敗残兵と女王サマ



 公宮のベランダの欄干に腰掛け、シャラは星空を見上げていた。
 ここは三階。背中のうしろに床がないというのが、なぜか不思議に感じる。
 試してみたい、と不意に思う。
 振り返れば、そこに深い夜闇が佇んでいる。そんなことはわかっている。
 だけど振り返らずに、背中を倒して試してみたい、とも思う。
 うしろには、どこまでも続く白い床があるかもしれない。もしかして。
 一瞬シャラの中の天秤で、試してみたいという欲求が命の重さに勝ってしまった。
「あ……」
 気付いた時には体がかしいでいた。
 まずかもしれない。そうと思いつつ、どこか非現実的だ。
 吹き上げる風に、シャラの長い黒髪が舞いあがり、夜空の星を侵食する。
 白い床は、やっぱりなかった。
 しばし重力の呪縛から解放される代わりに、死に向かって落下してゆく自分の体を、シャラはどこか他人事のように感じていた。


 少し、眩暈がする。思ったほどの痛みはない。
 思考を濁らせたまま、シャラは身を起こして座りなおす。
「天使が落ちてきたのかと思った」
 視線を落とす。シャラの下敷きになって倒れた男は、深い髭をもぞもぞ動かしてそう言った。
 伸び放題に絡まった頭髪と、髪の毛にそのままつながったように繁る顎鬚。もじゃもじゃに覆われた顔に、表情はほとんど伺えない。だが細められた蒼い目は、どうやら笑っているようだった。
 擦りきれた薄い旅衣の中に、固い男の体を感じる。物を食べてないのだろう、まるで骨だけでできているような男である。
「あなたが私の命の恩人? 無様ね」
 シャラの言葉に、虚を突かれたように男は一瞬目を剥いた。だがやがて、男の目は何かを諦めたように細められる。
 蒼い目に光が沈んでゆくのに見入りながら、シャラはこの浮浪者と、少し話したい気分になっていた。


「私、いくつに見える?」
 腹に跨ったまま、シャラは男の顔を覗きこんだ。
「……十五、六。いや、もっと子供かな」
 戸惑ったように男が口角を歪めると、深い髭の合間に、真っ赤な唇がわずかに覗いた。
「大外れよ。私は十九。その汚い髭から察するに、あなたは四十過ぎでしょう。それとも、もっと老けてるかしら」
「外れだ。俺は君と一つしか違わない。二十歳になったばかりだよ」
 男は苦笑しているようだった。余裕のある表情に、腹が立った。
「私はこの国の女王よ。少し身分をわきまえなさい」
「ほぉ、女王サマ」
 そう呟いて、男は驚いた風に瞬いた。
 見開かれた白目に浮かぶ、小さなトルコ玉は、この国の者には珍しい色だった。
「それは失礼致しました。まさか女王サマともあろうお方が空から落っこちていらっしゃるとはつゆ思わず。しかもその女王サマがこんなにガキっぽいお方でいつまでも私めの腹から退(の)いてくれないなんて、未だに信じられない気持ちで……うぐっ」
 シャラは男の腹に片膝を突き立てて黙らせ、顎鬚を引っ張って顔を上げさせた。
「教養がなってないようね。あんたはいったいなんなわけ」
「……どっちが」
 余った膝も、男のみぞおちに刺してやると、男は顔を歪めながらも、ようやく答える気になったらしい。
「エスラ国、って知ってるか」
 知っている。この春滅ぼした、小国だ。
「そこの敗残兵。だから敵国の女王サマなんかにへつらういわれはないの」
 腹でシャラの全体重を支えながら、男はいまだに不敵な笑みを浮かべていた。自分の体重では軽すぎるのかもしれない。刃物を持って落ちなかったことが悔やまれた。
「そう、ならあなたの礼儀知らずも大目に見てあげるわ。これから『敗残兵』って呼んであげる」
 改めて口にして、実に似合った呼び名だと思った。至極真剣に、シャラは男にそう告げた。
「勘弁してくれ。なんなら俺の名前を教えてやろうか」
「けっこうよ、敗残兵さん。私のことはそのまま、女王様と呼びなさい」
 苦虫を噛み潰したように顔をしかめる敗残兵の顔に、シャラはようやく、少し機嫌を直した。


