人魚の剥製



 剥製匠。彼は客から依頼を受け、剥製を作ることを生業としていた。
 この度の客は、非常に珍しい依頼であった。
「人魚の剥製が、作れるか?」
 客が持ってきたのは、下半身が黄色い鱗の、雌の人魚の死骸であった。外傷はなく、皮も毛も、必要な材料は残っていた。
 だがその姿は、見る影もないおぞましいものだった。人魚は美しいものと言われているが、干からび窪んだその裸体に、もはやその影は見当たらない。
「残念ながら、作れません」
 一瞥のみを素材に送り、匠は答えた。
「なぜ。何が足りない。この人魚の、美しさだけでも、私はどうしても取り戻したい」
 客の声音には、常軌を逸した執念が篭っていた。人魚の美しさは、それほどまでに心を捕らえるものなのだろうか。
 客と目を合わさず、水気を失い縮み黄ばんだ人魚の肌を視線でなぞる。やがて視界は乾ききった鱗に行き着き、剥製匠は正直に応えた。
「材料に問題はありません。ただ、私は人魚を知りません。この素材から、美しいものを想像することができません。参考にできる、生きた人魚があれば別ですが。このままでは、私はまず、あなたの満足するものを作ることはできません」
 匠が顔をあげると、客は俯き、黙っていた。匠の説明に、納得しないまでも、理解はしてくれたようだった。
「人魚の、稚魚がいる。どうだろうか。彼女の美しさには遥かに及ばないが、それを見て、作ってもらうことはできないだろうか」
 観賞用の動物の死骸を、『彼女』と呼ぶ客がおかしかった。無意識に自分の口元が引きつっているのを感じ、匠は慌てて笑みを潜める。
 どうであろうか。無理であろう。稚魚と成魚では、まるで別物だ。
「やはり、無理です」
 客は匠の返答を受け入れず、どうか、と繰り返した。客の目には狂気じみた炎が宿り、断り切ることができなかった。
 結局三度の断りの文句を述べたのち、匠は仕事を引き受けた。


 匠は除肉の作業を始めた。
 干からびた皮は、剥がれやすくなっており、作業は比較的楽であった。
 作業台の上、縫合がたやすくなるよう、よく切れるナイフで皮を裂く。少し乱暴に骨を引き抜き、やがて丁寧に、皮の内側に残った肉を刃の背で擦りだす。干からびていたとはいえ、微かに腐臭が漂った。
 匠の背で、届けられた人魚の稚魚が、じっとその一連の工程を見つめている。その幼い身をもって、尾鰭(おひれ)を丸めてようやく納まるほどの、ひどく小さな四角い水槽。その水面から大きな頭をのぞかせて、紅い瞳がじっと匠の手元を見つめていた。
 ナイフを持つ手が、どうしても震えた。無用に稚魚と目を合わせるのは、極力避けた。だがどうしたって、突き刺さる紅い眼差は手元を狂わせ、作業にむやみに手間取った。


 匠は剥製の成形を始めた。真珠岩の粒を軽く流し込み、人魚の形を造ってみる。
 死してなお、失った者の目に執念の炎を宿らせる。剥製にしてまで残さんとさせる、人魚の美しさを匠は知らない。
 だが、人間の上半身に、下半身は魚の尾鰭。人魚とはそういうものであろう。
 適当に人魚の皮を膨らませ、吊るしてみたところ、匠の背後から人語が聞こえた。
「お母さん」
 稚魚が、喋った。人魚が人の言葉を喋るものとは知らなかった。幼い頃から人の手に飼われると、言葉を覚えるのかもしれない。
 思わず振り向き、匠は人魚の子供と目を合わせてしまった。
 届けられて以来、放っておいたままであった水槽の水は、少し青ばんで見えた。箱の縁に長い爪の指先を掛け、外気に顔を覗かせて、稚魚はじっと、製作途中の剥製を見つめていた。
 暗い部屋に、淀んだ水。稚魚の肌の白さが、琥珀色の鱗の光沢が、濡れて光を放つ淡い金糸の髪が、真紅の瞳が。その幼い身を造る全ての色彩が、濁った視界に清冽に映えた。
 ああ、美しいのかもしれない。
 思わず息をついてしまう。それが感嘆の吐息であることに気付き、匠は少し、戸惑った。


