青い水底に揺れる街

 一章、ジプソディア(1)


 手紙が一通ある。レキの忘れ形見だ。
 レキはどこで、文字を覚えたのだろう。リコは文字など読めなかったから、宛名だけをジプに解読してもらった。ジプは飼いイヌ時代に文字を教わったらしい。
 親愛なるレイディ、そう書いてあった。
 レイディ、貴婦人。レキらしくもなく気障だった。可愛い子でもいたのだろうか。
 もしかして自分のことかな、なんて思ってもみたが、ジプに相談すると笑われたので、やはり違うようだった。
 リコちゃん、ありがとう。いなくなる間際、お別れの言葉は、既にちゃんともらっていた。


 ヒトが初めて新大陸バニシュに足を踏み入れたとき、バニシュには既に二つの先住民族が住まっていた。彼らはヒトによく似ていたが、大きな獣の耳を持っていて、容姿もヒトとは少し違っていた。
 ヒトと似て非なる二つの民族を、その容姿や気性の特性にちなみ、開拓者たるヒトは『イヌ』と『ネコ』と呼ぶようになった。
 ヒトは、先住民だったイヌやネコを土地から追い出し、財産を奪い、やがてイヌやネコたちそのものを、まるで動物のように狩り出した。
 イヌはおしなべてのっぺりとした無表情で、身体は強靭、躾ければ従順な農奴にも番犬にも仕立てることができた。ネコは気性にむらがあり労働力にはならなかった。しかし愛らしい顔立ちで、気まぐれな仕草はイヌよりも愛嬌があり、特に資産家には愛玩物として愛された。
 リコの住むドッグタウンは、ヒトに捨てられた旧市外の廃墟に、ヒトに捨てられたイヌたちが集まって暮らす、野良イヌたちの街だった。