「んで、女王サマ。なんで空から落ちてきたんだ。今をときめくバティア国の女王サマが、突然死にたくなったのか?」
 色素の薄い蒼の目には、星の光が眩しいのかもしれない。敗残兵は寝転がったまま、左腕で自分の視界を覆い隠す。
 敗残兵の質問を、頭の中でしばし転がし、
「私は死なないわ」
 シャラはそう結論付けた。自分は、死なない。なぜなら……
「何故」
 髭の間に、紅い唇が蠢く。
「私が死んだら、この世の存在する意味がなくなるわ」
 当然予想していた問いに、シャラは思考をそのまま口にする。
「傲慢だな」
 予想もしなかった感想が返ってきた。
「敗残兵さん。そういうあなたは、死んでもこの世になんの影響もなさそうね。祖国を抜けて、こんな所にいるあたり、悲しむ人もいないのでしょう」
 敗残兵の左手に血管が浮き出る。両目を覆った左手は、自らを責めるように、男の頭蓋を強く握っていた。
「……お察しの通り。家族も国も失いました」
 喉の奥から搾り出すような掠れた声。言葉を紡いだ鮮やかな色の唇は、薄笑いを浮かべていた。
 少し気まずい気がしたシャラは、その唇から、視線を外した。


「それにしても私を助けてくれた人間が、あなたみたいなみすぼらしい人だなんて、運がないわ」
「それはこっちの台詞だ。空から天使が降ってきたと思えば、それが『女王サマ』ときてる」
 先ほどの、掠れた声は消えていた。男に軽口が戻ったことに、シャラは不覚にも安心する。
「俺の人生、みんなこんなだ。まったくもって、ついてない」
 両目を隠した男の顔は、鼻面がわずかに覗いている以外、全て真っ黒な密林だった。
「私が救ってあげましょうか」
 ごわごわの髭に、シャラはそう囁いた。
「世界は私を中心に回っているわ。私には幸運がついてるの。全ては私の思い通りになっていくわ、それはもう、退屈なほど」
 男は、傲慢だな、とは言わなかった。ただ寝転がり、腹に跨られた無様な格好で、人を見下したような笑みを造った。
「私の幸運、少し、あなたにも分けてあげる。軍隊に雇ってあげるわ。敗残兵のあなたを、女王の私が直々に」
 それが何を意味するかわかるわね、言外に、強い眼差に言葉を込める。
 シャラ自らが推すとなれば、少なくとも小隊長程度の役職は約束されたもの。あるいは働きを見せれば、一軍を率いる将軍職にも手が届く。
 たかが、敗残兵が。
 
 薄笑いを浮かべたまま、敗残兵は微動だにしなかった。左腕で目を隠し、シャラの目を見ようともしない。
 しばらく間を置き、敗残兵はおどけた調子で呟いた。
「ありがたい話だなぁ、女王サマ。でも残念ながら、無理ですわ」
 薄笑いは、自嘲の笑みに変わっていた。
「腕、ないんだ」
 最初、男の言葉の意味がわからなかった。
 だがよく見ると、右腕の袖は、何も入っていなかった。
 顔を覆う、筋張った左手に気をとられて、今の今まで気付かなかった。


