従者と姫君



 商店街の中ほど、細い横道に面した角に、服屋がある。
 半ば惚けてそうな老婆一人の店番で、通りから店内全てが見渡せるような、小さな服屋だ。そしてカーキ色のちゃんちゃんこを着た老婆があつらえたように似合う、そんな服屋だった。
 色褪せた服屋は、寂れた冬の商店街に見事なまでに溶け込んでいた。
 この町に越してきて一年。商店街は駅からアパートまでの通り道で毎日通るにもかかわらず、柊二は実際、つい一週間前までこの服屋に気付かなかった。
 気付いたのは、そこに彼女が来てからだ。
 ピンク色の子供っぽい長袖のワンピースと、白いつば広帽を被った少女。彼女は微動だにせず、服屋の店先に、いつも端然と立っている。
 白い帽子から波打つ蜂蜜色の髪があふれ出し、端正でどこか幼げな顔から翠の大きな双眸が、どこか挑むように道行く人を睨み付けているようだった。
 強すぎる視線が癇に障る、それでいて目が離せない。しかもやけに作り込まれていて、場違いに美しすぎる。
 彼女はそんな、マネキンだった。


 柊二は、少女に名前をつけていた。だから彼女の名を、ヒスイ、という。
 もちろん、口に出したことはない。だから誰も知らない。彼女自身も、知る由もない。
 服屋の前を通るとき、柊二はいつも早足で、そっと横目でヒスイの存在を確かめるだけなのだ。
 名前を呼んだことはない。大きな翠の瞳と、目を合わしたことすらない。
 だから――もし彼女に意思があるとして――、ヒスイは柊二の存在さえ、認識もしてはいないだろう。

 柊二の住むこの古い町には、波立つものすら何もない。ただ、商店街に、ヒスイが佇んでいるだけなのだ。
 微動だにせず、彼女は無言で柊二の心を占領している。鋭い翠の双眸に、離れていても、目を瞑っているだけで、柊二はいつも見竦められてしまうのだ。
 それは休日の、まだ夜と呼ぶには早い夕刻のことだった。冬の太陽はすでに落ちていて、まばらな街灯しかない古い町は暗すぎた。
 柊二は電車で駅を三つ行った、定期圏内の繁華街に出掛けていた。目的があったわけではない。ただ、どこか塞いだこの気持ちを紛らわせる何かを期待して、そんな思いで出掛けた気がする。
 しかし、無駄だった。
 休日の繁華街は、明るかった。喧騒と浮ついた華やかさの隙間を縫って、柊二は軽く眩暈のするまで歩き回った。もともと柊二は、人ごみは苦手だった。
 寒さと慣れない疲労に頭は霞み、不思議と澄んだ状態になる。するともうダメだった。華やかな街の彩りは消え失せる。喧騒も、何も耳に入らない。頭の中がヒスイの瞳の翠に占領されてしまうのだ。
 柊二はコンビニで、缶ビールを一本買った。値段の安さで選んだそれは、苦いくせに薄い味がして、不味かった。そもそも柊二はビールなど、好きではないのだ。不快ながらも酩酊を感じ、少なくともビールを買った目的は達成された。頭の中に溢れるようなイメージは消え、ヒスイの視線も感じられず、微かな嘔吐感が胸の奥で燻るだけだ。
 繁華街に出掛けた理由も忘れかけながら、柊二は自分の町に戻ってきたのだ。そして家に帰るため、商店街を通り抜けようとした。
 服屋の前を通った。ふと、そこにヒスイがいるだろうことを思い出した。目を向けた。灰色のコートの、男がいた。端正な横顔にどこか病的な無表情を貼り付けた、怪しい男だ。年齢はよくわからない。
 失敗作のマネキンのような、不思議な男が、ヒスイのワンピースのスカートを捲り上げていた。
 神聖なものが冒されているような、居たたまれない気持ちに、柊二は目を背ける。
「おまえ」
 男が振り向く。目を合わせる。やや黒目がちの目からは、何の感情も読み取れない。薄い唇の端が微かに歪んだような気がしたのは、柊二の卑屈な錯覚だろうか。
「触るな」
 男は一つ目を瞬かせた。ヒスイのスカートから手を離す。ひらりとスカートは落ちていく。
「失礼、お恥ずかしいところを見られてしまいました。あまりに安っぽい服を着せられているもので、おかしくなってしまって」
「失せろ」
 言葉は冗談めかしているのに、男の声は機械のように平板だった。微かなお辞儀を残して去っていく。
 逆に自分の口から漏れた声に、柊二は我ながら心底戦慄する。口についたのは、混ざり物のない怒りと憎しみの塊のような、怖ろしい声だった。
 誰もいなくなったのを見計らい、柊二は恐る恐るヒスイに近づく。
 男が去り、人通りはない。客はいない。店番の老婆は眠っている。その瞬間、服屋はどこか、非現実的な静謐さに包まれていた。
 人目をはばかりながら、柊二はそっとヒスイの白い頬に手を伸ばす。幼げな曲線を描く、白い冷たげな頬。指先の触れる寸前に、柊二は軌道を変更させた。
 怖くなったのだ。ヒスイの頬が、柔らかかったら、温かかったら、どうしよう。要を得ない恐怖が、頭の中をぐるぐる巡る。
 柊二は、ヒスイの髪に指を通した。白いつば広帽から零れる、眩いほどの蜂蜜色。差し込んだ柊二の指が、光で溶ろけてしまいそうな錯覚を覚える。倒錯的で、恍惚を覚える感覚だ。
「……ヒスイ」
 唇が震える。心に沸いた小さな泡が、音の形を取ってしまった。意識しなかった自分の言葉に、柊二はふと、正気に戻った。
 翠の瞳と目が合った。ヒスイの大きな瞳は、少し尊大な色があって、さりとて何の感情も篭っていない。
 光の中の右手を、柊二は乱暴に握り締めた。こんなに近くにいて、柊二はヒスイの髪を掴んでいる。それなのに、ヒスイの翠の視線は、なんの表情も映さない。怒りも怖れも、憐れみさえも、その瞳には映っていない。
 柊二の思考は、翠の視線にどこまでも侵され、占領されているというのに。
 不意に、抑えきれない羞恥心が、腹の底から込み上げた。熱いものから離れるように、慌てて右手をヒスイの髪から引き抜いた。
 自分は何をしているのか。地に頭を擦り付け、ヒスイに謝罪したい衝動に襲われた。
 もう一度ぶつかったヒスイの視線から、不意に、柊二ははっきりとした感情を読み取った。
 嘲り。
 顔から血が引いて冷たくなるのが、自分で感じられた。足がふらつき、うまく体勢を保てない。なんとか踏ん張り、バランスを立て直す。
 思考する余裕もなく、柊二はその場から、慣れない全速力で走り去った。

