ポドールイの人形師(番外)

春の病

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「だいじょうぶ、隣にいるから」
 うわ言にシシルの名を呼ぶクリスチャンに、シシルは優しく呼びかけた。熱に浮かされ、クリスチャンは眠りについても苦しそうだ。シシルは床に就かず、寝台の横でクリスチャンの手を握りつづけた。
 ――クリスチャンが、大風邪を引いた。
 ジューヌはシシルと、お見舞いに教会に来たのだった。

 やがて子供の手を握った姿勢のまま、眠りに落ちてしまったシシルに見入り。
「クリスチャン、うらやましいです」
 ジューヌ伯爵の傍ら、共に夜半過ぎまで姫君の寝顔を眺めていたカトリノーが、ボソッと零した。
 司祭の言葉が、胸に染みた。

・・・

 視界は薄紅に包まれていた。朝起きてみると、シシルはいつの間にか人形館の自室にいた。
 昨日は教会に、クリスチャンのお見舞いに行って……
 明としない記憶を手繰り、クリスチャンの横で眠ってしまったかもしれないということに思い至る。一晩起きているつもりだったのに。司祭が、伯爵が後ろにいるものだから、安心してしまったのかもしれない。
 さらに、今ここにいるという意味に思い至り、頬が熱くなる。
 世話をかけている。まるで子供だ。
 シシルがようやく布団から抜けようとしたところ、高いノックの音が聞こえた。毎朝定刻に響く、陶器が若木の扉を叩く音。
「ナシャさん、おはようございます!」
 扉の内より、シシルは慌てて声をあげた。
 起こしてもらうことが、当たり前になっている。やっぱり少し、甘えすぎだ。


「クリスチャンは夜半すぎには、熱も下がって、とても落ちついていたわ。もう安心と司祭様も仰ってたし、大丈夫なはずよ」
 足音を立てず滑るように進む、ナシャの背中についていく。明るい美しい声が、耳の右から左へと流れていった。
 ナシャの言からして、ジューヌは夜半過ぎまで、クリスチャンを看ていたのだろうか。シシルは寝こけてしまったというのに。
 朝ご飯は、なんだろう……。募る恥ずかしさを自分の中で、必死にごまかそうとしていたところ、人形が突然歩みを止めた。
「シシルさん、その……」
 ぶつかりそうになる。長い金糸が流れ落ちる人形の背中を見上げると、ナシャは言葉を詰まらせたまま、何か考え込んでいる様子だった。
 やましいことでもあるのだろうか。シシルが不審に思って眉根を寄せると、ナシャがどもりながらも言葉を継いだ。
「その、ジューヌが風邪をひいたのだけれど……」
 消え入りそうに気弱な声で、ナシャがそんなことを言った。
 寝ぼけ頭で、ナシャの言がすぐに理解できなかったシシルだったが、次の瞬間、無理やりに目を覚まさせられる。
 盛大な、爆発音が響いた。こんな来訪の仕方をする人物は、一人しかいない。困った時に、迷惑なお客さんだと、シシルは思った。

 自動の扉を破壊して侵入してきた魔女に対し、シシルは主のためにお願いをしてみた。
「ドロティアさま。ジューヌさまが風邪を引いてしまったそうなのです。今日はお手柔らかに願えませんか?」
 シシルの言葉に、魔女はしばし目をそがめてみせる。
 やがてうれしそうに。ドロティアは美しい顔に恐ろしく邪悪な笑みを浮かべた。


 ドロティアとナシャを従え、シシルはジューヌの室に踏み入れた。
 相変わらずの淀んだ空気の空間に、精巧な、等身大の人形たちが溢れんばかりに詰まっている。ただ今日は彼らから、さほど視線を感じない。
 整然としてないからだろうか。陶の少女も、牛頭の怪物も、熊のぬいぐるみも。いつもは戸口の一点を凝視している彼らの視線が、ばらばらに散乱している。
 やがて視線を巡らすと、部屋の奥隅に、シシルはおかしなものを見つけてしまう。
 板木を合わせ、みすぼらしい寝台が組んである。その寝台に、黒い襤褸布に包まり、人が寝ている。
 やっぱりこれは、ジューヌ伯爵なのであろうか。
 赤白のいつもの仮面も、恥ずかしいとは思っていた。
 だが同じ配色の、口の部分だけ開いた布製の覆面をかぶっている怪しい人を、自らの主と思うのはやるせなかった。

