人形工房



 商店街の横道に入る。
 小さな商店の並びが途絶え、道は住宅街へと連なっていく。喧騒と閑静の狭間、賑やかな明かりの消える境目に、看板の無い店がある。知る人ぞ知る、人形屋だった。


 練り硝子の嵌め込まれた扉を開く。鈍い鈴の音が鳴るだけで、店主からの出迎えの声はない。店の中に踏み入ると、空気が幾分冷たくなったかのような、そんな錯覚にとらわれる。
 陶磁器の乾いた匂いが、微かに鼻腔を擽った。
「よかった、できてる」
 真っ直ぐな黒髪を流した美しい少女が、少し焦点を外してこちらを見ていた。作られたばかりであろう少女に瞳子はまず呟いて、次にカウンターに座る店主に目を向ける。
 目が合うと、年齢不詳の端正な無表情の口許を、店主はほんのわずかに歪ませた。彼は四半世紀前、瞳子の父親が放蕩に明け暮れていた時代、父の趣味世界の範囲で一世を風靡した人形師だった。
 店主の作る人形は、どれも命を吹き込まれているかのように、艶かしく美しい。店に飾られた人形たちのどれよりも、店主のほうが無機的で、出来損ないの人形のようだった。
「素敵、本物にまるで引けをとらないくらいに美人だわ。見分けがつかないくらいじゃなくて」
 瞳子は、等身大の黒いドレスの少女と向かい合い、半ば陶然とした心地になる。真っ直ぐな黒髪や白い首筋、長い睫や繊細な指先は言うに及ばない。背を伸ばす端然とした佇まいや、切れ長の瞳から発せられる勝気な眼光、全てが見慣れたものだった。
 これが、人形なのだ。たかが粘土や硝子玉に、性格や感情までも込められている。忠実に摸された出来栄えに、瞳子は満足した。
「ええ、美しい娘になりました。良い見本があったので、製作も割合と簡単です。もっとも手間は掛かってますがね。私に人形など求めずとも、君なら鏡を見ればそれで済むのに」
 皮肉と世辞のない交ぜになった店主の言葉に、瞳子はけらけらと笑った。白い顔が能面のままで、余計に可笑しい。皮肉めかしてはいるが、実際店主は本気だろうと思う。瞳子の買い物は頓狂だったし、自分で言うのも憚られるが、瞳子の容姿は美しい。
「お人形のあたしは、パパに贈るのよ。これなら満足してくださるんじゃないかしら。パパがこの子に夢中になってくれれば、あたしはもっと自由になれるわ」
 店主は薄い唇を、またほんのわずかに歪ませた。
「それは、お父上に同情しますね」
 そういえば、この人形屋は父親の紹介だ。一見の瞳子に、店主が味方してくれるはずもない。
「ねえ、あなたの人形、どれもとっても素敵だわ。もっと見せてもらってもいいかしら、買えないかもしれないけど」
 ごゆっくり。愛想のない店主の許可を受け、瞳子はくるりとカウンターに背を向ける。無感情な店主に代わって、美しい人形たちが瞳子を歓迎してくれた。


 店内に飾られていた、『もう一人の瞳子』と同じ等身大の陶人形は、三体だけだった。
 最初に目に付いたのは、可憐な眠り姫だった。真っ白な肌に甘い蜂蜜色の髪の、幼い西洋人形の少女だった。透明な箱の中で、肌と同色の白いドレスに胸で手を組み、穏やかに眠っている。白い唇に口付けをすれば、きっとぱっちりと目を覚まして、大きな瞳を瞬かせるのだろう。
 そんな錯覚を抱くほど、硝子越しの肌は柔らかそうで、耳を澄ませば呼気まで聞こえそうだった。
「この子、どんな夢を見ているのかしら。幸せそうね」
 ろくな返事が返ってこないことを折り込みつつ、瞳子は背後の店主に言葉を投げる。
「私に人形の解説なんて、言わせないでください。失望するだけですよ」
「それもそうね」
 瞳子は肩を竦めて、店主に同意した。
 面白みのない人形師は、きっと与えられた才の全てを人形作りに捧げてしまったのだろう。それはそれで、充分に価値あることだった。店主のお陰で、瞳子のような人間が、この眠り姫を愛でることができるのだ。