 柊二は深夜、目覚めた。
 昨夕柊二は再び出掛けて、レンタカーを借りていた。アパートの前に停めておいた車に乗り込み、柊二はヒスイを迎えにいく。
 ヒスイを救いにいくのか、拐(かどわ)かしにいくのか。もはや自身でも判然としない。
 それももはや関係ない。柊二は思考を放棄した。身体は淀みなくスムーズに、目的に向かって作動する。まるで夢遊病者のようだ。行かねばならぬ使命感は、もはや何者にも止められぬ、揺るぎない物になっていた。
 それは頭ではなく、胸の奥に燃え盛る青い冷たい炎となって、柊二に行動を急き立てた。

・・・

 商店街の横道に入ると、小さな商店の並びが途絶え、道は住宅街へと連なっていく。喧騒と閑静の狭間、賑やかな明かりの消える境目に、看板の無い店がある。男が店主を勤める、人形屋だった。
 男は、固有名詞の『男』でしかない。あるいは人形師、さもなくば店主か、そんな漠然とした仮面があるだけだ。男は極力、個性を排して生きていた。
 男の数少ない顔の一つ、店主の仮面が、今回は面倒を連れてきた。
 客は、白眉の長く垂れた老人だった。
 いや、店主は老人に人形を売る気はなかったし、老人は店主より人形を買うつもりもないだろうから、客というのは間違いかもしれない。訪問者、あるいは客というなら招かれざる客だった。
 ある日、商店会長と名乗る老人が、人形屋に訪ねてきたのだ。そして、商店街の一員として、という名分のもと、店主は商店会集会への参加を強要されたのだ。
 店主の人形屋は、商店街の通りからは少し外れている。商店が完全に途絶えた、住宅街と狭間にあった。
 何より、店主の顧客は、固定客だけだ。人形師たる店主の作る人形の正体を見抜く審美眼と、その上で人形を欲しがる悪趣味さを兼ね備えた客しか相手にしない。
 それ故、店主は商店街への帰属意識は、皆無だった。地理的にも、客層的にも、彼らと重なるものなどないはずなのだ。
 店主は集会への参加を、断固として断った。例えば、仮に店を畳めと迫られても、この老人を長とする連中と馴れ合うことなど御免だった。
 老人は気色ばんだ。この商店街で商売をしておきながら地域の共同体に参加しないのなら、然るべき措置を取らなければならない。具体的にはよくわからない、そんな曖昧模糊とした脅迫までちらつかされた。
 店主が黙って首を横に振る。老人は案外冷静に怒りを鎮め、呆れたように息をつき、店主に互助活動への参加を要請した。
 あるいは、これが商店会長のやり口なのかもしれない。一見それは譲歩に見える。商店会集会への定期参加の免除。しかしその実、それは商店会幹部たちの権力を、強めることになるだろう。集会への参加を厭う商店主たちはその活動を黙認して、そこで決められた決まりや催しごとにただ大人しく従うことになる。
 商店会が、人形屋に看板を立ててやろう。商店会のチラシに、他の商店と並べて宣伝をしてやろう。頼んでもいない世話を、商店会長は恩着せがましく押し付けてきた。
 無論店主は断った。
 老人は白く長い眉を不可解げに寄せ、遠慮は不要、となぜかたしなめるようになおも迫る。
 人形屋は一見の客を相手にしていない。自分の作る人形は、無差別にチラシを配布したり看板を立てたりして、広く売るような性質のものではない。
 だからその行為は――あえて好意としよう――は、迷惑なのだ。
 苦々しい思いを噛み締めながら、店主は懇切と説明をする。
 聞き終えると老人は目を閉じた。深い皺の刻まれた顔は、黒い瞳に込められていた商人独特の愛嬌が影を潜め、厳しい表情になっていた。
「もう遅いのだよ」
 商店会長は瞼を開いた。眼差は、なぜか鋭いままだった。
「チラシも看板も、もう発注を掛けてしまった。変更にしろ取り消しにしろ、追加料金が掛かる。君一人のわがままのために、そんな予算は出せないよ」
