ポドールイの人形師

4−6、卑怯者の剣

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 慣れというのはすごいものだ。人形館も、ナシャもディディエもドロティアも、今ではあんまり怖くない。胸にしゃれこうべを抱いていても何も感じないし、道化師がとぼとぼロバを先導していても、もう怒る気も失せてしまった。
 シシルはディアンヌの背に掛けて、真っ白な雪原を揺られていた。谷を越えるこの道は、ラウラン領のシャイヨーへの近道だ。村の人たちに先に行ってもらっている、街道廻りの方が道に迷う心配もなく安全なのだが、追われる身ということもあって、シシルたちはこちらの道を選択した。
「あたしもう、ジューヌさまの正体わかりましたし、道化の格好はおやめになったらどうですか?」
「別にジューヌは、シシルさんに正体を隠すためだけに仮面をつけているわけじゃないのよ。ジューヌはね、あんまりアンドレでいるのが好きではないの」
 身ほどの大きな麻袋を背負った綺麗な人形が応えてくれる。袋の中身は、ほとんどジューヌの人形だ。何の役にも立たないだろうに。
「そんなこと言わないでください。これからの戦い、ジューヌさまにはちゃんと自覚を持ってもらわなければ困ります」
「ええ、ジューヌもわかってるわ。覚悟はちゃんと決めてます。でも嬉しいわ。正体がばれちゃっても、シシルさん、ジューヌに今までどおりに接してくれて」
 言われてシシルは口を噤む。例えジューヌの正体が正統な皇位継承者であろうが、一介の地方領主であろうが、不遜をするつもりなどなかったのだ。シシルはラウランの家を失い、一使用人として仕える覚悟でポドールイへ逃れたのだ。ただ、とぼとぼロバを先導する黒マントの後ろ姿を見ていると、威容とか尊厳とか、そんなものがあまりになくて、自分の立場も忘れてしまう。
「ジューヌさま。すぐ前にいらっしゃるのに、なんでナシャさんで話すんですか?」
「……シシルさん、なんだか怒ってるような気がして」
 やはり先導の道化は反応せず、隣りでナシャが気まずそうに応えてくれる。
「実はこの袋、まだ若干の余裕があるのですが。シシルさん、何か入れたい物とかないですか?」
 ナシャが麻袋の口を軽く引っ張り、ロバ上のシシルに上目遣いに視線の角度を調整してで訊ねてきた。意味も告げずに押し付けられたしゃれこうべ。説明を求めて、ずっとジューヌの目の届くところに持ち歩いているのだが、ジューヌはことごとく見て見ぬ振りを続けている。だが少なくともあてつけとしては、奏効していたらしい。
「結構です」
「そうですか……」
 ナシャはしゅんと項垂れて、それきり何も話さなくなった。
 突然、仮面の道化が立ち止まった。先導が引くのをやめたため、ロバのディアンヌもそこで足を止める。
「ジューヌさま、どうしたんですか?」
 見るとジューヌの行く先に、一組の遺体が埋もれていた。兵士のようだ。人骨に、一組楯と剣が揃っている。黒鷲の紋を見せる楯にはひびが走り、貫かれたような穴が開いている。
「ヴィルトール家の紋章ですね。ここで三年前、叔父さまたちが戦ったのでしょうか」
 腕の中のしゃれこうべのせいで、さほど恐怖のようなものは感じなかった。ジューヌはじっと、壊れた紋を見つめていた。
「ジューヌさま、そんなになにを見てるんですか?」
「なんでもありません。シシルの知らなくていいことです」
 振り向いて、赤白の仮面が応えた。あまりの返答にシシルが憤慨しかけたところ、仮面の道化が言葉を継いだ。
「誰か、追ってきます」
 仮面の視線の先を振り返ると、蹄の音を雪に紛らせ、黒い大きな馬がすぐ近くまで近づいていた。黒騎士がお腹に小さな子供を抱えて、黒い馬を繰っていた。

