周瑜嬢

15、俺はここをチュウコだと思っている(by呂範)

 学校に制服を着ていくのは良い。学校とは、学業を修める場であると共に、規律を学ぶ場でもある。生徒に揃いの制服を宛がうことは、その目的にそれなりに寄与することだろう。
 しかし、このひらひらはなんだろう。しかも短い。まだ肌寒い春先であるというのに、膝上の丈しかない。むき出しの脚には、鳥肌が立つ。この世界の学校とは、女子には学業と規律に加え、耐寒を身につけることを強いるのだろうか。
「おっかしいなあ、玉ちゃんがいないぞ……」
 朝から孫堅がごそごそと家の中を引っ掻き回していた。
 下ネタなんか言って。もともと男である周瑜は、特に嫌悪感を抱くでもなく、さりとて守備範囲でもなく、反応も示さず無視をした。周瑜は、孫堅に認められなかった。学びたいことが沢山ある周瑜にとって学校は嫌ではない。しかし、牢獄代わりに通わされるのは屈辱だった。逆らう気はないが、今は冷戦中だった。
「行ってきます」
 策や権はまだ起きてこない。高校登校初日、誰にともなく挨拶して、周瑜は少し早めに家を出た。



 紫紺のブレザーに、紅いネクタイをきっちり締める。一人江南町に越してきてから、ちょうど一年だ。高校二年になった新学期、微かな感慨を込めて目を瞑り、呂範は校門を潜った。
 目を開けると、校舎の前のクラス替え発表の掲示板に生徒たちが人だかりになっている。青い空を背景に聳え立つ、薄紅色の巨大な校舎。風に舞う桜の色が校舎に溶け込み、呂範の目に映っている光景が全て幻でゆらゆら揺らめいているような錯覚を覚える。
 生徒たちのざわめき。世界の色彩と音声がどっと呂範を包み込む。江南町は、何もかもが鮮やかだ。空も、花も、緑も、人も。たかがクラス割に、歓声を上げて喜ぶ声、ちくしょーと空に吼える声、おもしろいところでは同じクラスになった女子にいきなり告白して振られている輩もいた。これから一年間、早くも気まずい思いをすることが確定している。遊び人風の軽そうな茶髪は、江南町には珍しい。目立つ生徒だというのに見覚えも無く、転校生だろうかと思案する。そしてすぐに振り払った。今年から染めたのかもしれない。一学年千人が在籍しているのだ、知らない人間がいないわけがない。
 学園というのは、ある種世間とは切り離された、閉鎖的な社会だ。小中高から大学まで一貫のこの紅東学園は、そのヒエラルキーにどのタイミングで参加するかによって、微妙に立場が変化する。
 小学部から持ち上がりの生徒は、とにかく余裕を持っている。一族ぐるみでこの地区の主流派を形成しているのも彼らだった。南京マフィア系の四大ファミリー、朱家、張家、顧家、陸家の子弟らがこれの代表格だ。ぬくぬくと育っている分、いわゆる生存競争にも労することが少なく、おっとりしているのも彼らの共通項かもしれない。
 中学部からの編入生は、バランス感覚に優れている。厳しい中学受験を勝ち抜いただけ、闘争心もある。中学三年間の蓄積がある分、学園のルールにも対応している。百戦錬磨。野心と経験、高校に入って頭角を現すのは彼らだ。例えば現生徒会長の袁術。あるいは裏番格の孫策。孫家はファミリーとしても江南町で急速に力をつけ、いわゆる主流派の仲間入りを果たしている。策の四人の弟妹は、小学部からの持ち上がりだ。
 厳しいのは高等部からの編入生だ。熾烈な受験戦争を勝ち抜いたのだから、モチベーションは高い。しかしいざ入学してみると、学園のルールについていけない。受験組は昨日の敵で、持ち上がり組はもはや異文化のルールで動いている。
