青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(4)


 寒くて、リコは目が覚めた。まだ起きてはいけない時間だという感覚がある。身を縮め布団をぎゅっと手繰り寄せ、薄目を開けると、やはり部屋は真っ暗だった。眠り直せる気がしない。何かが足りない気がする。
 何が足りないのか寝ぼけた頭で考えこみ、レイディがベッドにいないことに気が付いた。仔ネコは寝る段になると、遠慮の欠片もなくリコの腕の中に身体をねじ入れてきて丸くなる。レキもひっつき虫ではあったが、レイディよりは常識を弁えていた気がする。
 お陰でリコも、体温の高い仔ネコを抱かないと、寒くて眠れなくなってしまった。
 こんな真夜中に、レイディはどうしたのだろう。リコは布団の中で一度膝を抱え、卵のような形になる。その後、意を決し、伸びをした。冷気が身体の隅々まで染み渡り、意識が急速に明瞭となる。
 身を起こして真っ暗な部屋を見回すと、金色に光を放つ双眸が一対、リコを見ていた。驚いて、思わず小さな悲鳴が口につく。
「起こした?」
「レイディ?」
 他に誰がいる。そうとでも言うように、暗闇に光る金色の目が眇められる。琥珀色の瞳孔が大きく開いていて、ガラス玉のように透けて見えそうな気がした。
 暗闇に目が慣れてきて、ようやく輪郭が掴めるようになってくる。レイディは、例の襟と袖にファーのついたジャケットを着込んでいた。キャップを被り、ポケットに両手を突っ込んで、小さなかかしのように端然と立っている。
「なにしてるの?」
「散歩してくる」
「こんな夜中に? どこに?」
「昼間は外に出られないから。行き先は決めてない。レキの話していたものを、自分の目で見てみたい」
 リコは気合を込めて、跳ね起きた。夜中にレイディが一人で出歩くなんて、危なっかしいったらない。夜はカラスが多いし、無灯火の暴走馬車が通ることもある。吸血鬼の謎も解明できていない。そうかと言って、レキの名前を出されると止めるに止められない。
「待って、あたしも一緒に行ってあげる」
「いらない」
「いるのよ、道案内してあげる」
 生地の分厚さを基準に服を引っ張り出して、リコは手早く寝巻きの上に重ね着した。毛糸のニット帽は自分で被ったが、白い襟巻きはレイディの首にぐるぐるに巻きつける。
「レキの言ってた通りだね」
「何が?」
「リコちゃんてさ、ちょっと過保護なんだよね。もう子供じゃないのに」
 同じような背丈で、似たような服装で、口の端を少し吊り上げる甘えた表情。口調は似せても、顔も声も違う。だけど、レキにそっくりだった。
 悲しいのかうれしいのか、感情の整理もつかず、胸が痛くなる。
「……行くわよ」
 リコは、下階に繋がる梯子に向かった。

