ポドールイの人形師

3−4、尖塔の牢獄

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 燭台のわずかな灯火が、行く先を仄かに照らしていた。螺旋の階段を登ると、尖塔の先に辿り着く。窓のない円形の部屋は、牢獄だ。一際重たい、冷たい空気が溜まっている。かつてここで、ラウラン侯爵に拷問を行なった。彼は結局、ミカエルを皇帝に認めるというたったそれだけの条件を、最期まで呑むことはなかった。侯爵はミカエルにとっても師で、シシルにとっては父で。愛する者たちは、侯爵に剣を振るった自分をどう思うのであろう。
 だが血を見るのは、自分でいい。最善の方法だったと、思うのだ。

 黒いマントを纏った道化が、今は仮面を外していた。
 窓のない牢獄だ。見えぬ先を探って壁際に寄る。ここでラウラン侯爵を手にかけた。一点しかない小さな灯火の消さぬよう、ジューヌはそっと屈んで燭台を床に置く。そこだけ色の違う床の染みは、古い侯爵の血の跡だ。隅に視線をやると、埃を被った灰色のしゃれこうべが転がっていた。
 頭蓋骨に穿たれた空虚な眼窩が、ジューヌをじっと見据えている。かつて魔女がいたずらに、大切な少女を塔に誘った。それ以後侯爵の骨は処分したが、このしゃれこうべだけは残してあった。師であり、親よりも兄弟よりも、誰よりも――それが例えば歪んだものだったとしても――自分を想ってくれた人だった。
 この者の期待に応えることはなく、最期まで不孝をしたが、やはり話を聞いてもらうと落ち着くのだ。故に、愛しい少女に見つかることを怯えながらも、いまだに侯爵のしゃれこうべを捨てることができずにいる。
「ミカエルからの密書です」
 蝋燭の光にひらひらと手紙をかざす。琥珀色に光る、帝室の百合紋の押された封蝋が、きらきら光を闇に撒く。封はまだ破られていない。
「きっと意地悪なことが書いてあります。だから、開けるのが怖くって」
 昏い眼窩にジューヌはそっと笑ってみた。緩んだ唇の隙間から口腔へ、目尻から瞼の裏へ、仮面越しでない冷たい空気が直接入ってくるのを感じ、ジューヌは思わず笑みを潜める。顔が引きつることを自覚しながら、ジューヌは蝋を爪で削る。手につかない。手間取りながらも封を破り、中から手紙を取り出した。
 上質の紙に、ミカエル本人の字が綴られていた。一字一字は形良いのに、並べてあるとどこか落ち着いていない。子供の頃見たミカエルの字の面影をそのまま残した、懐かしい字面だった。
「やっぱりひどいです、私の一番大切な宝物を献上しろって。あげられるものは全てあげたはずなのに、どうしてでしょうね」
 手紙を畳んで、侯爵を見る。深い眼窩が自分を呑みこむ。侯爵はたくさんのものを自分にくれた。剣を、書を、王者のなんたるかを教えてくれた。領邦に帰ることは少なく、家族や娘と共に過ごす時間は少なかったであろう。自分などに構いすぎたものだから、その分相手にされなかったミカエルにも、侯爵は嫌われてしまったのだ。
 今になって哀れに思う。たくさんのものを犠牲にして黒王子に捧げた、その報いが、侯爵のこの姿なのだから。
「ポドールイから、ロアンヌから出て行けって。私を追放するって書いてあります」
 懐から、ジューヌは人形を取り出した。適当な造作ののっぺりとした顔をした、黒王子の人形だ。くるくると宙を回ってやがて床に降り立つと、黒王子はしゃれこうべに、深々と額づく。
 ごめんなさい。自らのこの道化の姿も、当然のものなのかもしれない。
人の、シシルの気配が階段を上ってくるのを感じた。まさか、怖がらせた場所だから、ここにまでは探しに来るまいと思っていたのに。
ジューヌはうずくまって身を小さくした。人形の黒王子が立ちあがり、覚悟を決めるように一つ大げさに頷いた。


 この半月ほど、シシルはかくれんぼの鬼役に明け暮れていた。司祭が囚われ、男たちが兵として連れて行かれている。ジューヌは何も策を講じない。シシルから身を隠すことで、その現実から逃げられるとでも思っているのだろうか。敬虔なる司祭を、善良なる農民たちを、領土と領民を安堵せしめるのは領主の責務だ。それに対するジューヌの態度に、怒りの前に、失望を覚えるのだ。
 この、螺旋階段の先の部屋に、あまりいい思い出はない。皆が戦っているときに、ずっと隠れていた所だった。自分の無力さを思い知る場所だ。
 窓のない部屋の空気は、何年経っても変わらない。冷たく淀んだ、牢獄の臭気が立ち込めている。
「ジューヌさま……」
 暗がりの牢獄に、屈みこみ猫背に丸めた、黒マントの無防備な背中があった。なじる言葉では傷つけそうだ。そうかといって今のジューヌに、労わる言葉を受ける資格はない。なんと声を掛ければよいだろう。小さな燭火に下から照らされたジューヌの姿は色彩を失くし、ただ深い陰と薄い陽に彩られている。
 ジューヌは慌てた様子でマントを被って頭を覆う。さらに紙片らしきもの、何かわからない灰色のもの、なにもかもまとめて抱え込み、とにかく隠そうとしているようだった。
「ジューヌさま、こちらを向いてください」
「仮面を……つけていないんです」
 体を丸めて小さくなった黒い道化から、ひどく細い声が漏れ出す。
「構いません。もうあたしは四年も人形館にいるのです。ジューヌさまの顔くらい、知っても良いと思います」
 ジューヌは何も答えず、じっとしていた。シシルは唇をぐっと引き結ぶ。立ち尽くしたまま黙って、ジューヌの答を待ってみる。
 ジューヌの懐から人形劇の小さな人形――黒王子――がちょこちょこ出てきて、床に立てられた一輪挿しの燭台に、抱きついた。蝋燭に身を預け、今にも倒さんと揺らしてみせる。シシルとジューヌの影が大きくうつろう。どうやら脅しのようだった。
 螺旋階段にとりつけられていた等間隔の灯火を辿ってきたシシルは、明かりを持ってきてはいない。ジューヌの傍らにある一輪の火が消えてしまったら、部屋はまったくの暗闇になるだろう。
「わかりました。では、そのままでいいですから。ジューヌさま、お話があります」
 仕方なく、シシルは折れた。うずくまったままの、ジューヌからの反応はない。黒王子が、揺れる焔を含めると身長の倍ほどもある燭台を引きずって、シシルの前へ寄ってきた。足元まで来て上を見上げる。ただ穿たれただけの黒王子のとぼけた双眸が、じっとシシルを見据えていた。
 溜め息をついて、シシルは黒王子に目線を近づけるために屈み込む。やっと見つけて、主はすぐ側にいるのに。シシルの話を聞いてくれるのは、どうやらこの子のようだった。

