ポドールイの人形師(番外)

結婚式

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 朝、外に出たら世界が真っ白だったりする。
 眩しくてびっくりするが、世界は静かで落ち着いていて、驚いているのが自分だけだということに気づいたりする。シシルはほんの少し釈然としないものを胸に抱えながらも、白い世界を受け入れる。
 白い朝に教会を訪れると、シシルの他に誰も来ていなかった。ミサをするべきカトリノー司祭が、壇を向いた長椅子にぽつねんと一人座っている。
 今日は日曜日のはずだ。シシルが曜日を間違えているのだろうか。敬虔なポドールイの人たちが、日曜のミサに誰も来ないなんてことがあるはずはない。もしかして村人全員がそろって忘れているのかもしれない。
 全員物忘れ……頭に浮かべてみるとシシルは少し真剣に悩んだ。大人たち、子供たち、ポドールイの人たちの顔を順々に思い浮かべる。例えばモルロ村長は少し惚けている。クリスチャンはネジが抜けている。誰もがみんないい加減そうで、日曜日のミサなんてうっかり忘れてしまいそうだ。
 朝はナシャとディディエとお祈りをしてきた。今日は確かに日曜日のはずなのだ。
 自分の思考にやっぱり頭の中でため息をつく。無意識に、眉をひそめる自分に気づいた。聖堂の静けさは、シシルに何の答もくれなかった。
 人のいない古い小さな教会は、静謐でなにやらいつもよりも神聖に感じられた。なんとなく足音を忍ばせて、シシルは長椅子の間の通路を渡る。そっと長椅子の、司祭の隣に腰を下ろした。
「シシル様……驚いた」
 司祭の反応は鈍かったが、普段の無駄な饒舌さを思うと、やはり驚かせたのだと思う。何をということもなく説明を求め、上目遣いで司祭を伺う。司祭は一瞬曖昧な笑みを返してくれたが、すぐに悄然と項垂れた。
 嫌な予感がした。慌てて視線を外すと、今度はわざとらしい盛大な嘆息が隣で落ちる音がする。
「昨日の夜のうちに雪が降ったんですね。外が真っ白で、あたしびっくりしたんです」
「シシル様。困っている人を見て見ぬ振りをするのは、感心しませんよ」
 少し早口になってしまっただろうか。話を逸らそうとしたのを、司祭にあっさり見破られた。
 仕方ないと思う。もともと、本気で逃げられると思ったわけではない。
「……どうしたんですか、司祭さま」
「おや、私の悩み事を聞いてくれるのですか。うれしいです、シシル様はお人形さんのように美しいだけじゃなく、とても優しい子なんですね」
 失敗したと思った。カトリノー司祭の『悩み事』は、そんな皮肉から始まった。