 瞳子は二人目の人形に目を向ける。こちらは打って変わって、活発そうな歌唄いの少女だった。赤毛の髪を無造作に結び、肌は白かったが眠り姫とは違い、透けて見える血色が鮮やかだった。声を上げる頬などは高潮して、熟れ始めた大きな林檎を連想させる。
「可愛いわ、この子。何の歌を唄っているのかしら。楽しそうな可愛い歌が、今にも聞こえそうな気がするわ」
 瞳子は踵を軸に、くるりと半回転して店主を見やる。反応を期待して口にしてみた、幾分わざとらしい感想にも、店主は眉一つ動かさない。
 やがて瞳子の凝視にようやく気付き、店主は口許をほんの少し歪ませる、薄笑いを浮かべてみせた。
「あいにく私は、歌謡に興味がない」
 あまりのすげない店主の反応に、さすがに瞳子も眉を顰める。
「この子たち、あなたが作ったのよね。あなたみたいにつまらない人の、どこにこの子たちがいたのかしら」
 瞳子は店主から、意識的に不機嫌に視線を外し、三体目の人形に目を遣った。
 三体目の人形は、男の子だった。そして二人の女の子の人形とは、ずいぶん趣が違っている。この子なら、店主に似合わないでもない。陰惨な人形だった。
 まとった襤褸がぶかぶかで少年の身体の線を隠しているため、一見してもわからない。だがよく見ると小さな体は、ほとんど皮が張り付いただけの骸骨だった。茶色い襤褸の襟ぐりから覗き込むと、張り裂けそうにあばらが突き出ていた。
「これ、あなたでしょう。自画像っていうのかしら。絵じゃないわね、自分を模した人形。なんていうのかしら」
「知りません、自分の人形なんて、あまり気味のいいものではありません。しかしその子は私です。わかりますか」
 初めての感情を含んだ反応に、瞳子は少し浮き立った。簡単に店主を振り返ったりはせず、襤褸をまとう痩せこけた少年を、より微細に観察する。
 幼い白い顔は確かに、カウンターに座る、人形であれば出来損ないの店主の面影をよく残していた。薄められた眼差しは憂鬱げで、理知的に見える。相貌は端正といえた。
 ただ似ているとはいっても、どちらが魅力的かといえば、人形の少年の方がよほど目を引く。それこそ、比較の対象にすらならない。両者の容貌や、年齢の差ではない。
 少年は暗がりの中からも、光を見据える強い眼差しを持っていた。
 ゆっくりと振り向いて、今度は店主の顔を、改めて観察する。店主は感情の機微の、全てを削ぎ落とされてしまったような人間だった。身なりは普通でも、乾いた枯れ木――あるいは古びた骸骨を、連想させた。
 生者と被造物の印象がまるで逆転している。瞳子は店主の顔を真正面から見据えながら、くすくすと独り笑いをしてしまう。
「この子が一番気に入ったかも。買うわ、三体とも。言い値を払うから、売ってちょうだい」
「いくらあなたがお金持ちの娘でも、子供のお小遣いで売る気はありませんよ」
「余計な心配をするのね。大丈夫よ、おねだりすれば、パパは何でも買ってくれるわ。その代わり、あたしはもうしばらく『パパの瞳子ちゃん』でいなければならないけれど、それでもあなたの人形たちが欲しくなったの。光栄に思いなさい」
 瞳子は父親を篭絡するときの、とっておきの艶やかな笑顔を作ってみせた。店主はわずかに目を瞠り驚いた様子をみせる。やがて初めて、柔らかな笑みをぎこちなく浮かべた。
「今の君に、あまりその人形たちを売りたくはない。君はその子たちの、何も解っていないよ」
「何よ。今更芸術家ぶるつもり?」
 はにかみながら、隠微に気色ばむ店主の様子が可笑しい。作り笑いだったはずが、瞳子は笑みが止まらなくなった。
