青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(9)


――リコちゃんも吸血鬼だ。

 手の甲に、痒いようなくすぐったいような痛みが走る。空耳が聞こえた気がした。
 呆然となってリーリを見ると、泣きそうな目で引きつった笑みを浮かべていた。涎が垂れ、ねっとりとした感触が手に触れた。
 目が合うと途端に表情を歪め、狂暴な顔になって飛び掛かってきた。
 腕の中から仔ネコが飛び出す。レイディは短い細い腕を盾にして、リーリの、吸血鬼の牙を受け止めた。ぬらめく牙がジャケットの布を貫き刺し込まれるのが、不必要なほどゆっくり鮮明に見えてしまう。
「リコ、水!」
 仔ネコの命令にも、リコは数瞬反応できなかった。リーリは腕に噛み付いたまま、首を振るって仔ネコを払いのけようとする。レイディは振り回されながらも、リコの前に小さな身体で仁王立ちして踏ん張っている。吸血鬼は業を煮やしたように仔ネコごとリコを押し倒し、リコを庇った仔ネコの、薄闇に白く浮かぶ首筋に噛み付いた。
 レイディ。レイディ。感情が生まれるよりも速く、涙と後悔が溢れ出る。目の前で、どうしてこの壊れそうに小さな肩から、真っ赤な血液が流れているのだ。自分は何をしている。
 リコは水筒の蓋を開け、仔ネコに取り付いた吸血鬼の顔に浴びせた。熱湯でも掛けられたように、リーリは悲鳴を上げて、ベッドから転がり落ちてのたうった。
 手負いの仔ネコは空っぽの水筒をリコから奪う。さらに追い討ちを掛けようとリーリを睨むが、身体はついていかないらしい。押し殺したか弱いうめきを漏らして、真っ赤な首筋を押さえてリコの前で崩れてしまった。
「もう一匹、いる。隠れてないで出てこい」
 レイディにつられてドアを見る。灰色のドアはしばらく沈黙していたが、やがて静かにノブが回った。シバだった。姿を見せても、まだ気配を消しているように空気に揺らぎを与えない。吠え、のたうつリーリを前に、シバは温度のない、冷酷な目を向けている。
 リコには受け入れられない、しかし対象を切り捨てたイヌの、ごくありふれた視線だった。
「ずっと、いたのですか?」
 こくりと。シバはリコに頷いた。
「何もしないで待ってたんですね」
「俺のボスはリーリだったから。見張っているように言われた」
 リーリが身を捩り、手近なシバの足にしがみつこうとする。リーリはボス、だった。過去形の言葉を証明するよう、シバは伸ばされた手を踏み付けて、革水筒から水を撒いた。わずかな水飛沫に吸血鬼は絶叫を上げ、不自然な動きで大きく跳ね退く。――シバ。涎と一緒に、リーリの口から切ない掠り声が漏れる。
 すみません、と。感情のない言葉を一つ落とし、シバはリーリを蹴り転がすと、後ろから襟ぐりを掴んで持ち上げる。ポケットから折りたたみのナイフを抜いて、リーリの背中の真ん中に刺し込んだ。
 動かなくなったリーリを丁寧に床に置くと、シバはリコたちを振り返った。黒目がちの瞳は、薄闇に更に瞳孔を拡げていた。黒瞳はレイディやリーリのように光を放たず、吸い込まれるように真っ暗だった。
「リコちゃんは手、ネコは腕と首を噛まれたのか」
 リコとレイディをじっくりと視線でなぞり、言葉一つ一つを、ポツリポツリと並べるようにシバは話した。
「リコちゃんは、一週間ほど時間がある。どこで、どう死ぬか、考えるんだ。ネコは噛まれた箇所が頭に近い。すぐに覚醒するかもしれない。この場で殺す」
 リコは咄嗟にレイディを抱き締めた。シバは何を言っているのだ。
 リーリの死に顔が視界の隅にちらついている。吸血鬼になったリーリは、惨めで、かわいそうだった。不良で華やかで余裕があって、ドッグタウンを纏めていたリーリに、最も似合わない姿だった。
 レイディをそんな目に合わせるわけにはいかない。殺す。ありえない。理屈も何もなく、理不尽だ。
「いやだよ。シバさん、おかしいです。リーリのこと、尊敬してたんでしょう。なんでそんなに落ち着いてるの?」
「リーリは強いボスだった。本当はとっくに覚醒してたんだ。それを必死に理性で抑えつけて、喉を焼く思いをしながら水や食事を採って身体を維持し、ドッグタウンを守るために戦った。誰であろうと吸血鬼の血に精神を奪われたら、躊躇せずに殺すように、そうリーリに言われている。何が起こったって、俺はリーリの命令に従う」
 感情のない、感情の殺された目だった。シバはリコ以上に放心している。思考も感情も失った身体を、ただ刷り込まれた命令が動かしている。惰性で作動する、機械人形。意思どころか、従うべき主人さえもういないのだ。
 程度の差こそあれ、少なからずリコも似た状態だったから、不思議とシバを理解できた。ジプが去り、リーリが死んで、リコは吸血鬼の血を受けてしまった。取るべき術は何もわからない。ただ確信に近い、漠然とした破滅が見える。
「リコちゃん、ネコを放すんだ。それとも覚悟が決まっているなら、一緒に殺してもいい」
 シバがナイフをぶら下げて近づいてくる。番犬をやっている時と同様、呼気や鼓動すら押し殺すように、シバは存在を消している。
 それでいいのかな、とリコは思った。吸血鬼などにして、レイディを苦しめるわけにはいかない。理不尽な、やるせない辛い二択だ。リコが一緒なら、ほんの少しでも、ナイフに刺される痛みを和らげてあげることができるだろうか。
「……吸血鬼、覚醒。素人が知ったかぶるな」
 壊れたシバ、諦めたリコ。不意に言葉を発したレイディは、荒い息をつき、肩口を真っ赤に染めて痛々しい。それなのに、ただ一人毅然としていた。
「吸血鬼なんていない、おまえたちはウイルスに感染しているだけだ。苦しんで暴れるのは覚醒なんてものじゃない、発症っていうんだ」
 弱々しくリコの腕を解き、レイディは憮然とした顔で座り込んだ。
「僕は免疫があるから、もう発症しない。リコは、ウイルスが脳に達するまで一週間ある。おまえのボスのせいだ。おまえが助けに来なかったせいだ。リコを助ける方法を考えろ」
 シバは固まった。むやみに訳知りで傲岸な新しい命令に、シバの中の真空状態が一瞬ぶれたようだった。それでもすぐに硬直を解き、シバはナイフを振り上げる。
「信じない。それにネコは、俺たちの仲間じゃない」
「ダメ、殺させない!」
 リコは仔ネコを刈り取り、お腹に抱えて覆い被さるように蹲った。レイディが言うなら、リコは信じる。レイディはもう、リコにとってのたった一人の大事な家族だ。
 仔ネコを押し潰して抱き締めて、目を瞑って震えながら、どのくらい小さくなっていただろう。今にも背中にナイフが刺される。背筋に冷ややかさを感じながら、耳を伏せ、リコはずっと身体を強張らせていた。
「もう、行ったみたいよ」
 お腹の下から、レイディの疲れたような呟きが聞こえた。
 薄目を開けて、ちらりと盗み見る。ナイフを振り上げたシバはいなかった。顔をあげて見回すと、ドアは開け放たれ、シバも、リーリの遺体も、部屋には誰もいなかった。



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