ポドールイの人形師

7−8、人質

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 新月の深い夜闇が、宿営地を静かに包んでいた。耳を澄ますと、離れて建てられた天幕から、かすかに兵士たちの鼾が聞こえるほどだ。
「シファちゃん、いいの?」
 盲目の女の子は夜の闇を苦にしない。シファがシシルの手を引いてくれる。
「はい。皇帝陛下の居場所は知っています」
 少し気後れしたシシルの問いに、シファはしっかりとした口調で答えた。こっそり抜け出す案内役を、シファから申し出てくれて、シシルは少し驚いた。てっきり嫌われてしまっていると思っていたのだ。
 ナシャやラザールの目をごまかそうと、諦めた振りをしておとなしく床に就いてみせた自分がいる。重ね合わせて、女の子のあどけない紫紺の瞳の奥底に、なにやら他意を探してしまう。嘘つきで、疑り深くなってしまった自分がいる。ジューヌさまのせい、とシシルは知らず心の中で小さく悪態をついていた。
 全く夜目の利かない闇の中を、温かくて小さな手の感触だけを頼りに、シシルは小屋から抜け出した。見張りの兵士は立っていない。ポドールイを発った時から夜の警備は、ラウランの私兵団の役目だった。皇帝軍が主力となっても、その受け持ちは変わらない。夜の見張りに、無理やり徴兵されただけの元農民たちでは頼りにならない。
 最初にナシャに連れて来られたときに誰も表にいなかったのは、ジューヌの作意をあからさまに感じたため、さほど不審には思わなかった。だが今見張りを外すことに、ジューヌの意図が感じられない。それにシファの協力的な態度も、やっぱり不自然だと思う。離れた小屋の陰から、陶人形の白い顔が闇に浮かんだ。ナシャ。抜け出したことがもう見つかってしまったのだろうか。
 隠れようと身を強張らせたところ、何もなかったはずのシシルの背後に、突如巨大な気配が立ち現れた。気配はぴったりと背中に張り付く。首筋に大きな冷たい手が掛かる。戦慄に、体が硬直した。耳にふーっと、生温かい息を吹きかけられた。悪寒が走り、全身が震えた。
「シシルごめんなー。ちょっと人質になってくれや」
 低い囁きが、耳元に置かれた。子供の悪戯のような口調は演技だろう。軽い言葉に関わらず、本当に人を殺しかねない凄みがある。早鐘を打つラザールの鼓動に当てられて、逆にシシルの心は冷めていった。
「アンドレ、見えてるか。シシルは俺の手の内だ。俺の要求を聞け」
 陶人形に向けて、ラザールが大声を張り上げた。ひんやりとした夜の空気に、割れた声が必要以上によく通る。足元からボソッと、わたしたちの要求、とシファの不満の声が聞こえた。遠くの小屋の陰に見えたナシャは、氷の上でも滑るかのように音もなく、見る間にシシルたちの近くまで移動した。
「ラザールさん。返して下さい」
 夜闇の中に浮かび上がる、陶製の精緻な顔に当然何の表情も浮かばない。短い言葉にも関わらず、冷えた言葉の残響が、いつまでも闇にわだかまっているような錯覚を覚える。
「俺のだ。これは俺の姪っ子だ。もう一つ俺の姪っ子がいるはずだ。カロルはどこにいる。返せ」
 軽口のはずのラザールの応答には、追い詰められた響きがあった。眉間に剣先でも突きつけられて、それでも相手を気丈に食ってかかる弱者のようだ。いかな逆境に身を置いても人を食った態度を崩さなかったラザールに、その震える声はいかにも似合わない。
 陶人形は、どこか遠くを見ているようだった。やがて少しだけ視線を調整して、ナシャはラザールではなく、シシルを見据えた。
「ジューヌが連れて行ったわけではありません。勝手についてきたのです」
「どこにいるのよ!」
「……お城に。ジューヌは王様になりに先にお城に行ってます」
 ラザールに返されるべき言葉がシシルに向けられ、シシルは反射的に叫んだ。ナシャは案外あっさりと口を割った。ジューヌはどこにいるの。シシルが訊ねたのはカロルの所在ではなかった。対象を省いたシシルの問いを、陶人形は正確に理解していた。
「兵も伴わずにか。何を考えているんだ。カロルは無事だろうな」
 ラザールの悲痛な声には、人形は何の反応も示さなかった。少しだけ目を伏せ、申し訳なさそうに精緻な顔に造られたわずかな陰は、目を瞠るシシルのためだろう。
「危険ですから。野蛮人に占領されて、今はシシルさんを呼べるような所じゃないから。もう少し、ジューヌに逢うのは待ってください」
 シシルの首筋を掴んだ手に、突然力が込められた。痛い。声帯を抑えられたわけではなかったけれど、愕いて声が出なかった。ラザールが、言葉になりきらぬ罵声を、絶叫に変えて人形に叩きつけた。呼応するように闇の中から、たくさんの白銀色の楯の列が浮かび上がる。雪十字紋の兵士たち。ラザール麾下のラウランの私兵団が、シシルたちを取り囲んでいた。
「おい、アンドレ・ド・ラ・ヴィエラ。カロルを護れ。なにかあったら、俺はおまえを許さない」
「アンドレは今、王座を手にしようとしているの。大事を前に、そんな些細なこと、関ずらわっていられないわ」
「ふざけるな。おまえはただ、独り善がりにシシルの願いを叶えようとしているだけだろう。もうシシルさえも望んじゃいないそんな願いと、カロルの命、どっちが重い」
 耳鳴りの向こうで、ラザールが泣きそうになっている気がした。内容は頭に入らなかった。ただラザールがかわいそうに感じて、シシルは声のする真上を仰いだ。辺りは暗くて、冷たい手をしたラザールの表情はわからなかった。
「俺は兄貴たちの、ジネディ兄とリュック兄の遺志を果たさなければならない。貶められたラウランの名誉を取り戻さなければならない。アンドレ・ド・ラ・ヴィエラを皇位に就けなければならない。俺はおまえを認めないのに。ジネディ兄はおまえが、ロアンヌの栄光を取り戻す王だと信じて殺された。シャイヨーの民を救わなければならない。ジネディ兄の忘れ形見であるシシル、そしてリュック兄が命を懸けて愛したカロルを、護らなければならない。俺の背負っているものは、アンドレ、おまえのように薄っぺらで自分勝手なものじゃない」
 くだらないですね。人形は静かな声で呟いた。なんとか叔父の表情を窺おうと仰いだままのシシルの首を、ラザールは太い腕を前から絡めて絞めつけた。苦しくて、今度は声を漏れる。抑えつけられて、それは情けない呻きにしかならなかった。
「望むものは、アンドレの願いと食い違うものでもないでしょうに。ラザール将軍の反逆の理由を、アンドレは理解に苦しむわ」
「ああ、だから……」
「それにラザールさん。そんな乱暴に。今あなたの手の内にあるものが、いかに貴いものなのかがわからないのですか。たかが死者二人の怨念。卑賤な血の娘の一人。無能なあなたや、狂ったアンドレ。ロアンヌの一国や、その地に住まう幾百万の民。その命も誇りも。全てを縒り合わせたところで。そんなものは、その子の価値の足元にも及びません。将軍の使命など、比べるまでもないことです。そのためにシシルさんがわずかに眉をひそめることすら、不遜なことです。ましてやシシルさんを苦しめるなんて……」
 ナシャが夜闇を飛んだ。見失い、次にナシャを見つけたのは、シシルとラザールのすぐ前に降り立つ時だった。呼吸ができずに苦しい視界を、ナシャの真っ白な首元が眩く塞ぐ。
 ナシャが腕を振るうと、夜闇に銀線が光った。人形の繰り糸。一瞬のことで、限られた視界で、首を絞められていて、何が起こったのかは解らなかった。ラザールの呻き声が聞こえた。背中の大きな気配が崩れ落ちる。取り囲むラウランの兵士たちが騒然とする。少しだけ、意識が飛んだ。