「そんなつもりじゃない。ただ、理解してやらないと、その子たちにとっても不幸だし、君にもおそらく良くないはずだよ。引き取る前に、その子たちの話を聞いてもらえないだろうか」
 瞳子は、その場にしゃがみ込んだ。店主が可笑しくて、必死に我慢しようとしても、こみ上げる笑いが止まらない。白けた顔をしているくせに、店主は気が触れている。なるほど、浮世離れした人形たちを作り出す、芸術家なわけである。
「もちろん。あたしも人形たちの声が聞きたいわ。どうすればいいのかしら?」
 店主は疲れたような吐息を漏らした。腕時計を見て、立ち上がる。手首の内側を覗くしぐさは女々しかったが、立ち上がると背は高かった。
「真夜中に、その子たちは動き出す。私は彼らと話すことが何もないから、そろそろお暇しようと思う。君はここに泊まっていきなさい」
「……冗談」
 店主は、苛立ったようにわずかに目を眇めた。本気だろうか。
「お父上には、私から心配をお掛けしないよう、連絡しておく。明日になっても君がその子たちを欲しいと言えば、無償で君に譲ってあげよう。君はお父上に、おねだりをしなくてよくなる。君は『パパの瞳子ちゃん』である必要がなくなるよ」
 ここまで言うからには、何か裏があるのだろう。
 仮にも父親の紹介の店だ。例えば父親が裏で糸を引き、どんなに悪質な悪戯を企んでいたとしても、瞳子の身に直接危険が及ぶことはしないだろう。瞳子は父親に、愛されている。
「乗るわ。一晩ここで、肝試しをすればいいわけね」
 店主は灰色の上着を羽織ると思慮深げに目を細め、瞳子とそっくりの人形の少女の、細い肩に手を掛けた。
「この人形は私が連れて行くよ。その方がおもしろくなるかもしれない」
 店主は人形を抱き上げた。瞳子そっくりの人形は、店主に横抱きにされ、大人しく弛緩している。人形とはいえ、自分にそっくりなのだ。物のように扱われ、瞳子は肌の粟立つような、生理的な不快さを覚える。
 仲良くしてくれたまえ。皮肉げに言い残し、店主は本当に瞳子を置き去りに、鍵を掛けて店から去ってしまった。


 カウンターの、店主の椅子に座って、瞳子は深まる夜をただ無為に過ごした。いっそ眠ってしまおうかと思っていたのだが、目を瞑っても顔を伏せても、不思議と目はむしろ冴えてゆく。
 暗闇の中、一人人形たちに見つめられる状況。不気味だ。しかし怖いとは思わない。人形たちは父親よりずっと美しかったし、店主よりは感情を感じさせた。
 表には、人通りの気配が消えていた。不意に流れる何かが途切れたような、刹那の違和感が訪れる。瞳子は耳鳴りのするような、深い静寂に包まれた。
 初めて、言いようのない恐怖を感じて、瞳子はとっさに耳を抑える。
 金切り声が、突然暗闇を切り裂いた。耳に当てた瞳子の指を容易く震撼させて、悲鳴のような叫び声が鼓膜を激しく揺さぶった。
 狂ったような高い声に脳味噌を揺さぶられ、椅子からずり落ち瞳子は耳に指を詰めてカウンターの裏に蹲る。不意に店内に光が撒かれた。誰かが、白熱灯を点けてくれたらしい。橙がかった柔らかな明かりに、瞳子は恐る恐る顔を上げる。相変わらずの狂った悲鳴に、それでもようやっと聴覚が少し麻痺し始める。瞳子はなんとか正気を取り戻し、その場で立ち上がった。眩暈がして、視界が少し揺れている。
「やあ、ヤミ。もう魂が宿ったんだ」
 襤褸をまとった少年が、電気のスイッチの前で、膝を抱えて蹲っていた。

「キチ、黙れよ」
 少年は立ち上がって、穏やかな、しかし冷えた声音で誰かを咎めた。狂ったような悲鳴が止んで、ひきつけのような、不規則な空気の掠れるの音に切り替わった。
 これは夢だろうか。それとも店主と父親が、何か瞳子の理解の及ばぬ仕掛けでも作ったのかもしれない。
 骸骨のような身体にもかかわらず、襤褸をまとった少年は、動きは機敏で声も快活だった。その差に、瞳子はむしろ気持ちの悪い違和感を覚える。