 いつも漠然とした何者かの仮面を身につけている『男』は、表情を表に出すことはない。しかし心中、男は珍しく唖然とした。まるで、理解の及ばぬほどの失敗作の人形とでも、対話しているようだった。
「あんたは、まるで出来の悪い人形のような男だね」
 無表情な店主に、商店会長は困ったように呟いた。その言葉に、思わず仮面の口許に亀裂が入る。男は微かに笑ってしまった。
 わけもなく負けた気持ちになり、諦めもついた。店主は損失を人形屋で負担することを申し出た。
 商店会長は困ったように相好を崩し、首を横に振った。
「そんなつもりで言ったんじゃない。商店街の、仲間じゃないか」
 ただ……、そう言って老人は、初めて店内に目を巡らせた。
「角の服屋の婆さんが、マネキンがほしいと言っておった。その娘っこの人形を提供してくれんか、意固地なあんたが作ったとは思えない、愛らしい顔立ちをしておる」
 瞳に本物のエメラルドを埋め込んだ、少女の人形を老人は指差した。
 性格に難あって、ついぞ買い手のつかなかった人形だ。少女を気に入る客は数人いたが、誰もが少女の主になるには不適格だった。少女が不幸になってしまうか、あるいは客が壊れてしまうか。そんな未来が、手に乗るように予想できてしまう。
 少女の困った性格は、創作者である店主にとってさえ頭痛の種になっていて、同じ空間にいると疲れ果てる。
 客を想定して創ったわけではない。少女の性格を形作ってしまった責任はひとえに、店主にある。それでも、誰かに引き取ってもらえれば、と願っていたのだ。
 この老人を長とする商店会なら、皆相当に鈍いに違いない。チラシ代どころではない大赤字だが、まあいいだろう。つけてもいない帳簿の数字より、精神の安寧の方が重要だ。それに、この人形がみすぼらしいマネキンをやらされると思うと、また少し笑える。
 店主が肯(がえ)んじ、老人は満足げに頷いた。
「しかし愛らしいが、なぜか……」
 人形としばし目を合わせ、老人は薄い頭を掻いた。
 再び、垂れ下がる長い白眉の眉根が寄って、間に深い皺が刻まれる。印象よりは、鋭い感性をもっているらしい。
 この人形には、題名があるのです。プリンセス・プライド、といいます。
「はあ」
 商店会長は間抜けに相槌を打つと、
「横文字はわからんよ。なかなか格好いい名前だと思うよ」
 と付け足した。
 期待もなかった店主は、ありがとうございます、と平板な声で礼を言う。
 アルバイト風の若い青年が後からやってきて、店主に目も合わせずに微かな黙礼をして、少女の人形を連れ去った。心なしか、青年は店主に怯えていた。
 高慢な姫君は、終始、店主も、老人も、青年も見下し、蔑んでいた。
 数度、男は人形の様子を見にいった。
 化繊の生地の、露出の多い、安っぽいピンクの洋服を着せられて、少女は角の服屋の前に立っていた。辛うじて軒先の長い庇が雨露は防いでくれる。だが商店街を吹き抜けるからっ風は容赦なく、少女の繊細な肌を乾かせひび割れを作るだろう。冬が深まりますます角度を狭めた朝の日差しは、陶磁の肌を焼き焦がし、今日も少女をいじめたはずだ。
 それでもなお、道行く男を、女を、老人を、幼児を、少女はあまねくあの傲慢な翠の眼差で、見下し続けているのだろう。
 想像すると、楽しい。
 夢想だけでは我慢できず、その日も男は外に出て、角の服屋の店先に訪れた。子供っぽいピンクのワンピースのスカートを摘み上げてからかった。自分を蔑む少女を物理的に高みから見下し、笑ってやった。
「君の幸せを望まないわけではないんだよ」
 翠の瞳を覗き込む。少女は毅然と視線の正面の世界を睨み付け、さりとて怒り狂うわけでも悲しむでもなく、滑稽なほど高慢に、端然とたたずんでいるだけだった。