「リズが結婚するんです」
「おめでとうございます……どなたでしたっけ」
「リズ・モルロです。ああ、今日からは苗字が変わるんですね。お相手の人は外の人なので、名前は忘れてしまいました」
 モルロの苗字で、シシルもリズに思い当たった。モルロ村長の、確か孫娘だ。ポドールイ村一番の美人と評判で、実際質素なポドールイの住民にしては垢抜けた人だった。
「村長さんのお孫さんで、村一番の美人の方ですね」
 そうはいっても、陶人形や魔女といった、もはや人外の美貌とシシルは日々顔を突き合わせているのだ。美的感覚など、とうに麻痺してしまっていた。村の評判を額面通りに口にすると、我ながら空々しくてシシルは少し自分が嫌になった。
「そうですね、村一番かもしれません。シシル様は、美人というには若干幼すぎますからね」
 司祭の無駄口に、シシルの自己嫌悪は険に切り替わる。
「あまりお話したことがないので、リズさんのことはよく知らないのです」
「リズも気位の高いところがありますからね。比べられるのが嫌で、シシル様を避けているのでしょう。今日もシシル様には、お呼びが掛かってないようですし」
 司祭は感じ悪く薄い唇を歪めて、ふふんと鼻で笑ってみせた。
 今日はやけに、カトリノー司祭が意地悪だ。相当に機嫌が悪いらしい。仮にも聖職者が、そんなことでいいのだろうか。
 シシルは司祭の横から立ち上がった。長椅子の一番前の列だったので、説教壇がすぐ前にある。一度寄りかかってみるものの、誰もいないことをいいことに、シシルは行儀悪く壇の前に座ってしまった。
 古い小さな教会だから、聖像も聖画像も置いていない。ただ小さなステンドグラスを透かした赤い光が、一条あてどもなく堂内に差し込んでいた。
「それで司祭様、悩み事ってなんですか?」
「今日、リズの結婚式なんですよ」
「おめでとうございます」
 細面の少し貧相な顔の黒衣の聖職者が、虚ろな表情でシシルを見下ろしている。人を食った軽薄さを取り除くと、司祭の印象はずいぶんと変わってしまう。思わず、本当に助けてあげなければいけない気分になった。
「村の人たちはみんなリズの結婚式に行きました。私も呼ばれたのですが、日曜日に教会を空けるわけにもいかないので、留守番です。シシル様のように規律正しく、私のミサを優先してくれる人がいないとも限らないので」
 シシルにはお呼びが掛からなかったのだ。さっき自分でそう言っていたくせに、司祭はなぜ意地悪を重ねるのだろう。
「司祭さまは、お留守番が嫌なのですか?」
「いいえ、そんなことはありません。邦境にシャイヨーの司教殿が来ているのですよ。私が行きますと、司教殿にも気を遣わせてしまいますし」
 シャイヨーの司教は、あれで氷の仮面を被っているのかというくらい厚顔だから、そんな心配はないと思う。しかしさて、カトリノー司祭の悩み事とは何だろう。どうしても要を得なくて、シシルは眉根を寄せた。一日のうちで、もう何度目の渋面だろうか。
「シシル様、私にそこまで言わせるのですか。私は教皇猊下よりポドールイ教区を任された司祭で、ここは教区の教会で、ポドールイの娘が結婚しようというのですよ。それがなんですか。リズは野天の下、邦を追われた亡命司教に式を執り行ってもらおうというのです。どうせ昨日の雪でべちょべちょになりますよ。確かにシャイヨーの司教は私よりも位階は上ですが、でもそれだけじゃないですか」
 シャイヨー司教、リュック・ド・ラウランは、都の神学校を首席で卒業している。位階に見合って、教養もずっとカトリノーよりも高いだろう。二人の皇子の洗礼を執り行い、宮廷付きの司教を務めていた。経歴も比べ物にならないくらい華やかだ。笑顔も一見しただけならばカトリノーのように嘘くさくはなく誠実に見えるし、そもそも元の顔の造りからして、身内びいきではなく、リュック司教は若い花嫁さんに好かれるんだろうと思う。時々従姉のカロルののろけるさまを見せられると、シシルさえも悔しくなるほどだった。
「司祭さま、つまり、嫉妬ですか?」
 今日の仕返しのつもりだったが、カトリノーが心底傷ついた顔をするので、シシルは焦った。
「でももしもあたしが結婚式をするときは、シャイヨーの司教さまよりもカトリノーさまにお願いしたいです」
「本当ですか!?」
 勢いに押されて頷いた。取り繕った言葉に、思いがけず喜ばれて居心地が悪かった。
 嘘ではない。叔父の氷のような冷たい笑顔と感情のこもらない声音に祝福されては、文字通りガチガチに凍り付いてしまって、シシルはとても愛を誓うどころではなくなるだろう。それならばカトリノーに少し異端めいた面白いミサをしてもらって、ポドールイの村人たちにお祭り騒ぎをしてもらうほうがずっと楽しくて気楽だ。ジューヌはお人形劇をしてくれるかもしれない。
 司祭の祝福を受けて、永遠の愛を誓う聖なる儀式。夢想の中のシシルの傍ら、花婿の位置に、いつの間にかタキシードのカロルが立っていて、シシルは少し笑ってしまった。カロルに花婿を押し付けるなんて、あんなに女の子らしい子もいないのに。
「楽しそうですね、私が落ち込んでいるというのに。明日シシル様の結婚式をやりましょう」
「ええ」
 さらっと言われて、思わず自然に返してしまった。
「は?」
 司祭は椅子を立つとシシルに寄って身を屈め、聖職者にあるまじき邪悪な、煩悩にまみれた笑みを造った。
「ほんの遊びです。落ち込む私を慰めてください。シシル様の花嫁姿を見られれば、私の悩みも吹き飛んでいきそうな気がします。そうと決まれば、早速花婿候補を探さなくては……」
 待って欲しい。まだやるだなんて言っていない。
「花婿はジューヌが、ジューヌがやります!」
 突然戸口から女の叫び声が聞こえた。通路の端に、陶人形が立っている。カトリノーは立ち上がり振り向くと、小さく不純な歓声を上げる。陶人形は慌てふためきながら全く無表情で――それはいつものナシャなのだが――、やっぱり落ち着かない感じがする。
  ……いつから盗み聞きしていたのだろう。
「ナシャさん、それはずるいですよ。私だって花婿やりたいのに」
 司祭が応えた。声音に冗談めいたところがなくて、シシルは額を押さえる。趣旨を自分で忘れている。カトリノーが花婿役をやった場合、司祭役はどうするつもりなのだろう。
 シシルはもぞもぞと立ち上がろうとして、少してこずった。行儀悪くうずくまっていたら、いつの間にか足が痺れてしまっていた。芝居がかって差し出された司祭の手を取って立ち上がる。情けなさをごまかすため、シシルも芝居に付き合って、少しつんとした淑女の表情を装ってみた。
「わかりました。ジューヌさまが花婿役をやってくださるなら、司祭さまのために結婚式のまねごとをやってあげてもいいです」
 カトリノーはひどくうれしそうな顔になった。ナシャも無表情なままに、身を乗り出して瞬きをする。
「ただし、条件があります。そのときはジューヌさまに仮面を外してもらいます。さもないと、誓いの口づけだってできないでしょう」
 シシルは自分が、企みごとを遂行する邪悪な笑みになっていることに気がついた。司祭の煩悩が感染ってしまったらしい。
 ナシャが無表情のまま、おろおろするさまが可笑しかった。