 冷たい空気に、空は澄み切っていた。ドッグタウンには珍しい、満天の星の瞬きが降り注いでいる。
 玄関先で、レイディが大きく仰いで空を見上げている。耳をぺったりと閉じ、可愛らしいことに、純粋に驚いているようだった。
「アリウムさんはいるかしら?」
 レイディが振り向いた。
「ヒトの伝説でね、亡くなった人間は星になるんだって。センセイが言ってたの」
 リコは、心臓が破裂しそうだった。必死に平静を装いつつ、実は勇気を振り絞っての言葉だった。死んだ仲間のことを口にするのはタブーなのだ。レキという存在を消さないでくれるレイディに近づこうと、リコにできる精一杯の歩み寄りだった。
「知ってる。パパが話してたことがある。星を見たのは初めてだから、どれがアリウムかはわからない」
 レイディは男親がヒトなのだろうか。リコと同じだ。ただリコは父親を知らなかったから、伝説を聞かせてもらったレイディと同じとはいえないかもしれない。
「向かいの、赤い煉瓦の小さな家、あれがセンセイの家でしょ」
「うん、それはレキに聞いたの?」
 レイディはこくりと頷いた。
「レキの秘密基地。リコを怒らせて追い出された時に避難してたんだって」
「全くあの子は……、センセイにご迷惑じゃない」
「リコ、センセイに片思いしてるって本当?」
「そんなんじゃないよ」
 邪険に口にした後で、心の中で自問してみる。
 物腰や話し方や、価値観に、好感を持っているだけだ。一緒にいるととても落ち着く。だがリコのセンセイへの想いは、恋というには穏やか過ぎる感情な気がした。
 仮にセンセイがジプとくっついたとしたら、リコは割と素直に祝福できるだろう。ただ性格が正反対の二人にとって、それはリコとセンセイとの間以上に、険しく不可能に近い道のりであろうとは思う。
「その方がいいよ」
 レイディは先に歩き出した。リコは慌てて追いかけて、レイディの腕を捕まえる。少し乱暴に仔ネコの白い手をポケットから引っ張り出して、手を繋ぐ。レイディは迷惑そうに眉を寄せたが、何も抵抗はしなかった。
 レイディは何者なのだろう。レキの友達だったことしか、リコは知らない。詮索は苦手だった。好奇心の少ない性格もあいまって、リコはレイディの正体を問い質す機会を逃し続けている。
「レイディって、どこから来たの」
「まだ僕を吸血鬼だと疑っているの?」
「ほんの少しだけ、でも違うと思う。帰るところがあるでしょう」
 レイディは少し、考えるように遠くを見た。そして面倒くさそうに、ない、と答えた。
「レキと同じ、野良だから」
「嘘つき」
 野良ネコが、こんなにも物知らずで生きてこられたはずがない。
 そうかと言って、ヒトとして育てられたわけでもなさそうだった。あいのこは、ヒトとして生きる権利を与えられているが、決してヒトに受け入れられることはない。疎外され、蔑視され、ヒトの世界では卑屈になる。レイディにはそんな様子は微塵もない。それどころか、時に脈絡もなく高慢なそぶりを見せたりする。
「リコ。僕をどこに連れて行くの」
「なんだか人聞き悪いね。レキの見たものを案内すればいいんでしょう。レキは何を話してくれたの?」
 レイディはぽつぽつと、話し始めた。ルバ婆ちゃんのお菓子屋に行きたいと言う。
 レキは食いしん坊だった。おねだりが上手だから、気難しいチャウチャウ種のルバ婆ちゃんにも気に入られる。リコのお菓子作りも、こっそりルバ婆ちゃんのお菓子をもとに研究している。
 ルバ婆ちゃんは半壊したアパートの、屋根の大丈夫な一室を占有して、お手製のお菓子を売っている。アパートの二階からはごっそり斜めに崩れ落ち、部屋として使用できるのはルバ婆ちゃんの一室だけになっている。残った壁にも雨垂れが黒く染みこみ、長いひびが走っていて、本当に廃墟のようだった。それでいて、今は夜なので閉まっているが、中はピンクを基調とした少女趣味とシナモンシュガーの甘い香りで満たされている。
 暗くなったアパートの前で、レイディは屈み込んでじっと地面を見つめていた。
 何を見てるの? 訊くと、蟻の巣、と返ってきた。お目当ては、ルバ婆ちゃんでもお菓子屋でもなく、蟻の巣だったらしい。全く男の子は、思いもかけないところに焦点を当てている。リコは苦笑してしまう。
 やがてレイディは石ころを拾って、地面をほじくり始めた。暗くて見えなかった地面から、わらわらと何かが湧き出し始めた。巣を壊しているらしい。レキとはちょっと違うなと、リコは再び苦笑する。
 次に向かったのは、花の蕾があるという路地裏だった。それだけの情報で、場所が特定できるはずもない。リコはレイディの手を引いて、候補をしらみ潰しに案内していった。
 夜の街にレイディはきらきらと目を輝かせ、時折立ち止まり、何気ない景色に見入っていた。それは瓦礫に封鎖された道だったり、ぬかるんだ空き地だったり、裸の欅だったりした。レイディが目に映す、その何気ない光景の全てに、レキが存在しているに違いない。レキはレイディに、どんな話をしたのだろう。
 夜気の寒さに身を震わせながら、結局辿り着いたのは、シェットランド・カフェの教会のすぐ裏手の路地だった。石畳の隙間に、ほころびはじめた早咲きのたんぽぽが一本必死に頭をもたげていた。
 レイディはたんぽぽの茎を折り取った。花開く前の蕾を摘むなんて、たぶんレキはしないだろう。そう思いながら、リコは仔ネコの様子を眺めている。
「リコ、あげる」
 レイディはリコに向き直り、たんぽぽの茎を差し出した。目が合うと、無表情なレイディの顔に、レキの甘えた笑顔が浮かんだ。
「それも、レキが言っていたの?」
 レイディは首を横に振った。
「レキは、ここに花の蕾があると言っただけ」
 リコはたんぽぽを受け取った。レキは、花の咲くのを待っていたのだろう。そしていつか、やはりこのように花をリコにくれるつもりだったのだろう。少し恥ずかしいセリフも、レキはさらりと口にした。
 レイディは可愛らしくて、行為もうれしい。しかし静かな夜は物思いを呼び起こし、切ない気分にさせられる。
 帰りすがら、センセイに出くわした。
「リコちゃん、よかった。こんな夜中に、心配したんだよ」
 センセイは膝に手をつき、ぜえぜえ息をしていた。走り回って、リコたちを探してくれていたらしい。
「よかった、無事で。何もなかったかい?」
 リコはセンセイの様子に驚いていた。垂れ気味の気弱そうな目には、少し涙まで浮かんでいる。
 心配をかけるようなことは、何もなかった。街は眠り、通りには誰もいなかった。星が輝き、静かで明るく、少しだけセンチメンタルな夜だった。
 レイディの手を引き、センセイに送ってもらって教会に帰ると、ジプが起きていた。リコを認めると、耳がピンと立てられる。カウンターに肘を突き、顔は厳しいままで、灰皿には吸殻がたくさん重なっていた。ずっと待っていたらしい。
「しばらく、お店を休むことにしたから。明日からは夜の外出は禁止。いいわね、おやすみ」
 吸い掛けの、まだ長い煙草を灰皿に押し付け、ジプは立ち上がって行ってしまう。
 レイディが花をくれた。センセイが迎えに来てくれた。ジプが待っていてくれた。それは素敵な夜だった。
 さっさと梯子を上っていくレイディを見送り、リコはたんぽぽを挿す小壜を探した。



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