 顔を作るのは、後にしようと思った。紅い瞳を見ると、心が惑う。
 人魚の剥製を作るうえで、稚魚のか細い体躯はあまり参考にならなかった。あばらの浮き出た白い胸は、まだその性差さえも示してはいなかった。きらめく琥珀の鱗列は半ば透け、水に揺らめくほどに柔らかく見えた。色素の薄さ、強度のなさは、稚魚の未発達さゆえだろう。すべては匠の欲情をそそるものではあったが、幼さゆえのその美しさを、そのまま依頼品に移植するわけにはいかない。
 上半身を作るうえで、匠は成熟した人間のそれを思い出すのに、苦労を要した。真珠岩の粒を流し込み、乳房を大きく膨らます。すべては均整が取れているはずであったが、匠はどこか不満足を覚えた。
 人魚の胸下にあばらの浮き出る筋を施し、腹部から詰め物を少し除いた。稚魚の病的な細さを見るに、そのほうが客の嗜好に適うと思った。
 熟れた果実のような両の乳房と、骨筋の浮き出るか細い胴。均衡が崩された人の半身は、どこか背徳的に美しく、匠は自らの作品の出来に満足した。
 魚の半身については、匠は結局塗装を断念した。強く、硬く、成熟した金色の鱗を、匠は求めた。だが匠の作り出した金色は、いずれも繋ぎ合わせる人の半身とは、まるでそぐわぬものだった。
 稚魚の幼い魚の尻尾と見比べる。試行錯誤を重ねて作り出した金色の塗料は、稚魚の鱗の、透明な琥珀の輝きに、はるかに及ばない。
 剥製の尾鰭は、腐ったような黄色のままだ。だが会心の作品を、匠は汚すことが出来なかった。
 指先を飾る長い爪だけは、特製の金色の塗料を施し、稚魚のそれをそのまま採(い)れた。


 纏う濡れた金糸に指を差し入れ、匠は稚魚の頭を自分に向かせた。匠を仰ぐ幼い顔には、あまり表情は浮かばない。水黴の臭いが、わずかに鼻につく。
 人魚の、顔を作らなければならないのだ。
 ふっくらと膨らむ白い頬の曲線も、長い睫毛に翳された大きすぎる紅い瞳も、色褪せた薄い唇も。それが匠の劣情をそそるのは、稚魚の幼さゆえだろう。剥製を作るうえでの参考には、まるでならない。
 稚魚の口がぱくぱくと開閉した。そういえば餌を十日ほども与えていない。失念していた。なぜかこの儚げな存在が食を要するということに、まるで思いが至らなかった。
 匠はあまり、稚魚に餌をやるのは気が進まなかった。人魚の子が、次第色を失い、白い胸から肋骨が浮き出してくるサマを想像すると、匠は悦を感じるのだ。だがこれは、客からの大事な預かり物だ。そういうわけにはいかないだろう。
 片手で稚魚の頭を支え、じっと赤い瞳を見返していると。稚魚は突然水の中から両の腕を外気に差し出し、匠の頭に抱きついた。枯れ枝のような細い腕が、匠の首筋に絡まってくる。腐った水に浸った腕は、ぬるぬると嫌な感触を匠に与えた。
 人魚は、観賞と愛玩のために人に飼われる。これほど幼い稚魚であっても、その躾は為されているらしい。
 首に両の腕でぶら下がり、稚魚は匠に、深い接吻を施した。


 剥製は、ほぼ完成していた。
 稚魚の施しを受け。客の求める人魚の姿が、突然鮮明に浮かび上がった。
 白い髪を纏う細い面(おもて)は、儚く、病的で。まだ石を込めていない眼窩には、深い諦念が宿っているように思われる。客から送られた紅玉を込めれば、そこに狂気の炎が加わろう。
 まだ、完成させたくはなかった。何も、返したくはなかった。
 結局、二十日を過ぎても、稚魚に餌をやっていない。喉が渇き、匠は彼女に施しを乞うた。
 薄く小さい、濡れた唇が、匠の乾いた上唇を吸う。匠はただ、目を開けたまま、彼女に委ねるだけである。ひどく近い、彼女の赤い双眸が、白い瞼に隠される。彼女を侵す淀んだ水が、酷く腐臭を発していた。
 背後に回された指先の、長い爪が匠の首筋に食い込んでゆく。長い舌に歯茎を擦られ、饐(す)えた味が口腔いっぱいに拡がった。
 彼女に施しを受けると、さらに、喉が渇くのだった。


 二月をかけ、匠は剥製を完成させた。
「すばらしい。ありがとう。まるで私の人魚が、戻ってきたようだ」
 客の声音は、穏やかだった。依頼時の狂気は失せ、ただ愛おしげに、剥製の紅玉の瞳に手を伸ばす。
「申し訳ありません。お預かりしていた稚魚を、死なせてしまいました」
 水槽に浮かぶ、痩せこけた人魚の骸を目で示す。客は一瞥送ると、わずかに目をそがめてみせた。
「餌やりを、怠ったのだね。人魚は、高価なものなのに」
「仕事の代金はいただきません。足りないようであれば、払える限りの賠償も支払います」
 客の言葉をさえぎり、匠は用意しておいた言葉を発した。
 匠を向いて、客は困ったような笑顔を造る。
「いや。あなたの仕事には、非常に満足している。少し高くついてしまったが、正規の代金を支払おう。賠償も、結構」
 匠にとって、客の言葉はどうでもよかった。ろくに意味もとれず、匠はさらに、用意していたもう一つの文句を吐いた。
「彼女の遺体を、私が引き取っても構いませんか」

 客は無言で、唇の端を歪ませた。軽蔑の色が、薄っすら見えた。


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