・・・

 教会に訪れるなり、すぐの行動だった。寝台にうずくまるクリスチャンの、造りの幼い丸顔は、熱で赤黒く変色していた。
「熱、ひどいの?」
 言うなりシシルは歩み寄り、自分の額をクリスチャンのおでこにくっつけた。端から見ても、もともと熱で火照ったクリスチャンの顔が、さらに真っ赤になるのが見てとれた。

・・・

「さぁて、ジューヌ。お熱はあるのかなぁ」
 ドロティアは人形たちを蹴散らしながら、固まったままのシシルを追い越し、覆面の病人のもとに歩み寄る。にっこり笑んで、覆面の上から伯爵の額に手を添えた。笑みの形を造る唇から滴る、甘い囁き。恐ろしく含むもののある声の調子に、ナシャとともに遠巻きに離れて眺めていたシシルでさえ、背筋が凍る思いがした。
「シ、シシル。……助けて下さい」
 やがて恐怖に語尾を震わせた、あまりにも情けない、伯爵の呻きが部屋に響いた。
 隣のナシャが、ぐしゃりと音を立てて崩れ落ちた。

・・・

 お見舞いに行っての夕餉の時間。
 ジューヌは、シシルがクリスチャンに餌を与える様子を見ている。ミルクで煮込んだ、野菜のスープだ。
「クリスチャン、食べなきゃ元気になれないわよ。口を開けなさい」
 ふーふーと匙で掬った野菜を冷まし、嫌がるクリスチャンに手ずから食べさせる光景は、まるで小鳥の、雛が雛に餌をやっているようだった。

・・・

「ジューヌさま、口を開けて下さい」
 逃さぬように、ドロティアに抑えつけてもらう。だが覆面から覗いた薄い唇は、かっちり錠されたように開かない。まったく、往生際が悪い。
「シシルさん。どうしてジューヌは、生卵を食べなければならないの?」
 いつの間にか復活したらしい陶人形が、おずおずと背後から訊ねてきた。
「ドロティアさまが教えて下さったの。卵の黄身を生で飲みこむのが、風邪に効くんだそうです」
 東の国の風習らしい。振り返ることなく答え、シシルは作業を遂行する。覆面男の下唇に爪を掛け、無理やりこじ開けようと試みる。ジューヌは困ったように呻くと、割とあっさり顎の力を緩めてしまった。
 ドロティアからもらった生卵を、手早く片手で押し割ると、素早く中身を伯爵の口の中に流し込む。片手で割るのは難しく、それになにせ、殻付きの卵を触ること自体初めてのことだったので、少々殻の粒も一緒に入ってしまった。
 少し心配でジューヌの顔を覗きこんでいたが、伯爵は口元をしかめながらも、必死に飲み下してくれたようだった。
 ドロティアが隣でくつくつと、嬉しそうに笑っていた。

・・・

 赤衣の魔女ドロティアは、非常に上機嫌で帰っていった。
 魔女が訪れた割には、被害は非常に少ない。だがジューヌの心は、いつになく傷ついていた。
 喉の奥にいまだ卵が絡んで、気持ちが悪い。
 ジューヌの貧相な寝台の縁に、シシルがそっと腰掛ける。
「ジューヌさま、どうして仮病なんか使ったのです?」
「シシル、気付いていたのですか……」
「ドロティアさまが教えてくれました。もし本当に風邪をひいていたら、ナシャさんがあんなに元気に動けるはずがないって」
 いまさらながら、覆面の下が熱くなる。やはり、遊ばれていた。これではまるで、道化ではないか。
「少しだけ、気分は悪かったのですよ。ドロティアさまの魔法で、すぐに治ってしまったのですが……」
 不意にジューヌの額に、柔らかな重さがかかる。小さな手が置かれたことに気がついて、わけもわからずのぼせてしまう。
「……少し、熱いかもしれませんね。お休みになられますか?」
 ジューヌに置いた白い手を、今度は少し広めのかわいらしい、自身のおでこに当てながら、シシルが呟いた。
 ――手を、握っていてもらえますか。
 なんてことを、言えようはずもない。
「ジューヌさまが眠るまで、隣で見ていてあげましょうか?」
 子供に話しかけるように。少しいたずらな揶揄を込め、高く澄んだ声が、降ってきた。
「お願い、してもいいですか?」
 見上げると少女は、少し驚いたような表情を造る。
 やがて呆れたように苦笑してみせ、それがひどく、可憐だった。
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