 一年経った今となれば、ようは割と簡単なのだ。この学園は弱肉強食、力あるものが強い。そこに世間のオブラートなどほとんどない。財力や権力を持っている人間は、だからとりあえず主流派になる。袁家は何代も国務大臣を輩出している政治家一家だし、孫策の父親がこの学園の経営者だ。三年前に買収された。当時はやくざまがいの黒い買収劇と週刊誌の紙面を騒がせたりしたが、経営は安定しており、今は誰も文句を言わない。
 後ろ盾のない者は、だから自力で生き残るしかない。学園の方針もよくできている。自主自立、独立自尊が校是だった。
 一年も経てば、高等部からの編入生の振り分けも、だいぶ進んでいる。いわゆる『勝ち組・負け組』だ。袁術と孫策の仲が悪いため、『袁派・孫派』の振り分けもあったりする。
 今年度の卒業生や三年に袁派が多いため、今は袁術の方が強勢だ。一学年下で不良のリーダー格とはいえ立場上一般生徒でしかない孫策と、二年次から生徒会長を務める袁術との立場の差が、そのまま勢力の差となっている。だが袁術自身も含め彼らが来年高等部を卒業してしまえば、孫派一色になるだろう。しかも弟の孫権が今年高等部進学、さらにその下にはまだ三人の弟妹がいるのだ。孫家の政権は当分続く。
 先を見据えず今袁術についてしまっている一、二年の生徒は、いわば負け組予備軍だ。そして選択を見誤る者のほとんどが、今を必死で生き残ろうとしている高校編入組なのだ。
「不公平だなあ」
 子供のように騒いでいる同級生たちの背中を見ながら、声に出して一人ごち、呂範は苦笑した。我ながら、疲れた老人みたいだ。
 呂範は、なんの後ろ盾もない高校編入組ながら、例外的に孫派についている。特に先見の明があったわけでもない、入学当初は呂範も必死で、孫派についたのはほんの巡り合わせだった。何もなければ、どこか危険な香りにする孫策よりも、素直に生徒会長の袁術派についていたことだろう。
 しかも呂範は、孫派の中でも最も中枢に近い、孫策の取り巻き、通称『孫策軍団』の一員だった。器用な自覚はあるが、何か武器があるわけでもない。周りにいるのは孫策も含め、物凄い家柄や財産を持っている生徒だったり、さもなければ怪物のような才能のある生徒だったりするので、時々自分がなんでこんな場所にいるのだろうと正気に戻ってみたりする。良いか悪いかは別として、毎日が夢であるような気がしてくるのだ。
 呂範はあまり、そういった生存闘争は好きではなかった。ただ唯一嬉しいのは、孫策の取り巻きでいられることに誇りを持てることだった。
 孫策は、すごい男だった。友達として。立ち位置の違いから遠慮してみると、手下として、でもいい。孫策の後ろについていけるのが素直にうれしくてたまらない。そしてたぶん自惚れではなく、親分の孫策も、呂範のことを特別な仲間と見てくれているように思うのだ。
 孫策は素直な男だ。家柄の後ろ盾があるわけでもなく、特別な才能を持っているわけでもない自分に向けられる好意は、期待できる見返りなどない以上、濁りなく純粋なものだろう。そんな風に思い至る時、呂範は時折、自分の無才に感謝したくなったりもする。
 さてその孫策であるが、昨年度末からすっかり骨抜きの状態であると噂されており、またそれは事実だった。困ったことに、女絡みらしいのだ。
 例えば春休み中のある日、他校との抗争に助っ人してくれるよう頼んだところ、断りの返事がこうだった。
『ごめんなー、オレ無理だわ。お前でやっといて。明日ユキを図書館に迎えに行かなきゃなんねぇんだ。帰ってくる時間わかんねえから、一日中出口で待ってる予定だから!』
 結局孫策が来ないとなると仲間も怖気づきほとんど集まらず、呂範は軍団一の喧嘩上手の愈河――通称ゆかちんと、二人だけで十数人とやり合うはめになった。勝つには勝ったが、正直本気で恨んだものだ。
 あるいは軍団の、懇親の花見に誘った時のことだった。
『悪い、オレ今日ユキのこと尾行しなきゃ! 行けないから、おまえ仕切っといて!』
