周瑜嬢

3、権兄コレクションのチャイナ服だよ(by孫尚香)

 周瑜は掛け布団で身をくるみ、寝台の上で小さく背中を丸めて座っている。何度発声しても、小娘のような高い声になってしまう。無理をして低い声を出そうとしても、せいぜい子犬の唸り声にしかならなかった。気付いてみると、髪まで長く伸びている。真っ直ぐな針金のような黒髪が目にかかるたび、牢の格子にでも囚われているような錯覚を覚えて、ひどく息苦しかった。身体的な変化については、もう確かめる気も起きない。胸の膨らみはいつの間にか空気が抜けてくれていた、なんていうことはなく、下の部分も手触りだけだが、あるべきものがなくなっていた。
 寝台の前には、傍目にはっきりとわかるくらい大きなたんこぶをこしらえた策が項垂れて正座していた、隣にはひらひらした衣装(後で知ったことであるが、スカートというらしい)の孫権が膝を抱えて座っている。二人の後ろには、これまた孫策以上に信じられない懐かしい人が立っていた。
 江東の虎、孫堅。孫策の父である。孫策のように『小』などつかない、正真正銘の英傑である。朝廷を蔑ろにした董卓との戦いでは、尻込みする諸侯たちを背にただ一人常に先陣を切って戦い、勝利した。そして焼け落ちた洛陽の都にあって、これも諸侯が眼を背ける端で、ただ一人その復旧に尽力した忠義の人である。武勇と仁義を兼ね備えた、周瑜の最も尊敬する人である。
 奇しくも今の周瑜と同じ三十六歳の若さでこの世を去ったはずの孫堅が、記憶と同じ姿でそこにいる。ろくでなしの長男に、鉄の拳骨を下してくれた。
「孫堅伯父様……」
 周瑜に名を呼ばれると、尊敬する英傑はにへらとだらしなく相好を崩した。
「ユキちゃん、全て聞かせてもらったよ。うちの馬鹿息子がひどいことをして、悪かったね。まず、どうしてうちの前に、まるでサイズの合わない古代中国の戦国武将チックな鎧を着て、行き倒れていたのかな。思い出せるかい?」
 落ち着いた、相手のことも落ち着かせる、それでいて余計な思考を許さない、圧倒されるような声音である。親に諭されるほんの小さな子供にでもなってしまったような、周瑜はそんな錯覚を抱かさられる。
「って親父、俺とユキの会話、盗み聞きしてたのかよ」
「お兄ちゃん、なんどボクの存在消してるの!」
 それよりも、ユキって誰だろう。
「それが、思い出せないというか……なにがなんだかわからなくて」
 周瑜は情けない答えを返すことしかできない。
 しかしそこで、策、権、堅。親子三人、三者三様、しかし三人が揃ってにやりと悪どい笑みをつくるのを、周瑜は見てしまった。
「親父、ユキは俺の彼女だ。両親に先立たれて、ショックで記憶を失って、うちの玄関に倒れてたんだ。置いてやってもいいだろう、親父の将来の娘だぜ!」
「嘘つき! ユキお姉様はボクの恋人にするんだから! でも後半は賛成、いいでしょ、パパ?」
「ユキは俺のだ。オカマのガキが、ナマ言ってんじゃねえよ!」
「女装は似合うからしてるだけだよ。女の子好きだし、心は男だもん。ここばっかりはお兄ちゃんでも譲れないから。ユキお姉様だって、セクハラの馬鹿より女装のほうがいいでしょう?」
 孫堅伯父さんが、一撃ずつ、兄弟に強力な拳骨を落とした。それにしても、本当に兄『弟』だったらしい。
 孫権の質問は黙って無視する。百万歩譲って仮に自分が女であったとしても、そんな二択は嫌である。
「まあ落ち着くまで、ゆっくりしていって構わないからね。社交辞令じゃなく本気で。なんならうちの娘にしちゃってもいいくらい。これも本気で」
 周瑜はじっと孫堅を見て、さらに殴られて涙目の策と権の顔を見た。
 だらしない。馬鹿だ。変態だ。しかし周瑜が一番尊敬していて、信頼していて、守りたかった人たちである。
「では、元の世界に戻れるまで、お世話になってもいいですか」
 消え入りそうな周瑜の声を、父子兄弟の歓声が迎えてくれた。
「おい権、すぐ式場予約してこい。ユキ、俺のことはダーリンと呼んでいいからな」
「ユキお姉様、ボクのことはエリザベスって呼んでくれていいから。そうだねお兄ちゃん、早速ボクとユキお姉様の結婚式しなくちゃ」
「ユキちゃん、私のことはパパと呼びなさい。今から役所に行って、養子縁組の手続きをしてくるよ。策、権、おまえらみたいなクソガキどもに、大事な娘をやるわけがないだろう!」
 喜んでくれたのかと思いきや、いきなり本気の殴り合いに移行していた。
 歓迎は、されているのだろう。他にいるべき場所もないのである。
 わからないこと、目を逸らしたいことが多すぎて、周瑜は全てを聞き流して、一人深い溜め息を吐いた。