 瞳子は少年の、冷ややかな視線を追い掛ける。赤毛の健康そうな女の子が、口を大きく開けたまま、必死に声を漏らすのを我慢している。
「いい子だ、キチ。僕はヤミとお話しなきゃいけないから、もうしばらく黙ってるんだぞ」
 少女は、可愛らしい歌唄いなどではなかった。少女が奏でていたのは歌ではない。狂気に満ちた悲鳴を、少女は必死に叫び続けていたのである。
 瞳子が立ち尽くしていると、少年は瞳子に歩み寄ってきた。二本の足は今にも折れそうな枯れ枝のように細く、不安定に見える。しかし足取りに乱れはない。
「あたしが、ヤミなの?」
「ああ、僕が名付けた。君はヤミだ」
 ヤミ。――闇。どこよりも、静かで綺麗な空間のこと。
「素敵な名前ね、気に入ったわ」
「そうだろう。気に入るところが、また君らしい」
 少年はわかったような口を利き、大人びた皮肉な笑みを小さく漏らす。深夜に時が凍り、人形が動く。少年はこの不思議な世界の主人だった。骸骨のような少年の不気味さも、不遜な態度も、瞳子は心の中で肩を竦めて受け入れる。
「あの子は、可哀相な子はキチというのね。まるでお婆ちゃんみたいな名前ね。お吉さん」
 赤毛の少女は、ひきつった顔でこちらを見ていた。虚ろな大きな黒い瞳は、絶望に蝕まれていた。どんなに苦しくても、人形のキチは涙を流すことができない。悲鳴を上げるだけである。今キチは、それを少年に禁じられている。
「違う。キチは、気違いのキチ」
 悪意と嘲りを含んだ言葉を、少年は何気なく零した。途端、キチは喉が破れたかのような絶叫を上げた。
「キチは、気違いのキチだよ。キチガイ。キチガイキチガイキチガイ」
 少年は楽しそうに繰り返す。興が乗ってきたのか、少年の語気が次第強く残酷になる。それに合わせてキチの叫びも狂気を強め、音階を上って金切り声に変わっていく。張り裂けそうな狂おしい悲鳴に、瞳子も頭を掻き混ぜられる。
「……キチガイ、唄え!」
 絶叫を縫って、少年は突然命令を下した。途端唐突に叫びは途絶える。
 キチは殴られたように固まって、途方に暮れた顔で少年を見つめた。喉の奥の声を探しているのだろうか。健康そうな、薄桃色の唇を、何度か微かにわななかせる。
 やがて遠慮がちに、子供の高い歌声が、唇の隙間から紡がれる。キチの歌は、大きな声ではなかった。細く穏やかで可憐な声音。音程の狂ったきしんだ歌が、空間に染み入り、穏やかに瞳子の正気を揺さぶった。

「ねえ、もう一人いたわよね。眠り姫の女の子。あの子はなんて名前なの?」
 絶え間なく脳を揺さぶるキチの歌声を必死に耐えつつ、瞳子は訊ねた。瞳子らしからぬ、そう自分でも思う。しかし骸骨のような身体の残酷な少年も、狂気に侵され悲鳴のような歌を奏でるキチにもうんざりだった。
 部屋の隅に飾られた、硝子の箱に視線を投げる。箱の中で穏やかに眠る、あの可憐な少女と話したい。眠り姫の幸せな夢を邪魔してでも、無理やりにでも揺り起こし、瞳子の相手をしてほしい。
「眠り姫……?」
 少年は一瞬、眉を寄せた。しかし瞳子の視線を追って、すぐに合点したようだった。
「ああ。いるよ、そうだね、紹介しなきゃ」
 少年は、節の浮き出た細い指を瞳子の指に絡ませた。硬くて、おぞましい。少年への、この感情は恐怖だろうか。瞳子はその手を振り払うことはできなかった。しかし表情には出てしまう。少年は楽しそうに、嗜虐的な微笑を浮かべ、瞳子を硝子の箱に導いてくれる。
 きらきらと光る蜂蜜色の髪の毛と、冷たそうな真っ白い肌。薄い透明な板を隔て、妖精のように儚い風情の可憐な少女が、深い眠りについている。
「この人形にも、僕がぴったりの名前を付けてある。なんだと思う?」