 この時はゆかちんも逃げ出し、なぜか呂範が場所取りから音頭取りまで、一切合財を押し付けられた。この時は喧嘩以上に参ったものだ。
 それにしても、その『ユキ』というのは一体どんな女なのだろう。あの孫策をそこまで虜にするのだ。孫策があまりにあっけらかんと話すため、あまり邪悪さを感じない。しかし聞いていると、孫策のやっていることはもしかしなくてもストーカーだろう。
「すみません」
 高校生くらいの少女特有の、甘い可憐なソプラノ。それでいて研ぎ澄まされた刃物のように、空気を切り裂くような凛とした声だった。
 知らない声に、呼び掛けられたのが自分である自信は無かったが、振り返ると声の主らしき少女が確かにじっと呂範を見ていた。
 舞い降る桜の花びらの揺らめき以外、時間が止まる錯覚を覚える。喧騒の音は消え、江南町の鮮やかな色彩が少女の背景に色褪せた。糊の効いた制服を初々しく着る、近寄りがたく美しい少女。目を眇め居心地の悪さを滲ませながら、なお鋭い眼差が呂範を射抜く。
「突然すみません。あなたが知っている人に似ていたもので」
 少女は長い黒髪を耳の後ろに掻き揚げながら、切れ長の大きな瞳をわずかに眇め、何かを探るように呂範の瞳の奥を覗き込む。意思とは無関係に、胸が高鳴る。
「たぶん、人違いです」
 機転も何もなく、呂範にはそう答えるのがやっとだった。擦れ違っただけでも、網膜に焼きつき消えることはないだろう。そう確信できる、怖ろしいほどの美貌の少女だった。
 たぶん、そうですね。少女は少し残念そうに呟く。呂範もつられて、少し悲しくなった。こんな子と知り合いだったなら、うれしいだろう。
「君は、新入生?」
 それもおそらく、受験組の外部生。居心地の悪そうな少女の仕草や、制服のきっちりとした着こなしに、呂範はあてをつけて訊ねてみる。
「転入生です。組は2Aでした。姓は周です」
「名前は?」
 少女のおかしな物言いに、呂範は思わず質問を重ねる。不思議なことに、少女の美貌に渋面が浮かぶ。
「……ユキ」
 屈辱的だとでも言わんばかりの表情だ。呂範は焦った。女の子の機嫌を損ねる原因を、理解できたことはない。しかもこんなに美しい少女とあっては、こちらの心のダメージも計り知れない。だから多少殴られても、孫策の軍団で抗争でもしていた方が楽なのだ。
 高校からの外部生でも、少女に不安はないだろう。この圧倒的な美貌だけでも、武器になる。加えて、この紅東学園は中途の転入がべらぼうに難しい。学年千人の規模にも関わらず、転入生は年に一人、二人がせいぜいだ。相当に頭もいいのだろう。ある意味、怪物的かもしれない。ふと、呂範は『ユキ』と言う名に引っ掛かりを覚えた。
「ええと、俺は呂範。クラスはまだ見てないけど、二年。掲示板確認したら、良かったらクラスまで案内するよ」
「呂範さんもA組です。同じクラスに名前、ありました」
 ユキはぱっと顔を輝かせた。どういうことだろう、転入生が自分の名前を見てきたらしい。見ず知らずのクラスメート全員の名前を覚えているということか。この学園に転入するくらいの頭脳の持ち主なら、そのくらいの記憶術もあるのかもしれない。
 では、この無防備な喜び方にはどういうことだろう。不安な転入生が、勇気を出して声を掛けた相手が同じクラスだったなら、嬉しいだろう。状況としては理解できるが、ユキには当てはまらないような気がした。目が合ったときの鋭い眼差し。あるいは近寄り難いほどの空気を放つ、その美貌。無防備に素直に生きていたとしたら、そんな雰囲気は身につかないはずだ。なにより、そぐわない。無邪気な笑顔が美しすぎて、心臓に悪い。
「良かった、あなたがいてほっとした。A組の名前見たら、お調子者が多かったから、どうなることかと思っていたんだ」
