ポドールイの人形師

2-20、司教

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 人形館の丘を上り、リリアンとロセンサルが司教リュックに追いついた時、すでに折衝は始まっている様子だった。皇帝ミカエルの傍ら、参謀たるリリアンの指定席には、黒いマントを纏った仮面の道化が陣取っている。ミカエルが道化とおそろいの黒マントを、鼻面まで隠して被っているのが奇異だった。
「一つに、ラウラン家を選定侯位に復し、封土、権利を返還すること。二つに、権謀術数を用い国を混乱に陥れたヴィルトールの者たちを、ロアンヌより追放すること」
 己に背を向けた司教の言葉に、リリアンは歯噛みする。帝臣にあるまじき傲慢な要求だったが、状況が状況だけに、皇帝はラウランの要求を受け入れざるを得ないかもしれない。丘はすでにラウランの賊徒に取り囲まれ、こちらの傭兵たちは霧散した。自分に何ができようか。とりあえず、この憎き神官の背後をつくことくらいだろう。
 リリアンが剣を抜く前に、司教はさらに信じられない言葉を続ける。
「三つに、ミカエル様の帝位からのご退位と、選帝会議の再度の開催。これがラウラン家当主にして、我が兄、ジネディ・ド・ラウランの要求です」
 傍らに兵士服の少女を、空いた側には金縁の雪十字を施した大楯を凭せ、涼しげな口調で黒衣の僧侶は暴言を連ねた。早く、斬り殺してでも止めなければならない。刹那黒い影が翻り、皇帝を怖れぬ不遜な司教に、強烈な斬撃が下される。夜闇に小さく火花が散り、刃を受けた楯もろともに、司教は雪の地面に倒れこんだ。

 一撃をくれたのは、リリアンの細い飾り剣ではない。仰向けに倒れた大楯に、斜めに巨大な断裂が刻まれていた。
 雪野に腰を埋め、司教が目を眇めて見上げる視線の先。振るった大剣を無造作に雪に突き立てる、ジュダの黒騎士の影が聳える。
「美しい印が無惨だな。今のはリリアンの紋を踏み付けた報いだ。誇りを傷つけられるのは、痛かろう」
 美しい雪十字の紋章が、斜めに深い傷で断ち切れていた。ジュダの騎士は得物を浮かすと、さらにいましがた入れた斬傷と直角に大剣の先を擦らせる。断裂に細く長い傷が重なって、雪十字は不格好なバッテンに、四つに分かたれた。
「陛下への暴言を取り消すことだ。お前の崇める神を俺は知らない。主を護るために、異教の僧を殺すことを俺は厭わぬ」
 刃が雪の白さを映しきらきら煌く。司教の白い首もと、肌に触れるほどの近さに、ジュダの大剣の切っ先が突き付けられた。
 司教の傍らの兵士服の少女が、音も発せず、目を真ん丸に固まっている。見やると皇帝ミカエルも、少女と同じような表情で止まっていた。
 雪の白さに染まったほの闇の中、時が止められ。刃を突き付けるジュダの顔はリリアンからは死角となって捉えられぬが、突き付けられる司教の表情は、一際雪の白さを映し、いまだ涼やかさを残していた。ほのかに笑みすら浮かべた司教の薄い唇が、その白く冷たい相貌どおりの声音で言葉を紡ぐ。
「家紋を傷つけられたところで、痛くはない。私にはそれ以上に大切なものがたくさんある」
 そこで司教は首筋に刃を当てられたまま、傍らの怯える少女に手を伸べる。
「だが兄の要求は取り下げよう。君の剣など怖くはないが、私には、兄の志以上に守りたいものが存在する」
 何を恐れる様子もなく、司教は少女にその手を預ける。
「陛下、兄の要求は取り下げます。ラウランは、ミカエル様を皇帝と認め、忠誠を誓います。選帝侯位と、我々がロアンヌ国内に持っていた領邦を放棄します」
 ジュダの黒騎士に剣先を突き付けられたまま。脅されるがまま、しかし一句一言朗々と、司教の声がほの闇に染み込んでいく。台本を読むかのように滑らかに、降伏の言葉が紡がれた。
「ですのでどうぞ、ラウランの罪を赦し、我らがシャイヨーにて慎ましやかに暮らすことをお許しください」
 その度胸には恐れ入る。ラウランには、一度は一族皆殺しの勅諚が発せられたのだ。なのに司教のムシのいい、恩赦の上にシャイヨーの地まで返せという要求が、やけに軽く感じられる。譲れない要求を通すために、司教は命がけで小芝居を打ったのだ。あるいはロセンサルの行動さえ、折込済みだったのかもしれない。
 案の定、黒マントから半分覗いたミカエルの顔は、困惑の色をありありと映している。このままでは、呑まれてしまうのは時間の問題だろう。
「陛下、お待ちを。こんなムシのいい要求、受け入れてはなりません」
 詐術まがいの交渉術。それはラウランには似合わぬ、ヴィルトールの専門だ。さすがにそれに甘んじて丸め込まれるほどに、リリアンとて落ちぶれてはいない。
「だが、リリアン……」
「だがじゃないです。ジュダに斬らせましょう」
 黒マントで鼻まで隠し、ミカエルは上目遣いでリリアンを見上げる。優柔不断な、頼りなげな子供のような風情だ。そんな皇帝に、最後まで言わせずきつい眼差をくれてやる。そのまま司教も睨み付けてやろうと思ったが、傍らの兵士服の少女がかわいい顔の眉間に皺を刻み込み、恐ろしい形相で睨んでいたので、思わずリリアンは怖気付く。
 一方当人の司教はというと、あいかわらず、余裕の表情を浮かべていた。
「ヴィルトールの公子よ」
 そう呟いて、司教はゆっくり立ち上がる。
 ジュダの騎士はあてがった剣を動かすことはない。立ち上がる際、鋭い切っ先は司教の白い首筋の肌をなぞり、さらに黒い僧服を裂いていった。だが司教は向けられた刃に頓着することなく、自らが傷ついたことにすら気付いていないかのように、薄い笑みを浮かべている。
「非礼を詫びよう」
 感情のない、挑発的な言葉だった。魔術でも掛けられたかのように、動きを止めたままの黒騎士を放って、司教はリリアンの元へと寄ってきた。
 血を流し、冷たい笑みを浮かべるその姿はどこか倒錯的で、思わず目を奪われている自分がいた。
「仲直りをしよう」
 白く長い指先が、リリアンの元へと伸べられた。