 リコはイヌとヒトのあいのこだった。見たこともない父は、純粋なヒトだった、らしい。見たことはなかったし、実際には知らない。リコにとっては空気よりも存在しない人だった。
 仕事柄なんとなく耳に入ってくる噂によると、ジプはリコの父親だったヒトの飼い主に酷い目に合わされて、捨てられてしまったのだそうだ。聞きづらいし、なにより機嫌を損ねるとリコに被害が及びそうなので、あえてジプに訊ねたことはない。触らぬ母イヌに祟りなしだ。
 今でこそ半分野良のような境遇にあるが、ジプは血統書つきのなかなか高価なイヌらしく、その為なのか気位も高く気が短い。その娘はというと、こそこそと部屋の隅に蹲るとほっとする気質なのだ。シェルティ種の特徴である、すらりと鋭くて優美な容姿も似ていない。ケチな母親は自分の遺伝子を出し惜しみして、きっと娘はすっかり見ず知らずの父親似になってしまったのだ。実は最有力なのは橋の下説だと踏んでいるが、それは自分がかわいそう過ぎるので、リコは必死に却下していた。
 そんな、ジプの娘などをやっているリコは、肩書きはカフェのオーナーとなっている。実質的なボスはジプであったが、ここバニシュの憲法では、イヌやネコには人権が認められていないので、イヌのジプが法人代表になることはできないのだ。
 イヌやネコとヒトのあいのこには、法の下、生粋のヒトと平等な基本的人権が認められている。ただし例外が少々あって、選挙権と海外渡航権と公共施設を利用する権利と、その他諸々の権利は除かれている。
 そんなわけで一応、バニシュの国民としての身分を持っているリコは、このドッグタウンでは重宝される存在であった。経営者がヒトであり、納税もキチンと行っているこちら『シェットランド・カフェ』は、法に守られた健全営業のりっぱな法人だ。自由気ままに生きている実質的なボスであるジプも、保健所にはリコの飼いイヌとして登録してあるので、野犬狩りに捕まる心配もないのだった。
 母イヌのジプ以外にも、身分的な保証を求めて、野良のイヌたちがリコにお願いに来ることも多い。動物所有税にちょっとお色をつけた料金をもらって、リコは保健所に彼らの登録に行ってあげる。書類上、リコは百匹以上のイヌの飼い主になっているはずだった。
 午後八時過ぎ、まだまだ店はこれから賑わう時間であったし、既にテーブルは満席であったが、なぜか店内は静まっていた。
 シェットランド・カフェは、ヒトが植民時代に建設した小さな礼拝堂を改装してバーにしている。ヒトに棄てられた街ドッグタウンに佇む礼拝堂は、外観は風景に溶け込む廃墟であったが、中は街で最も賑わう盛り場だった。南側の側廊には、あるべき告解室が取り壊され、水道とガスを通して、バーカウンターを工作してある。会衆席のベンチの列も取り外し、代わりにカウンター周りに十組ほどの机と椅子を並べ、テーブル席を作っていた。空間はだいぶ残るので、北側奥には敷居を作って洗面所を作り、それでも余った空間には、酔客を雑魚寝させたりするのに利用している。ちなみに、宿泊料はしっかりと徴収する。
 天井が高く、イヌのバーに改装された今でも、空間はどこか厳かだった。東側のひび割れた高いステンドガラスから赤い朝日が差し込むときなどは、思わず改宗しようかと思ったりする。もっとも、イヌが信仰していた神などは前時代にとうに失われていたし、侵略者であったヒトですら彼らの神を忘却していたから、この国に神などもう存在しない。
 レキは、リコが拾った仔イヌだった。カフェは大人の店であったが、レキはここに居候していたから、営業中にも店の中をちょろちょろしていた。如才ない上に無邪気なもので、酔客たちともすぐに仲良くなり、可愛がられていた。図らずも潤滑油になっていたらしい。レキの不在について訊ねるような無粋な客はいないが、店は殺伐としてしまっていた。
 ジプは奥でサボっている。カウンターにはリコが一人で立って、店を回していた。客の注文が唐突に引けて、リコはグラスに注いだ琥珀色のプラム・ウォッカをくるくる混ぜていた。こんな時間帯もあるのだ。注文が一時に殺到するかと思えば、客は満入りなのに、不意に手持ち無沙汰なほどにお呼びが掛からなくなる。本能的に統率の取れた行動を取る、イヌの習性が影響しているのだろうか。あまり実のない思考をしながら、リコはグラスの青いプラムを混ぜ棒で突っついた。一度沈んで、また浮かび上がる。酸いと甘さの混ざった香りがぷーんと漂う。
 ドーベルマン種のアリウムが、端の席でテーブルを一つ占拠して、煙草をふかしながら、黙々とグラスに口をつけている。シェットランド・カフェに、一人でいるのは珍しい。普段は街の不良仲間と一緒にカフェにやってくる。だが騒々しい彼らの中でアリウムはいつも一人浮いているので、印象はあまり変わらない。