 ラフィセは、手頃な位置に垂れ下がっていた長い房を掴んだ。すごく長い髪の毛のようだ。細くて柔らかくて、ふわふわしている。これが、連れ帰らなければならない、シシルという名の皇帝陛下の想い人だ。
 ロセンサルとジューヌ伯爵の気配は、ラフィセたちから少し離れていった。決闘だ。奪う者と奪われる者。このシシルを賭けて、一戦始めるらしい。景品に逃げられないように、ラフィセはぎゅっとシシルを掴んだ。
 シシルがラフィセの横へと降り立った。動物の、ロバの匂いが掻き乱されて、ふわりと清潔な香りに包まれる。掴んだ房を離さずにいると、逆に捕まえられた。着膨れしたふわふわのお腹に抱きとめられる。兄やロセンサルに対するときよりもずっと近くに聞こえるくすくす笑いの声も、女の子のそれで、柔らかい。ラフィセの険気が矛先を失う。
「シシルさまですよね。わたしたち皇帝陛下の命で、あなたをお迎えにあがったんですけど」
 緩い空気に呑まれて、ラフィセはふわふわのシシルに背中を預ける。
「じゃあ敵ね。あたし、ジュダ人に攫われるつもりもないし、ミカエルのことを皇帝とも認めてないの」
 言葉と裏腹に、ラフィセを捕まえる手に優しく力が込められる。相手に敵意がなさすぎて、怒りは湧かなかった。ただ、ロセンサルのことを差別するのはやめてほしい。
「でもあなた、敵って感じがしないの。知ってる子に似てて。あなたのほうがずっとしっかりしてるけどね。ねぇ、お名前は?」
 あまり子ども扱いもやめてほしい。ラフィセはいやしくも選帝侯家の娘だ。家格を鼻にかける気はないが、この人に軽んじられる覚えはない。
「ラフィセ・ド・ヴィルトール」
 家名を出すと一瞬背後の気配が変わったが、しかしすぐに緩くほどけてしまう。
「なるほど、敵だね。それでラフィセちゃんみたいな子まで、お遣いさせられてるんだ」
 頭の周りに腕を廻され、ラフィセはぎゅっと抱きしめられた。なぜか流れてきたのは、哀れみの感情。ひどく、気分が悪かった。
「今、ロセンサルさんたち、どうなってますか?」
 少し不安定になりかけた気持ちを凍らせて、ラフィセは現状に心を戻した。視線の先に、ロセンサルとジューヌ伯爵がいるのを感じる。ただ悲しいかなラフィセには視力がない。冷たい指が、労わるように瞼の上を撫ぜてくる。耳元に、シシルの優しい声が続いた。
「ここは昔戦場だったらしいの。兵士の亡骸や、剣や楯が散乱しているわ。ジューヌさま、剣を持ち歩かない人だから、落ちてた剣を一振り拾って使ってる。柄に黒鷲の紋章の入った、刃の部分が長めの剣。ジュダ人は真っ黒な柄の、ものすごく大きな剣を抜いてる。二人とも向かい合ったまま、動かないわ」
 ラフィセの盲目を慮って、必要以上に細かく説明してくれる。 ロセンサルの剣の形状を、ラフィセは知らなかった。
「シシルさま、落ち着いてますね。ロセンサルさん、ものすごく強いんですよ」
「ええ、わかってるわ。仮にも皇帝の近衛だものね」
「絶対、シシルさまの伯爵さまより強いはずです」
「そうかもしれないわね、ジューヌさまが剣を振るってらっしゃるところ、見たことがないわ。似合わないし」
 ならなぜ、そんなに落ち着いていられるのだろう。後ろに聞こえる、シシルの鼓動に乱れはない。
「大丈夫、ジューヌさまは負けないわ。ジューヌさまの正体、知らないでしょう。ただのピエロじゃないのよ。ジュダ人がいくら強くても、所詮は罪人の血。ジューヌさまが負けるなんて、許されないわ」
 誰に許されないのかと訊ねたら、神様に、と返るのだろう。伯爵の正体など知らない。聖典の呪いや、身分や血筋が、ロセンサルのあの眩いばかりの強さを凌駕できると信じている。
 ロセンサルが、この人を嫌わないのがわかる気がする。シシルは誇り高く、憐れみ深く、純粋なのだ。兄のリリアンに訊いたなら、身の程知らずな傲慢さと、無邪気な残酷さと、盲信的な無知、とでも言うだろうか。ロセンサルもリリアンも好きで、どちらも理解できるので、ラフィセは自らが評を持とうとは思わなかった。シシルは悪人ではないだろう。だがヴィルトールのラフィセは残念ながら、シシルとは相容れない。そう思った。
 金属の弾ける音が響いた。戦いが始まったようだ。一合、二合、止まらない。
「ねえ、どうなっているの!」
「ジューヌさまが押されてる……」
 焦燥の混じったシシルの声。しかし驚いた、ロセンサルと打ち合えるというのは相当な腕だ。ラフィセの兄も、もしロセンサルとまともに剣を交えたら、一瞬で殺されると笑っていた。剣の交わる音ではない、鈍い音響を最後に、あたりは急に静かになった。
「シシルさま、どうなったんです?」
「……ジューヌさまが勝ったわ」
 なぜかシシルは、ものすごく不満そうにそう漏らした。それきり喋らなくなってしまったので、催促に掴まえている房を引っ張ってみる。何も答えてもらえない。冷たい手がラフィセの見えない目を目隠しした。
 どうなっているのかわけがわからなかったが、やがて、戻ってきた一つの気配がロセンサルのものではなかったため、シシルの言葉が本当だとわかった。

「シシルさん、何で怒ってるんですか。ジューヌ、死にかけたんですよ」
 後ろから人形が訊ねてきた。雪の渓谷。横座りにディアンヌに揺られるシシルは、怒り冷めやらず、ナシャにも背中を向けている。
「ご自分の胸に聞いてみてください」
 顔も向けずに、努めて冷淡に返してやる。ややもして首を捻って背後を見やると、ナシャは胸に両手を重ね、大きく深呼吸の仕草をしてみせていた。わざとらしい小芝居に腹が立つ。
「人形を使って背後からなんて、仮にも皇帝になる人が」
「そうは言っても、あの黒い騎士は恐ろしく強かったんですよ。よく生き残ったと誉めてください」
 珍しく不満たらたらな、反抗的な声だ。自分の行為を、恥とも思っていないのだろうか。
「卑怯者」
「……シシルさん」
 シシルが冷たく放った言葉に、ナシャは泣きそうな声になっていた。
 仮にも皇帝となる者が、裏切り者の代名詞であるジュダ人を相手に、逆に卑怯な手段を用いたのだ。心なしか肩を落とす、先導のジューヌの背中に目をやり、シシルは一つ、嘆息した。
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