 眠り姫の顔を覗き込む。閉じた瞼を長い睫毛が縁取る。青白い、幼い可憐な顔。薄い唇も真っ白だ。眠り姫の見る夢が、まるで想像できなくなった。硝子の箱が、柩に見える。
 この子は、眠ってなんかいない。夢なんか見ていない。
「時間切れ。僕とヤミとキチの大切な仲間、ムクロだよ。作られたときから殺されていた、可哀そうな骸の人形」
 死んでいる。人形なのに、もともと命などないはずなのに、この子は死体の人形だ。店主は、死体の人形を作り上げ、硝子の柩に納めて飾っているのだ。
「……イヤ」
「ヤミ? 大丈夫?」
 少年はにたにた笑いながら、瞳子を見上げる。言葉とはまるでそぐわない。キチのきしんだ歌が拍車をかける。瞳子はうめきを噛み殺す。どうにかなってしまう。
「ヤミ、実は僕には名前がないんだ。仲間がキチとムクロだけだろう。気違いと死体、誰も僕を呼んでくれない。でもヤミとなら話せる、僕とってもうれしいんだ。僕の名前を呼んでよ。ヤミに僕の名前を決めてほしい」
 見上げる少年の視線が、揶揄から厳しいものに変わった。真剣な眼差し、瞳子は見竦められる思いをする。ここでは名前が、深い意味を持っている。
「カイ」
 正気と狂気の狭間で、瞳子の口から、音が零れた。自分の意思で発した言葉か、それすらも心許ない。
「怪物の『怪』? 傷つくな。僕が怖いの?」
 カイは柔らかに皮肉を込めて、瞳子に微笑む。瞳子を怖がらせようとしている。
「違う。『壊』。壊れてほしいの。カイはこれからぼろぼろに、ひびが入って、砕け落ちるの」
 少年の端正な顔の、眉間に深い亀裂が走った。亀裂の端が網目状に広がって、カイの顔を覆っていく。カイの頭の半分が、弾けて割れた。左目の硝子の眼球が零れ落ち、床に落ちて砕けて散った。
「……綺麗」
 瞳子は呟く。
「やっぱり病んでる。ヤミらしい」
 カイの骸骨の身体が、あちこち折れて壊れ始める。右腕が落ちた。左足が割れた。襤褸がわだかまる陶器の破片を覆い、砕けた頭の半分で、片方だけの硝子の眼球が覗いていた。
 ヤミ。暗がりの闇ではなくて、滅びゆく『病み』。知りたくもないのに、瞳子は唐突に理解した。心臓が苦しい。まるで古い記憶を思い出すかのように、瞳子は自分が病魔に侵されていることを知った。


 その日は、深い朝靄が降りていた。人気のない早朝の商店街の、暗い横道に逸れる。しばらく歩くと、小さな商店の並びは途絶え、道は住宅街へと繋がっていく。そのちょうど狭間、目立たぬ場所に、看板も掲げぬ店がある。古い馴染みの、人形屋だった。
 紳士は嵌め硝子の扉を無遠慮に開けた。錆びた鈴が、四半世紀前と変わらぬ軋むような音を立てる。カウンターの店主と目が合った。紳士が挨拶代わりの愛想笑いを浮かべると、店主は表情も変えずにほんのわずかに頷いた。当時からまるで変わらない。年齢も感情も読めない、出来損ないの陶人形のような顔をして、店主はカウンターに座っている。
 せっかく久しぶりに訪ねてきたにもかかわらず、さほど歓迎されないのもかつてと同じだ。もともと、店主にそんなものを期待しているわけでもない。紳士は店主の乾いた応対を受け流し、狭い店内を見回した。美しい、感情豊かな人形たちの、数対の視線が紳士を注目している。
「心地いい歌が聞こえるね。恐怖とか、絶望とか、苦痛とか、そんな黒いドロドロした感情をぎゅっと押し込めたような。あなたの人形にしか唄えない、この世のものにはありえない、歪んで軋んだ美しい歌だ。聞いていると、心が落ち着く」
 歌は耳に聞こえるわけではない。しかし心に直接響いてくる。声のするほうに紳士が目を向けると、そこには赤毛の可愛らしい女の子の人形が立っていた。白い肌の下には、本当に血が流れているかのようだ。健康そうに歌を唄う少女は、明らかに気が触れていた。
