀白の鎧を着込んでいる。従者はたったのひとり、影のような黒い騎士を傍らに置いているだけだ。黒騎士に護られた、少年からようやく大人になりかけたばかりの、天使にもみまごう美しい青年は。あいも変わらず、触れただけで切れてしまいそうな、抜き身の剣のような危うい鋭さを漂わせていた。
「ようこそ、ポドールイへ」
 シシルは、自ら進み出て、皇帝の前にかしずいた。階上にいる、ドロティアが、ナシャが、カラスのディディエまでもが心配げに自分を見守る。大丈夫なのに。ジューヌに迷惑を掛ける気など、シシルには微塵もない。出迎えの、この役割をシシルは自ら志願した。自分がこの男から逃げ回る理由など、なにひとつないのだから。思わず顔が引きつるような衝動を抑え、シシルは命がけで笑顔を造る。
「ジューヌよ、あいかわらずの悪趣味だな」
 なぜだか皇帝も笑顔を造った。ゆっくりに見えるほど優雅なそぶりで、剣の鞘を払うと、その柄で、したたかに――こめかみに激痛が走り、一瞬、シシルは体が宙に浮くのを感じた。
 朦朧とした意識の中、自分が床に這いつくばっているのを認識した。群青の絨毯に、赤いしみができている。頭が冷たく痛むので触ってみると、シシルの手は真っ赤に染まっていた。
「陶器の頭が砕け散るのを期待したのだが、人形が血まで流せるとは、ジューヌもずいぶんと凝ったものだ」
「そんなわけないでしょ、この子は人間よ! なにしてんのよ」
 ドロティアの階段を駆け下りてくる足音が床越しに聞こえる。だめだ、ここで皇帝を怒らせては、ジューヌに迷惑をかけてしまう。絶対に、ラウラン家の轍を踏ませるわけにはいかない。
「ドロティアさま、待って!」
 意識もはっきりしないのに、シシルは絶叫した。
「あたしが悪いの、人形みたいにボーッとしていたから。陛下! あたしごときがぶつかってしまって、まことに申し訳ありません」
 ここで皇帝と争うわけにはいかない。ただ頭がはっきりしないから、言葉とは裏腹に、皇帝を睨みつけていたかもしれない。コツコツと鉄足を履いた皇帝の足音が頭に響く中、シシルはそんなことを思った。

「娘、名は?」
 本当にぼーっとする。逆にそれがよかったかもしれない。とても、正気ではいられない。
「しがない女中の身でございます。陛下に名乗るほどの名はございません」
 どれだけラウランの名を出そうと思ったか。家の、父の屈辱を込め、罵声を浴びせたいと思ったか。そんな衝動を必死に抑え、シシルはあくまで平伏した。
「ふん、たかが女中にしては、見上げた忠義だな。それに子供の割に、なかなかに賢い。だがおまえはいくつか間違っている」
 皇帝は屈みこみ、シシルの髪を引っ張りあげた。顔をあげさせられるが、皇帝の顔は血でよく見えない。見えていたら、唾を吐きかけていただろう。
「まず、おまえはたしかに人形のような顔をしているが、俺が来たとき、ボーッとしてはいなかった。おまえは壊れそうな顔で笑っていた」
 そういって皇帝が背後の黒騎士に目配せすると、騎士は白いきれを差し出した。
「それにだ、おまえがぶつかってきたのではない。俺がおまえを殴ったのだ」
 怖いほどに優しく、皇帝はシシルの目にかかった血をふき取る。皇帝の美しい顔が、鮮明に視界に飛び込んだ。
「もうひとつ。その目だ。どう見てもただの女中のものではない。俺は、おまえの親でも殺したか?」
 限界だった。あまりの屈辱に、殺してやろうと。それができないなら、舌を噛み切って死んでやろうと思った。
「陛下、その位でご自重ください」
 低い声が。背後の階上から、なつかしい声が響く。ひさかたぶりの、ジューヌ本人の声だった。

「貴様がジューヌか。道化の格好をしているとは、あいかわらず、なにもかもがなめくさっている」
 せっかく後ろに、いまだに隠れ続けるジューヌがいるというのに、シシルは振り返ることができなかった。自分がどれだけ、惨めな顔をしているかわかるのだ。血のせいではない。憎しみと屈辱に歪んだ顔。そんなものを、ジューヌに見せられるはずがない。
「陛下、どうかおやめください」
「俺は皇帝だ。ジューヌよ、伯爵風情がこの俺に命令するのか?」
 ジューヌの押し殺した低い声に、皇帝ミカエルはひどく傲慢に応対する。
「命令ではございません、頼んでいるのです」
「なら、断ることもできるのだな?」
「……どうか、この顔に免じて」
 ジューヌがそう言ったとたん、突如皇帝の顔が恐怖に翳った。唐突な皇帝の表情の変化に、シシルもあっけにとられてしまう。
「わかったから。はやく仮面を戻せ」
 わずかに取り乱して、早口でそう叫ぶと、皇帝は小さく舌打ちをして、シシルの髪を離した。
「道化よ、俺の部屋はどこだ」
 振り返ったとき、道化の姿をしたジューヌは、すでに赤と白に塗り分けられた仮面を装着してしまっていた。
 ジューヌが自ら、皇帝と黒騎士を二階の空き部屋に案内する。去り際に、黒騎士がシシルの手になにやら紙切れを押し付けてきたのを訝しく思いながら、シシルは駆け寄ってきたドロティアとナシャに、身を預けた。
第一章へ | 次へ | 目次へ
Copyright (c) 2006 Makoku All rights reserved.