左手記念日

 エピローグ


 
 ネイルサロン・リコリスに勤めて、早四年目を迎えてしまった。
 いい加減、新人なんです、とは半分冗談でも言い張れないキャリアに差し掛かった自覚はある。
 でも予想していた――予定していた四年目とは全然違って、本当に新人だったあの頃から、まるで成長した気がしない。
 なるほど、お客さんとはうまくコミュニケーションが取れるようになった。マニキュアの途中でも、目を見て話せる。笑顔も作れる。指名もちょくちょくもらえている。
 おしゃれにも、少し気を遣っている。髪を伸ばして、ウェーブをかけた。少し暖かくなってきたから、長袖のセーターを脱いで、店内では肌を見せている。おととし入った初めての後輩の、若さは若いうちに見せないと! という言葉に、いまさらながら影響されてみた。
 手首には、黒いシュシュをつけて傷を隠している。これは、師匠の真似だ。
「機嫌がいいね、一人でにまにましちゃって。何かいいことでもあったの?」
 お客が引けて、手持ち無沙汰に自分の手首を揉んでいると、店長に突然声を掛けられた。相変わらず目敏い。三十半ばの、マニキュアのできないオーナー店長は、仕事が少ない分、スタッフへの目の配り方に本当に隙がない。和琴のように精神構造が簡単だと、た易く心を読まれてしまう。ぐるぐる悩めば先回りして慰められるし、嬉しいことがあると、まず間違いなくこの柔らかな笑顔で揶揄される。
「今日は、ちょっと特別なんです」
「へえ、なにがあったの?」
「……左手記念日です」
 店長は笑みを崩さないまま、顔にはてなマークを浮かべていた。
 いいことはまだ、起こっていない。そもそも、いいことなのかも、理屈で考えるとわからなくなる。
 和琴には想う人がいる。というか、想う左手がいる。でもその存在は、夢かホラーのようなものだった。和琴はその左手の本体の、声も容姿も、素性も知らない。優しい繊細な心と、おそろいの手首の傷跡と、綺麗な長い指と形よいネイルを知っているだけだ。
 それでも、壁に左手が生えたあの日から、ちょうど三年が経った今日。それが特別な日なのは間違いない。我慢しようとしてもつい頬が緩んでしまう、そんな類の特別さ。
 今日は雨。扉が開いた。手の空いている和琴が、客を迎える。
 雨に濡れて立っていたのは、ネイルサロンには珍しい男性客だった。
「いらっしゃいませ」
 二十歳をいくつか過ぎたくらいの、和琴と同年代くらいの青年だった。ネイルサロンに来たのは初めてなのだろう。青年はおどおどとしていた。マニキュアが女の特権なんて、誰が決めたというのか。美しいものを愛でる気持ちに、女も男もないだろうに。
 怖がらなくていいんですよ。喉元まででかかった言葉を、ぎりぎり飲み込んだ。口にするのはさすがに、失礼に当たるだろう。
 和琴は青年を席まで案内し、そのまま担当についた。
 気弱な表情を浮かべる、線の細い背の高い人だった。左手を取る。さすがに男の人の手は大きい。指も長く、肌は真っ白だった。日差しの気配の感じられない、和琴の好みの繊細な透けるような白さだった。
「白くて細くて長い指、こんな手にさわらせてもらえるのは幸せだわ」
 シャツの袖に隠れた左手の手首を持つと、内側に少しざらりとした違和感があった。見ると、古いためらい傷が目に付いた。胸が高鳴った。
 必死に何気なさを装って、おそらく二十数年来一度もケアをされたことのないネイルを、一枚一枚丁寧にやすりをかけていく。
 左手から、恐怖に震えるような繊細な心が、伝わってくる気がする。
 三年前のスケジュール帳は、ずっととってある。今日も持ってきている。
 左手の住所は、十月の二週目、体育の日から始まる一週間に書いてある。こっそり下見もしたから、いつでも行ける。
 あとは、帰りに名刺を渡す際、和琴の携帯番号を書き込まなければならない。
 三年前、左手の言葉を伝えてくれたボールペンは、ちゃんと胸ポケットに入っていた。三年来、ずっと和琴のお守りだった。いよいよ役に立つときが訪れた。
 今日の夜から三日間、せいぜい若かりし和琴と戯れるがいい。そして若かりし和琴に、せいぜい切ない想いを植えつけるがいい。
 助けを呼んでくれたら、仕事中でもすぐに食糧を持って、駆けつける。あの三年前の三日間、和琴は食パンしか齧らなかった覚えがある。救援物資も、食パンでいいだろう。
 形良く大きい、綺麗な左手の五枚のネイル。三年ぶりの再会だ。ひどく、懐かしい。
 和琴の地元の店からわざわざ取り寄せた、深い藍色のカラーで染めていく。
 いよいよ絵付けだ。
「ご希望の絵は、ございますか?」
 念のため訊ねたが、答は聞いていなかった。描く絵は、三年前から決めている。
 和琴は青年の左手を握ったまま、目を閉じた。美しい彼岸花が、今もまぶたの裏に張り付いている。
 さあ、昔の和琴をびっくりさせる、成長した自分を見せ付ける、このまぶたの裏の花に匹敵する、美しい彼岸花を描かなければならない。
 三年間の仕事で身に着けた技術も、守り続けた込める想いも、昔の自分に負けるはずもないのだから。
 青年が訝しげに和琴を見ている。和琴は慌てて、笑顔を取り繕った。青年にとって、和琴と左手は、今日が初対面なのだ。
 なんて綺麗な左手だろう。
 今は、撫でてはもらえない。抱き締めてももらえない。キスをするのも、まずいだろう。
 懐かしい、和琴を支えてくれた左手だ。いかにも定められた手順を装って、和琴はそっと、左手に自分の手を重ねてみた。大きな手。あるいは和琴の手が、小さすぎるのだろうか。
 なんだか、可笑しい。何気ない手順を装ったのに、思わず小さく笑ってしまう。
 今はぐっと我慢して、少し強くなった今の和琴が、弱い昔の和琴に優しい綺麗な左手を届けてあげよう。
 ただし、三日間だけの限定レンタル。独占させる気は、毛頭ない。

 藍色の夜空の背景に、和琴はそっと、赤い細い花びらを一枚浮かべた。


fin


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