 白いドレスを着せ付けられ、地面まで届くヴェールをかぶって、レースを織った造花のブーケを胸に抱き、シシルは教会の扉の外で待たされていた。今ならまだ逃げられるだろうか。そんな思いがよぎった瞬間、シシルの髪をいじっていた冷たい指が両肩に置かれ、くっと力を込められる。硬い陶器の感触に、シシルは逃亡を諦める。
 小さな教会の中からガヤガヤと人の話す声が漏れてくるのだ。どうしよう。ほんのお遊びだったはずなのに、村人のほとんどが集合している気配だ。
 ――ジューヌさま、半分だけでもまだ仮面を被っているから、約束は反故です。
 シシルたちよりも村人たちが浮かれてしまって、そんなことを言える空気ではないのだ。カトリノー司祭の策略だろうか。いや、ただ司祭がお喋りで、村人たちがお祭り好きなだけだろう。
「真っ白じゃないんですね、ドレス。少しミルク色がかってます」
 シンプルな一衣のドレスだ。一見ドレスは真っ白だったが、地面の白い雪と重ねると、少し暖色がかっていた。
「優しい色のほうが似合うかとジューヌが思って。分からない程度にしたつもりだったのですけど、やっぱりシシルさまが着ると映えちゃいますね」
 さあ行きますよ。ナシャはいきなり扉を開けた。ガヤガヤとさざめいていた話し声が、潮を引くようにしんと静かになっていく。
 このためにカトリノー司祭がわざわざ用意したのだろう、褪せた赤色の絨毯が長椅子の間の通路に敷かれ、祭壇の前へと続いていた。
 目元だけを赤白の仮面で隠した黒い上下の青年が待ち構えていて、立ち竦んだシシルに恭しく手を差し伸べる。鼻から下の暗い色の肌と、温度を感じさせない薄い唇が露わである。
「しかし白雪姫の白い素肌を覆うには、新雪だって濁って見えます」
 村人たちの歓声に紛らせ、仮面の花婿はおどおどと、気障な台詞でナシャの言葉を継いでみせた。面食らって、シシルも思わず顔が熱くなる。
 さ迷う様に持ち上げたシシルの右手を、ジューヌがそっと捕まえた。どっと乱暴な歓声が上がって、シシルもジューヌも入り口ですっかり固まってしまった。

 そのあとは、いつものポドールイのお祭り騒ぎで、シシルとジューヌは見世物だった。
 顔を俯けヴェールに隠し、ジューヌに引っ張ってもらっただけなので、ほとんどなにも覚えていない。
 いつの間にか祭壇の前に立っていて、司祭に促されて顔を上げると、シシルは仮面の奥の蒼い瞳と見つめ合ってしまっていた。