「よくよく不幸ね。人生、楽しい?」
 いい加減髭だけ見ているのにも飽きてきたシャラは、両手を使って、男の左手をどかしてやる。敗残兵は抵抗することもなく、枯れ枝のような左腕をシャラに預けた。
 露わにされた青い目が、眩しそうに瞬いた。腕を抱えたまま、シャラは敗残兵の無防備な表情に、しばし、見入った。
「そんなこと、考える余裕はなかった」
 低い声に我を取り戻したシャラは、あわてて敗残兵の左腕を放り捨てた。
「女王サマは? 人生、楽しい?」
 敗残兵の顔を覗き込む。
 肩を伝い、シャラの長い髪が前へと落ちた。だが針金のような黒髪は、男に届く寸前で、計ったように断ち切れる。
「退屈」
 青い目は、表情を失っていた。紅い唇が、笑みの形を造っていないのが気になった。

 敗残兵の左手が、シャラの黒髪に差しこまれた。
 流れ落ちるまっすぐな髪を、筋張った左手は、くるくる絡めるように指に巻く。
 されるがままに。シャラは無言で無表情な男の顔に見入っていた。
「少し遊ぼうか。俺の左手から、逃れられたら君の勝ち。女王サマの願いを叶えてあげる。逃れられなければ、俺の勝ち。ご褒美に女王サマを、食べさせてもらう」
 青い目に、鈍い光が見えた気がした。口角がわずかに歪みを見せていた。


 髪を繋がれたまま、敗残兵の意味深な言葉に、しばしシャラは考えた。
「私を食べるって、私の幸せを食べるってことかしら」
「まあ、そういうことかな」
 惨めな言葉だ。似合わぬ比喩に隠しても、その卑しさは変わらない。
「薄幸なあなたに、少しの幸せを恵んであげるくらい、やぶさかでもないわ」
 喜ぶかと思った。だが予想外に、敗残兵はシャラを馬鹿にしたような、辛辣な笑みを造ってみせた。
「やっぱりガキだな。だが少しと言わず、全部食べたい」
 左手が指を擦らせ、シャラの髪を弄ぶ。
 ……敗残兵の言っていることがわからない。自分は何か、思い違いをしているのだろうか。
「私の願いに、あなたに叶えられるものなんてないわ。あなたは何も持っていない」
「俺は、女王サマの欲しい物は、いくらでも持っている。俺の左手から逃げられたら、好きなだけ分けてあげよう」
 敗残兵の言っている言葉が、何一つ理解できなかった。ただ退屈凌ぎになる程度には、興味深い謎かけだった。
「恵んであげるのはかまわないわ。ただ強欲な人を嫌い。私に挑んできたのも腹が立つわ。何もないあなたが、全てを持っている私に何をくれるのか、見せてもらうことにするわ」
 そう言ってシャラは男の左腕に爪を立てた。小さな爪の跡が乾いた肌に並ぶが、男は髪を絡めた指を離そうとはしなかった。顔には、余裕の笑みすら浮かべている。
 敗残兵が舌なめずりをした。赤い唇が、鮮やかにぬめる。
 男の目に宿る鈍い光に本能的に寒気を感じて、シャラは敗残兵の左腕に噛み付いた。
「誘ってんの?」
 敗残兵の言葉が解らなかった。枯れ枝のような腕に、赤い噛み跡が滲む。
 男はさらりと、髪を絡めた指をほどいた。


「……私の勝ち」
「女王サマの勝ち」
 シャラの髪から解放された。筋張った、敗残兵の細長い指が、どこか未練がましげに空を漂う。
 突然敗残兵は、その身を起こした。強い力に振り落とされたシャラは腰を付き、男を見上げる、逆の立場を強いられる。
 星空が、視界に飛びこみ眩しかった。
「女王サマの願いを、叶えてあげる」
 獣のような目の光。有無も言わさぬ、ぬらめく赤い唇が迫ってきた。
 固い髭が、先にシャラの頬を刺してくる。

――不幸が、欲しかったんだろう。

 唇を塞がれ、ひどく近くで言葉が響いた。
 口元で紡がれた音は、まるで、自分で発した様だった。


読んだよ!(拍手)


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