 乱闘は父親孫堅が、大人気なく圧勝に終わった。
 その後も三人揃って、色々な質問をしてきたが、気が沈んでいるのと何もわからないのが相乗効果で重なって、周瑜はろくに何も答えることができなかった。布団を被り俯いて、ろくに話もできない周瑜に、男三人はやがて持て余すように顔を見合す。ついに気まずい沈黙が訪れて、男たちはすごすごと申し訳なさそうに笑って、あとでね、と言って出て行った。
 ようやく落ち着ける。しかし、現実を見つめる勇気もない。周瑜は頭まで布団を被って、柔らかな闇の中に閉じこもる。そういえばこれは誰の布団だろう、ほのかに女の子の甘い匂いがした。

 しばらくして、バタンと扉の開く音が聞こえた。乱暴な開け方だ、策だろうか。今はあまり、策と話す気分ではない。
 聞こえない振りをして布団を被って丸まっていると、どすどすと足音が近づいて、いきなり布団をめくり取られた。
「な、なんだよ!」
「起きなさい。いつまで寝巻きでいるつもり、着替えなさい」
 策の低い声ではなく、舌足らずで気の強い女の子の声が聞こえた。策の顔を探した視線は空振りして、下にずらすとキッと周瑜を睨みつける大きな瞳とかち合った。思わず腰が引けてしまう。
「尚香ちゃん……そっか、ここは尚香ちゃんの部屋なんだ」
「あたしを知ってるの。策兄か権兄が言ったのかしら。話が早くて助かるわ、よろしく、ユキさん。記憶喪失なんですって?」
「いや、なんて言うか、記憶はあるんだけれど……」
 孫尚香、策や権の年の離れた妹である。女だてらに武芸を嗜み、孫家の娘らしくお転婆であった。そして人を見通す、不思議な観察眼を持っていた。幼い尚香の強い瞳に見据えられ、何かを見抜かれたようにどぎまぎしてしまう。向こうの記憶で、そんなことが幾度もあった。
「なによ、はっきりしなさい」
 この不思議な世界で、尚香が周瑜のことを忘れていても、見据えられて同じ気分になってしまう。こそばゆくなって、苦笑する。尚香が怒った形相のまま、顔を赤らめた。
「そうだね。尚香ちゃん、聞いてくれる?」
 十歳くらいの小さな女の子に、何を言おうというのだろう。
 甘い香りの布団の中で、考えた。自分の記憶、戦友や敵将、主の顔。本来あるべき自分の姿。全てを裏切る現実が目の前にあったとしても、改めてその何一つ、譲ることなどできないものだと確信した。
「私は女じゃない。戦場に生きる、男なんだ」
 尚香はあどけない表情は、かわいらしい分だけ余計に憎たらしい、あからさまな呆れ顔になっていた。
 おもむろに踵を返すと、無言で周瑜の元を離れて、壁に埋め込み式になっている戸棚(後で知ったことであるが、クローゼットというらしい)をごそごそ掘り返し、水色のしゃもじのような形の物を取り出した。
「はい。まず自分の顔を見てみる」
 しゃもじは、大きな手鏡だった。言われるままに覗き込むと、鏡の中から女の子が周瑜を見つめている。妻と共に向こうの世界に置いてきた、周瑜の娘によく似ていた。ただ母親の柔らかな雰囲気を半分受け継ぐ周瑜の娘と比較して、鏡の少女はより鮮烈な美貌を放っていた。真っ直ぐな黒髪、白い肌。長い睫毛に縁取られた切れ長の黒瞳は、哀愁と戸惑いを交えて自分を見ている。薄い唇が紅を刷いたように鮮やかで、艶やかに酷薄に、わずかに笑みの形に引きつっていた。
「これが、私……」
「はい、それがあなた。どう見ても女です。それもむかつくくらいの美人です、諦めなさい。あたしのベッドから降りなさい。早く寝巻きを着替えなさい。ハイ、服!」
 まだ受け入れられず、呆然と鏡の中の美しい少女に見入っていた周瑜は、いきなり赤い衣を投げつけられた。
「権兄の服よ。文句があるのはとってもわかるけど、あなたに合いそうな女物の服ってそれしかないのよ。あたしのは小さすぎるし、ママのは横に大きすぎると思うわ。持ち主は変態でも服に罪はないはずだから、着てちょうだい」
 眉根を寄せても、作り笑顔を浮かべてみても、怒りの形相になってみても、鏡の中の美少女は、寸分たがわず周瑜の意思通りに真似をした。やはりこれが自分、周瑜なのだ。目を瞬いて、もう一度鏡を見ると、どこか見慣れた面影のある美しい少女が、泣きそうに情けない顔でこちらをじっと見つめていた。
「うん……」
 ぷりぷり怒る尚香に逆らう気力も起きなくて、周瑜は素直に寝台を降りて、服を広げた。


