左手記念日

 4


 仕事に行かなくてもいい。
 現金なもので、そう思うと不思議と頭痛も引いてしまった。
 頭の軽さが、さらに和琴の自己嫌悪に追い討ちをかける。
 役立たずなだけじゃない。根性もない、本当に良いところなんて何もない。いる必要のない子だ。
 左手が、ずっと和琴を撫でてくれる。疲れないのだろうか。
 和琴がされるがままになっていると、左手は大胆になって、肩以外にも指を這わせた。今は和琴の前髪をさわっている。彼岸花が、眼前で揺れる。綺麗過ぎて、腹が立つ。
 能う限りのきつい視線で睨んでいると、長い指が突然開いて襲ってきた。
「ひゃっ」
 思わず首を竦めて目を瞑ったところ、指の乾いた感触は和琴の頬をなぞって、顎に触れた。顎の下を、動物のようにしゃくられる。
 和琴は動物ではないから、顎の下をまさぐられても気持ちよくない。噛み付いてやろうか、為されるがまま顎を差し出しながらも、和琴は考える。
 和琴は左手を捕まえて、結局大きな掌に、頬を埋めて甘えてしまった。
 温かい掌。汗をかく様子もない、無機質な印象さえ感じる乾いた手だ。ただ体温だけが、すごく熱い。
 和琴の枕になりながら、左手の人差し指が動いて、和琴の頬に文字を書いた。目を瞑り、和琴は暗闇の中に文字を浮かべる。日本語では無い、ローマ字のようだ。
 シー。エー。ティー。クエスチョンマーク。
 和琴を馬鹿にする左手の甲に、和琴は爪を立てて返事を書いた。
『にゃあ』
 引っかいた手を撫でながら、和琴は左手に体重を預ける。今日一日くらい、猫でもいいや。そう思って、顔を埋めた。

 加湿器をセットして、和琴は定位置に戻った。今朝はバニラのオイルを使った。甘ったるい香りが和琴を包む。定位置とは、左腕の腕の中だ。
 仕事を休む。左手に伝えると、左手は安心したようだった。
『具合が悪いときは、無理しないで休んだほうがいいよ。僕なんてもう、一年くらい休んでる』
 そうね。腕に頭を預けたまま、虚空に呟く。なんとなく、額に自分の手を当ててみる。頭痛はまるで残っていない。少し熱いのは、この綺麗な爪の左手が、やたらと和琴をさわるからだ。
 見習いネイリストが一年休んだら、流石にクビだろうか。いや、一週間でも危険だろう。
 左手が働いているのを想像して、少し笑った。例えば、スーパーのレジ打ち。レジ台からやたら美しい左手だけが生えていて、爪にマニキュアを塗った指が高速でレジを打っていく。
 ただのホラーだ。
『仕事は、何をしているの?』
 七月のスケジュールに、そんな質問が書き込まれる。
 優しい言葉は的外れで、間を持たせようと発する問いは無神経だ。
 和琴は左腕の手を取る。
『ネイリスト』
 ちゃんと通じるよう、ゆっくりと書く。左手はだいぶ筆談に慣れてくれた。左手で書く時も、最初のカクカクから見ると、かなりサマになってきている。正直、和琴の字よりも達筆だ。
 ただ和琴からの言葉は、難しい。声どころか視覚すら使えないから、左手は触覚だけで和琴の書く字を読まなければならない。はいやいいえの受け答えならまだしも、このように予想しづらい言葉は、特に伝わりづらい。
 左手は、指を反らした。数瞬して気付く。ネイルを見せたいのだ。そう思うと、左手はどこか嬉しげだ。
 和琴はというと、左手のあんまりの無神経さに、苦笑するしかない。
 本職の人間相手に、こんな見事なネイルを見せて、申し訳ないと思わないのだろうか。存在そのものが嫌がらせではないか。こんなにさわりまくってくれているのに、このぐるぐる渦巻く嫉妬の心が、この長い指には伝わらないのだろうか。
『ちょっと欠けてる。消していい?』
 ピンと沿った小指に自分の指を絡ませ、和琴は訊ねる。ボールペンを持つ人差し指のネイルが、わずかに欠けているのが目に付いた。
『いいよ。新しい絵を、君が描いてくれるなら』
 なんてことを軽々しく。この左手は、自分の指先に咲く彼岸花の美しさをわかっていないのだろうか。
 除光液を取りにいくため、和琴は左腕から逃れて立ち上がった。