「私には、煩いだけです。この店ではもう、眠ることさえできない」
 紳士はくつくつと笑いを漏らす。この人形師は、どうしてこうもつまらないことしか言わないのだろう。しかしそれはそれで構わない。人形師はこの世ならぬ美しい人形たちを作ってくれるし、お陰で紳士はその人形たちを愛でることができるのだ。
「あなたは、ネクロフィリアだったかね。こう美しいと、私も死体に恋をしてしまいそうだ」
 紳士は次の人形に目を向けていた。硝子の柩に納められた、少女の遺体の人形。透明な柩も、白いドレスも、白い肌も、氷のような冷ややかさだった。しかし悲惨な人形にもかかわらず、少女の美しい幸せそうな面差しに、むしろ店主の愛情を感じる。
「いいえ。しかし生者よりは好ましいかもしれません。あなたのお嬢さんも然りですが、いくら美しくても、喧しくて敵わない」
 店主の、珍しく気の利いた言葉に、紳士は思わず大きく笑った。
 わかっていない。もっとも、紳士がわかっていれば充分なのだ。何も知らないくせに、よく囀るのが紳士の娘の愛らしさだった。ただ、少々飽いていたのも事実だった。そんな折、籠から放してほしいなどと鳴かれては、紳士も小鳥が要らなくなった。
 紳士は、三体目の、少年の人形に目を向ける。襤褸をまとった、痩せた身体がグロテスクだった。骨だけのような細い腕や脚は、強く握れば砕けそうに見える。脆く惨めな身体とは対照的に、薄められた眼差しだけは力があった。目に映るもの全て、嬲って壊して愉しもうという、残酷な狂気が宿っていた。
「あなたの本性だね」
 紳士は店主に向き直り、強く見据えた。店主は白けた顔で視線を受けて、何のことかわからないとでもいうように、ほんのわずかに眉間を寄せた。
「なぜそんな顔をするんだ、つまらない。あなたのような人間が、どうしてこんな素晴らしい人形たちを作り出せるのか、私はずっと不思議でならない」
「君は昔から、最低の客でした。来てくれる度に、私は不愉快な気持ちにさせられます。しかし、私の人形たちを真に理解してくれる客は、結局君だけらしい」
 睨み合い、ついで紳士はその場にしゃがみこみ、子供のように大笑いした。涙目で見やると、店主もほんの微かに苦笑していた。
 似たもの同士の、最低の腐れ縁、ということだろうか。
「それで、私の頼んだものはできているかね?」
 涙を拭いて立ち上がり、紳士は機嫌よく愛想笑いを作り直す。店主は不機嫌そうに目を眇め、傍らの人形に視線を向けた。黒いドレスの、等身大の少女の人形。店に入った時から、ずっと紳士を睨んでいた。
 黒髪は艶やかで、肌は吸い込まれそうな白さだ。無知と勝気さを湛えた気の強い眼差しまで、彼女は本物そのもののように、完璧に美しい。だが、違う。こんなものを頼んだ覚えはない。
「私は、紛い物がほしいわけじゃない」
「依頼主が、もういません。君に引き取ってもらわないと……」
「金は払う。だがその人形はいらない。娘はどこだ」
 店主は溜息をついた。こんな仕事はやりたくなかったと、紳士を非難するように視線をくれた。頼んだのは紳士だ。しかし、手を下したのは店主だろうに。
 店主はカウンターの裏から、細い少女を抱きかかえた。パサパサに乾いてほつれた髪の間から、大きな瞳が覗く。浮き出た目は、白目が真っ赤に充血していた。肌は血の気が引いて、青白い。ずいぶんと肉が削げ、黒いドレスが大きすぎ、細い肩からずり落ちてしまいそうだ。
 傍らに立つ、人形の少女とよく似ている。だが、はるかに惨めで病的で、
「パパ……」
「瞳子」
 人形などより、はるかに美しい。店主の仕事に、抜かりはない。
 店主に抱かれた小さな娘は、ひきつった笑みを口の端に浮かべ、涙を零した。


読んだよ!(拍手)


目次 | 従者と姫君