「汝、領主様。あなたは健やかなる時も病める時も、死が二人を分かつまで、シシル様を愛することを誓いますか?」
 はい、と。仮面の奥の蒼い双眸でシシルを見つめ、紡がれた短い言葉は、情けないジューヌらしくなく決然としたものだ。音を発した薄い唇に、シシルは瞳を奪われた。どっと、観客席から歓声が上がった。
「シシル様、あなたは領主様を夫と……とりあえず誓いますか。いいえ、誓わせません。シシル様は村のみんなのものであります」
 司祭はもごもごと聖句を濁し、挙句勝手に宣誓を破った。じっとジューヌを見上げ、はい、と答える準備をしていたシシルは、情けなく口をぱくぱくさせた。仮面の花婿は半ば安心したように苦笑する。口許が露わで、ジューヌの表情が感じ取れるのがうれしかった。
 観客席からは、笑いと入り混じったやじが飛ぶ。ひっこめー、という声の方向を司祭は拗ねた目つきで睨みつけた。
「では、皆さんの要求に応えまして、指輪の交換等もろもろ省略して。お二人、誓いの口付けを」
 カトリノーの言葉に、どっと爆発するように堂内が沸いた。ジューヌが困った風に顔を逸らした。シシルもどうしようもなくて、頬を熱くしながら俯いた。
 やがて堂内は手拍子と掛け声がこだまし始め、いくら真似事といっても、もはや神聖な結婚式とは掛け離れた状況になっている。
「その結婚、待ったー! ポドールイ自警団はピエロの卑怯な結婚を認めない! シシル、助けに来たぜ!」
 ……クリスチャン。
 そして雪崩れ込んできた子供たちに、式は決定的にボロボロになった。
「シシル様、こっちこっち」
 誰かがもみくちゃのシシルの手を引いて、助けてくれた。聞き覚えのない、女の人の声だった。
「騒ぎが収まるまで、とりあえずうちに避難しますか?」
 見上げると、綺麗な女の人と優しそうな男の人が立っていた。
 新婚さんだ。騒がしい場にそぐわない、二人だけのゆったりとした幸せな空気に、シシルはピンと来てしまった。


 ナシャが、怖い。門を壊して訪ねてきたドロティアを、上機嫌に応対している。ジューヌは? と訊かれて、留守です、と返すのは相変わらずだが、魔女の威力行使にも怯えるどころかまるで動じることなく、踊るようにお茶を出したりお菓子を探したり、勢い余って空を飛んだりしてしまっている。
 結婚式のお芝居以来、ジューヌは以前に増して姿を隠すようになってしまったが、ナシャは軽気の入った風船のように浮かれた状態が続いている。
「シシルちゃん、なにかあったの?」
 調子の出ない様子のドロティアは、テーブルの椅子に横向きに腰掛けて、苦そうに顔をしかめながら紅茶を啜っている。
「いえ、特に。村長のお孫さんが、ご結婚されたくらいです」
 もう村中に知れ渡っていることとはいえ、あえてドロティアに恥をさらす気にもならない。魔女は視線を外し、あーそー、とあからさまにどうでもよさそうに相槌を打った。先ほどから魔女の紅茶が、ぼこぼこと沸騰している。しばらく見ていると、カップがぱんと破裂した。
「もう、ドロティアさんったら」
 布巾を持って飛んでくるナシャの声は、あいかわらず浮かれきったままだ。
「帰るわ」
 ドロティアは立ち上がる。気持ちは分かる。シシルもここ数日、そんな気分なのだ。隠れっぱなしのジューヌに憤る気勢すら殺がれるのだ。げっそりと、ドロティアはほとんど青ざめた顔でうなだれていた。
「ドロティアさま、あたしも結婚したいなぁ」
 不意に思って零したシシルの言葉に、ナシャが空から落ちてきて、ドロティアは凍り付いていた。とりあえず、空気が固まった。
 リズさんと旦那さんの家にお邪魔して、いいな、と思っただけなのに。
 シシルは失礼な人たちに気付かない振りをして、紅茶に口を付け、ずずっと行儀の悪い音を出してみた。
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