 尚香にもらった丈の長い服に着替えると、周瑜は両足の踵を直角に合わせた姿勢で、背筋を伸ばして軽く姿勢を作った。
 非常に簡素な作りの袍服だったが、赤い生地に銀の刺繍が大きな芙蓉の花を咲かせている。質実と華美の兼ね合いを愛する、周瑜の江南気質に、尚香のくれた服はぴったりと合致した。
「これは北方の騎馬民族の服だろう。長い裾に深い切れ目が入れてあって、馬に跨りやすいよう工夫がされている。作りも動きやすいよう体にぴったりとしているが、それでいて人に見られることも意識してある。礼服としても申し分ない、素晴らしい服だ、気に入ったよ。尚香ちゃん、ありがとう」
「予想外の反応……」
「どうした。芙蓉の花が綺麗だろう」
 立ち尽くして渋い顔をする尚香に、周瑜はにっこりと笑いかけた。途端尚香は頬を染めて、目を逸らした。
「権兄コレクションのチャイナ服だよ、それ。コスプレじゃん。まあ、権兄の百倍似合ってるのは確かだけど」
 尚香のすねた台詞に、周瑜は首を傾げた。この世界の言葉は、外来の言葉が多いようでいまいち意味が取りきれない。そもそも今尚香と会話している言葉も中華の言葉ではないようなのに、周瑜は不思議とすんなり使いこなしている。
 体が小娘になってしまっていることに気をとられ、すっかり混乱していた。だが考えねばならないこと、学ばねばならないことはいくらでもあるようだ。なにやら身構えている尚香の大きな瞳をじっと見つめ、周瑜は心の中でゆっくりと息を吐く。
 孫策がいて、孫権がいて、孫堅がいて、孫尚香がいた。右も左も分からず、自分すらも失ってしまっているが、決して一人というわけではない。
 孫策が襲われて死んだ時、赤壁で曹操の大軍と相対した時、今までにも絶望は何度も味わってきた。それを克服できたかは別にして、それらを潜り抜けて、今の自分がいるのである。今の状況は、むしろなんと幸せな絶望だろうか。
「しばらく、世話になるから。尚香ちゃん、よろしく頼むよ」
 心からにっこり微笑んで、周瑜は仁王立ちする小さな尚香の頭をさらりと撫ぜた。
「う、うん……」
 俯いて固まって、顔を真っ赤に、尚香は漏らした。
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