「ラザール将軍を殺したのですか」
 幼い声音。それでいて、無感情な落ち着いた言葉だ。
「まさか。シシルさんの目の前よ。ラザールさんを殺したら、シシルさんが悲しむわ」
 ――そう考えると、ラウランの当主のことも浅慮だったかもしれないわね。
 続いた無機質な独り言に、シシルは胸を締め付けられる思いだった。カロルが、やはり無事ではないということだろうか。人形の冷酷な言葉は、ジューヌの代弁なのだ。
 衣を被せた冷たく硬い物を枕に、シシルは頬をつけて伏せているようだった。零れた涙が湿らす枕が、陶人形の膝だと気付く。情けなくて、気が付いているのに顔を上げることができない。
 小さなシファの深呼吸する音が聞こえた。ナシャに向き直る、厳しい気配を感じる。
「皇帝陛下、わたしの要求も聞いてください。復讐をしたいです。仇は城にいます」
「いやです」
「亡霊」
 ナシャはにべもなくシファの言葉を退けた。シファの『亡霊』という言葉が、あまりに怜悧に発せられる。意味がわからない。それは感情に任せた罵倒ではなかった。
「わたしは目が見えないから、その分見えないものがわかります。あなたがどんなに巧く出来ているとしても、人間と間違えることはありません。でもシシルさまに知れると、困るでしょう」
 シファはナシャを脅していた。シファの復讐の対象がわからない。リリアンの仇討ちだろうか。しかしリリアンは自殺だと聞いている。リリアンは誰かに殺されたのだろうか。それとも他の誰かの復讐だろうか。脅し文句も、シシルの名前が出ているにも関わらず、なにを言っているのか分からなかった。ナシャの正体。ナシャが人形だということなんてわかっている。小さなシファは、シシルがそんなことも気付いていないと思っているのかもしれない。
「困るわ、確かに。口封じをしなきゃ」
「……あなたは、ラザール将軍を殺さなかった」
 冗談めかした調子が微塵もない、ナシャは無感情な声で物騒な言葉を告げた。シシルでさえも、背筋の冷たくなるような声音だった。継いだシファの言葉も、わずかに震えている気がいた。
「シファさんがいなくなっちゃったら、シシルさんは悲しむかしら。あの子は優しいから、心配するかもしれないけれど。あなたは生かさなきゃならないほどに、あの子の心に深く棲みついた駒ではないわ。いなくなっても、大丈夫」
 シシルはギュッと、陶人形のドレスを掴んだ。人形のナシャが体を強張らせたりするはずもなく、ささいな抵抗にシシルは徒労感を感じてしまう。
「……冗談よ。ヴィルトールでもあるまいし」
 ナシャは不意に、そう言った。
「私の邪魔をしない限り、好きにしなさい。どうせラザールさんも城に行くんでしょうから、一緒に行くといいわ」
――でもシシルさんは、絶対に行かせませんから。
 シファに言う振りをして、まだ気付かない振りを続けるシシルに、陶人形は意地悪な念押しをした。
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