 呂範の戸惑いを読み取ってか、ユキも困った笑顔で目を逸らした。
「魯粛も孫策も、同じ組だったし」
 魯粛は呂範の知らない生徒の名前だった。しかし少女が孫策の名前を口にしたことで、ピンときた。
 ユキ。孫策が図書館の前で待ち伏せたのも、徐州町へ遊びに行くのを尾行したのも、確か『ユキ』という名の女だった。
 ああ、孫策が呂範のことを喋ったのだろう。だからユキは同じクラスに呂範の名前があるのが目に付いた。あるいは呂範の容姿についてまで、孫策が集合写真か何かを見せたのかもしれない。それでユキが一方的に、呂範に見覚えがあったのだろう。ようやく色々、合点した。
 ユキは気安げな笑顔で、まっすぐに呂範を見ている。あまりに自然な表情に、呂範もずいぶん前からユキと友達であったような気分になる。完璧すぎるほどに才色兼備、そして人の心を掴むのまで上手いと来ている。孫策が上せるわけだ。呂範にしてみるとチョモランマの頂上に花が咲いているようなもので遠すぎて手を伸ばす気にもなれない。だが孫策なら、迷うことなく登り始めてしまうだろう。
「じゃあ、今年も孫策と同じクラスだ」
「うれしそう。呂範さん、策と仲良かったものね」
 ユキの直截な物言いに、呂範は少し照れた。
「まぁね。クラスまで、連れてくよ」
 口の中で呟く。ユキを信じ、掲示板は確認せず、呂範は直接校舎に向かうことにした。楽しそうに、ユキがくすくす笑う。時が動き出し、桜が舞う。見とれてしまって、少し孫策に同情した。この子に心を奪われたなら、もう一生、女など他の誰も目に入らなくなるに違いない。


 教室の引き戸は、閉じ切らず少しだけ隙間を空けていた。ユキは教室の引き戸に手を当て、天井を見上げた。
「狭いね」
 紅東学園は、富裕な家の子の集まる私立学園だ。天井は高い。教室は広い。扉に手を当てたまま止まってしまったユキの横顔は、どこか心細げに見えた。
「学校、嫌いなの?」
「いや、たぶん好きになると思う。守られて、落ち着いて平和で、仲間とともに学問に打ち込める。まるで夢の世界だ」
「ユキさんは学校を、安全で退屈な、狭い箱だと思ってるのかな」
 天井に目線をあげたまま、ユキはまるで身じろぎをしない。構わず呂範は、言葉を繋いだ。
「俺は、ここを蟲壷だと思っている」
 チュウコ。半ば独り言だった。
「コドク、か」
 コドク。蟲毒。通じてしまって、呂範は焦った。
 例えば袁術、彼は政治家一家のサラブレットだ。例えば孫策、彼は大陸を股に掛けるマフィアの長男だ。ここ紅東学園には、そんな出自の生徒がごろごろしている。彼らに期待されているのは、当然いずれその世界に君臨することだろう。狭い学園で頭角を現すのなど、当然のこととみなされる。だがこの学園では、君臨すべき者の人数が多すぎる。必然、生存競争は激しくなり、一握りの勝者を残して、多くは敗北者の烙印を刻まれ、学園のみならず彼らの属する世界の表舞台から去っていく。
 逆に数多の野望を踏み越えて勝者となれば、いかなる世界であろうとも君臨者になれるに違いない。さながら喰われた虫たちの怨念を纏った、蟲毒のように。
「いつも思うが、呂範みたいなのが一番怖い」
 こんな考え方を、呂範は誰かに披露したことなど一度もない。つい口を滑らせた一言から、弱みにもなりうる思想を読み取られてしまった。
「天を見上げたければ、まずここで生き残って力を示せと。そう考えると悪くないな」
 勢いよく、ユキが教室の引き戸を開ける。
 あ。呂範は声を上げた。
 上から黒板消しが降ってくる。ユキが天井をじっと見ていたのは、気づいたからだと思っていたのに。
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