 こんな美しいネイルに筆を入れるのは、和琴の夢だったのだ。可哀想に、いまさら取り消しはきかない。
 バニラの香りのチョイスは、間違っていたかな、と思う。甘い匂いに、集中力が高まらない。だけど、そんなことはいまさら言っても詮無いことだし、些細なことだ。
 脱脂綿に除光液を浸し、そっと彼岸花を拭き取った。
 コーティングを取った左手の人差し指は、まるで水晶か何かでできているように綺麗だった。
 爪には縦線が何本も入っている。それが電灯の光を弾いて、元々出来すぎた感のある綺麗な指を、余計に無機的に輝かせていた。爪の縦線は、ストレスの証だそうだ。専門学校の学科で習った。きっとこの左手も、繊細なのだろう。
 手首の傷跡に続いて、実は和琴とお揃いだった。
 爪を保護するための、透明なベースコートを塗っていく。不思議なネイルだった。何の装飾もない状態で、すでに加えるべきものがないのではないか思うくらい美しい。しかし透明なコーティング一つで、既に完璧に見えたネイルはさらに輝きを増す。まるで、宝石だった。
 乾いたのを見計らい、背景カラーを塗りこんでいく。お手本は、すぐ隣の中指だ。和琴の持っていたカラーに、たまたま同じものがあった。わずかな色合いの差もなく、中指と同じ深い藍色で、驚いた。学生時代、地元で買ったもので、こちらには売っていないメーカーのものだと思っていたのに。
 ……僭越ながらこの天才ネイルアーティストと、和琴の趣味は合うかもしれない。
 もう、師匠と呼ばせてもらおう。相手が和琴の見たことがない人だって、和琴ではネイルの技術も足元にも及ばないよう人だって、構わない。だって師匠は和琴の百パーセント憧れるマニキュアを描き、それに心の中で呼ぶだけなのだから。
 成功の予感を感じながら、丹念に人差し指のネイルを夜色に染める。
 いよいよ、彼岸花を描く。昨日失敗した時とは違う。お店のサンプルどころではない、技術的にも和琴の感性的にも最高の見本が、すぐ隣にある。目を瞑ったって、浮かんでくる。

 全く同じに模写したはずなのに、花の咲く角度さえ同じにしたのに。こんな単純な絵柄で、差なんて出るはずがないのに。
 中指には、夜空に咲く艶やかな花火のような彼岸花が咲いている。
 比較するなら、人差し指に貼り付いているのは、インスタントカメラで撮った同じ花火の写真だろうか。形は同じ。しかし写真は輝きを捉えきれず、花びらは滲み、夜空の藍色さえも汚しながら、べったりと溶けてしまいそうな彼岸花。
 人差し指だけ美しくなくなってしまった左手を眺め、和琴は呆然とする。
『できた?』
 無神経に、能天気に左手が書く。目も鼻も口も、声の抑揚も、文字の語尾にハートがついているわけでもない。それでも、そろそろわかってくる。
 この左手は何も考えていない、浮かれポンチの能天気だ。失敗一つで出社拒否を起こしてしまう、繊細な和琴とは違う。こんな奴が、なぜ手首に傷跡を作ったりなんてしうるのだろう。
『まだ。うごかないで。もとの絵よりも、ずっといいものになるよ』
 差は歴然だ。和琴の描いた平板な彼岸花と、魔法のように美しい、和琴を虜にして嫉妬させて落ち込ませる彼岸花。もはや手直しで埋められるような差ではない。
 やけになって、大盤振る舞いにストーンを敷き詰め、和琴は背景の夜空を白やピンクの輝石で埋め尽くした。
『完成。さいこうけっさく』
 和琴の作業中、ずっと固まっていた左手が、おそるおそるといった風情で人差し指の先を持ち上げた。
『きれい?』
『もとの絵よりはね』
『すごいなあ。見てみたい』
 やっぱり、無神経の能天気だ。師匠の彼岸花より美しいネイルなんて、存在するわけがないではないか。
 しかも結局、なんと言われようと傷つくし、そう誘導しているのも和琴自身だったから、文句の一つも言えやしない。
『すごく気持ちよかった。どうもありがとう』
 目も鼻も口もない左手が、なにやらにこにこしているような雰囲気を感じる。本当に、わかってくれない左手だ。和琴は強く一撃、指で弾いた。
 バニラの香りに包まれて、和琴は勝手にふて腐れ、左手を邪険に扱いながら、サボり一日目を過ごした。



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