 蝋燭に絡み付いて、黒王子がシシルを見上げている。人形のとぼけた表情を見ていると、怒りの感情が失せてしまった。肩透かしを食らわされたような気持ちを味わいながら、鎮まってゆくシシルの理性が、ジューヌは卑怯だ、となじっていた。
「貴族には、貴族の責務があります。知っていますか」
 子供に諭すように、シシルは尋ねた。農民が畑を耕すように、貴族にも仕事がある。今は亡き、司教リュックの教えだ。
「お説教はしないでください。貴族の仕事は王を守ること。そして領民と、領邦を守ること。それに命を懸けることで、代価に尊厳と贅を受けられる。そして前者が優先される。ジューヌは王命を守っています」
 顔に似合わず、黒王子はまるで生意気な生徒のような答を返してくれた。答は正しいが、それでジューヌを正当化させようというのは屁理屈だ。
「ミカエルは正統な皇帝ではありません。第二皇子にすぎません。仮にミカエルを皇帝とみなすとしても、その過ちを正すのが臣たる貴族の務めというものです。ジューヌさまは、務めを果たしているとはいえません」
 黒王子は俯いた。言い伏せられ、言葉を返せない子供のような仕草だった。
「正直、貴族の務めなどどうでもいいのです。私は、白王子とお姫様が大好きで。彼らの望むままに、私のあげられるものは全てあげたいと思っています。それが悪であろうと罪であろうと。やがてこの身を滅ぼそうと。身分や使命や領民や、その他諸々、瑣末なことで。どうでもよくて……」
 白王子とお姫さま。人形劇をいつも黒王子と演じている、綺麗な男の子の人形と、かわいらしい女の子の人形だ。
「でも、どうしようもなくて」
 白王子は、皇帝ミカエルのことであろうか。憎い男に美しさなど認めたくはないが、白王子の造りは、ミカエルによく似ていた。
「私は贅沢すぎるのでしょうか。二人とも愛しくて、望みは全て叶えてあげたいのに」
 ではお姫さまとは誰だろう。計算式でも解くように、訥々と語られた黒王子の言葉をほどいてみる。
「それはできなくて。白王子を支えてやれず、お姫様を傷つけて。誠実であることすら叶わない」
 ただ言葉を頭の中に組みなおし、辻褄の合うよう式を解く。突拍子もない答に、破綻がないか計算しなおす。シシルの導き出した答には、矛盾が見つからなくて。もしその答が正しいとしたら、白王子はお姫さまの敵であって。それはつまり、互いの望みは相反するもので、二人とも幸せになることなどはありえなくて。
「違っていたら笑ってください。お姫さまは、あたし、ですか?」
 是とも非とも黒王子は答えず。人形のとぼけた表情から、何かを読み取れるわけでもない。黒王子は笑ってくれない。感情を映さず、じっとシシルを見上げていた。
 マントに身を隠し、うつ伏せて丸まったジューヌの懐から、二体の人形がちょこちょこ歩み寄ってきた。お姫さまの人形は、床につきそうなほどの波打つ長い白金の髪を流しており、瞳の色は緑だった。白王子は青い瞳の光る綺麗な顔を、真っ直ぐに落とした鮮やかな金髪で包んでいる。意味するものに気付いてみると、二体の人形が対になって歩くのは、ひどく不快だ。
 お姫さまはシシルの前まで辿り着くと、封を切られた手紙をくれた。爪で削り剥がされた、帝室の百合印を押された封蝋がくっついている。少し遅れてきた白王子は、丸い大きなものを引きずっていた。受け取るよう、シシルの前にそれを押し出す。それは、人間の頭蓋骨のようだった。
「あげます。ミカエルにではなく、シシルにあげます」
 燭台に抱き付いたまま、黒王子が言った。白王子の持ってきた灰色のしゃれこうべは、ひどく無気味なものだった。だが言葉を発した、とぼけた顔の黒王子と目が合ってしまい、とっさに恐怖の感情を忘れてしまった。
 ずるっと黒王子の体が崩れ。支えを失った燭台が倒れて、はずみに炎が消えてしまう。闇に包まれ、シシルは身動きが取れなくなってしまった。
 ジューヌは、この闇に紛れて逃げおおせるつもりのようだった。白王子はミカエルで。ならきっと、黒王子は行方不明のアンドレ皇子で。しかしそれではジューヌが……。
暗がりの中、術なくジューヌを捕まえることは諦める。頭の中で再びこんがらがった糸を、シシルは不思議な心地でほどいてみていた。
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