 必ず殺すと、黒鷲に誓った。憎いラウランの司教がそこにいる。それが無防備に、リリアンに手を差し出している。た易く殺せる。なのに、恐怖を覚えているのは自分だった。呑まれまいと、リリアンは必死に笑顔を造る。だが顔に神経を集中しすぎたリリアンは、司教に手首を掴まれるのを拒むことができなかった。
「大きな宝石をつけていたのに、外してしまったのですか。またつけなさい。少しは飾ってもらわないと、私とあなたでは釣り合いが取れない」
 眼前に、冬空のように真っ青に冷たい瞳が二つ。その眼差は自分にではなく、掴まれた手のほうへ向かっている。リリアンは司教の瞳に捕らわれ、自身に向けられてすらいない蒼の双眸から、なぜか目を離すことが出来なかった。掴まれた手首が熱すぎて。見つめられた指先は、いやに寒くて、恐ろしい。
「仲直りするんですから。笑ってください」
 嘲笑を含んだ司教の言葉に我を取り戻したリリアンは、手首を握る敵の腕を振り払い、懐から麻布を取り出した。包みを開いて指輪をつける。慌ててしまい、リリアンは危うく自分で毒の針に触れかけた。
 なにも言わず、リリアンは宝石で飾った自分の右手を差し出した。指を飾るクリソベルはほの闇の中に光を失い、ただ虚ろに夜に溶けている。
 不意に司教は、その白い相貌から表情を消した。深い虚無がそこに残った。端正な美貌の裏には果て無い深淵が口を開き、リリアンは一瞬、そこに心まで飲み込まれたような錯覚を覚えた。
 眩暈を起こしたリリアンは、苦し紛れに一つ目を瞬く。リリアンの差し出した手を握った司教は、薄い唇の口角を吊り上げ、満足げに笑っていた。

 ――陛下、私の命もつけましょう。だからどうぞ、私の大切な者たちを。カロルたちを……
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