 アリウムは飼い主を襲って逃げてきたという、番犬上がりの武闘派だった。ドッグタウンに来てからも、不良グループの仲間内で時々派手に暴れているらしい。底光りする小さな眼も禁欲的なこけた頬もいつものもので、柄のない抜き身の刃物のようだ。
 一時間前ほどにリコが持っていったのは、安いウィスキーの水割りだった。そんな風にちびちび飲まれるものではない。灰皿には既に十本以上の吸殻が折り重なっているにもかかわらず、ウィスキーはほとんで減っていないようだった。
 ぎぃ、と西側の大きな扉が音を立てて軋んだ。
「いらっしゃいませ」
 静まったこの時間帯に、新しい客など来ないと勝手に思い込んでいたリコは、すっかり油断していた。思わず声が裏返る。
 大きな扉の隙間から滑り込んできた人影に、リコはさらに小さく声を上げた。
 レキ。だぼっとしたアーミーパンツを細い腰に引っ掛けて、ファーの擦り切れたやはり大きすぎるジャケットを羽織っている。子供ながらに不良ぶった、洒落っ気のある服装は、レキとピッタリ重なった。だがその小さな頭部まで記憶のレキと重ね合わせて、リコはため息をつく。レキではない。キャップを目深に被って顔は分からないが、薄暗がりに浮かび上がるようなやけに白い肌が目に付いた。
 子供は用心深くキャップを伏せ、店内を窺うように見回すと、唯一椅子の空いていたアリウムのテーブルに向かった。今日のアリウムは、常に増して危ない空気を醸し出しており、それゆえ誰も同じテーブルに就こうとしないのだ。
 子供は断りもなしにアリウムの隣の椅子に飛び乗って座った。高い椅子に足が地面に届かず、ぶらぶらと揺らしている。注文を取りに行ったほうがいいのだろうか。子供にアルコールを出すほどに、シェットランド・カフェは行き詰ってはいない。そうかといって、追い出すほどでもない。放っておいていいかなと、リコは緩い視線で子供を観察した。
 子供は、怖いもの知らずにもアリウムになにやら話しかけたようだった。アリウムの小さな目の、さらに小さな黒瞳が、白目の中を移動してぎょろりと子供を睨みつける。
 子供は何を思ったか、アリウムの咥える煙草の前に短い腕を差し出した。アリウムは、高い位置にある長く尖った耳をピンと立て、一心にジャケットの袖のファーを見据えている。煙草を緩く咥えた半開きの口から、黄色い唾液がねっとりと垂れた。
 危ない。本能的に感じて、リコはカウンターを出た。アリウムは咥え煙草を取り落とし、牙を剥き、口を拡げ……
「アリウムさん!」
 リコの声に、アリウムの目に正気の光が戻ったようだった。店内の目が一瞬リコに注がれ、リコの視線を追って、アリウムに集まる。
 アリウムは子供を振り払うように突き飛ばし、乱暴に椅子を倒して立ち上がる。
「リコちゃん、レキはどこに消えちまったんだろうなぁ」
 アリウムの低い掠れた声に、店内が不穏にざわついた。消えた仲間について語るのは、ドッグタウンではタブーだ。リコも呆然と立ち尽くす。不意打ちで殴られた気分、堰き止めていた涙が少し溢れてしまった。勢いで持ってきてしまった、プラム・ウォッカを零さないことに集中する。
「たぶんどっかで死んでるんだろうな。あるいは誰かを殺してる」
 不穏な空気に頓着する様子もなく、アリウムは独白のように呟いた。
「便所、どこだっけ?」
 視線を不安定に漂わせ、アリウムは返事も待たずに洗面所へと向かった。
 脱力したリコは、手に持っていた青いアルコールを一口啜った。冷たい甘さと苦みが口の中に拡がって、少し落ち着いた気がした。
 カウンターに戻ろうとリコが踵を返すと、エプロンの後ろ紐を引っ張られた。振り向くと、キャップを目深に被った子供がリコを捕まえている。
「君、こんなところに来ないで、お家に帰りなさい」
「あんた、レキを知ってるの?」
 女の子のような高い声の割に、言葉遣いが乱暴だ。
「誰、君?」
「レイド・モモ」
 リコの気のない質問に、子供は生真面目にフルネームを名乗った。名字があるということは、動物ではない、ヒトの子である。しかし名乗られても……、そう考えあぐねかけたところ、リコは不意に思いついた。
「……レイディ?」
 キッと険悪な目で睨みあげられた。ずっと俯いていたため見えなかったが、仰いだ拍子に子供の顔が露になる。琥珀色の瞳の、びっくりするくらいに真っ白で綺麗な顔だった。おそらく、イヌでもヒトでもない。この有無を言わせぬ華やかさは、ネコの子だ。
 レイド。なるほど、手紙の宛名の『レイディ』は貴婦人なんて意味ではなく、この子の愛称だったわけである。
「レイディ。レキから手紙を預かってるよ」
 レイディの琥珀色の眼が、今度は大きく瞠目した。泣くかな、と思ったが、すぐに目線を逸らして表情を消してしまった。肌が真っ白な分、頬に赤みが差すのが容易に見て取れた。



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