 日が落ちてきた。冬の日没は早い。
 人形店の営業時間は、男の自由裁量だ。早いが、もう今日は店を閉めようかと思った矢先のことだった。錆びたカウベルの音を鳴らし、およそ二週間ぶりに、商店会長が男の店を訪れた。
 顔中に刻まれたしわは濃い。長い白眉に隠れた双眸は、黒目がちで強いエネルギーに満ちている。背筋はシャンと伸び、まるで二十代の若者のようだった。
 老体にして健康。
 単純にして精力的。
 不思議な対象だ。生身の人間になど、通常とんと興味など湧かない男だったが、老人の醸し出す一種歪な組み合わせに、心は柔らかに捉えられていた。
 この存在が職人の作り物ではなく、自然の産物であるところが、おもしろい。
 観察すれば観察するほどに、年齢不詳に見えてくる老人は、じっとりと店内を見回した。
 飾られた人形を見てくれているのか。あいにく、老人に理解し得そうな人形は、店内に一体もないだろう。
「椅子もないのか」
 叱責するような厳めしい調子だった。放たれた予想外の一言に、店主は思わず吹き出した。
 やはり生身の人間は、難しい。人形であれば心の奥底までも手に取るようにわかるのに、こんな単純な人間でさえ、店主は所作から意図を読み取ることすらできないのだ。
「何を笑う」
 申し訳ありません。突然昔のことを思い出しました。
 店主は嘘をついて、神妙に謝った。カウンターの裏の自らの椅子を持ち出し、老人の為に設置する。
 背凭れに青く錆びた金属糸のアラベスク刺繍の施された、アンティークの肘掛け椅子だ。老人は精妙な模様には一瞥もくれず、勢いよく硬くなったクッションに細い腰を投げ落とす。老人にはいささか大きすぎる椅子に身を沈め、両の肘掛けに腕を乗せた。
 老猿が山の頂上で尊大に群れを見回すような風情である。
 なかなかの貫禄に感嘆したところか、あるいは胸の奥からこみ上げてくる笑いに素直に身を委ねてしまっていいものか。いずれにしても自身の器量を測られそうで、店主はなんとかずれかける仮面の維持に努めた。
「それで、今宵の用向きは?」
 誰か違う名匠が作った、自分の子でない精緻な人形に話しかけるように、店主は優しい声音で老人に話しかける。
 途端、老人は憮然とした顔をした。
「あんたの人形が、盗まれた」
 はあ。とりあえず応え、店主は心の中で首を傾げる。
 老人はなぜ怒っているのだろう。しかし目を凝らしてよく見ると、眉根を寄せる不機嫌な表情とは裏腹に、小さな目の奥に気弱な色が浮かんでいる。
「すまん」
 謝った。もしや、店主に対して申し訳なく思っているのかもしれない。しかし素直にその性格から詫びることもできないものだから、つい必要以上に不機嫌で横暴な態度に出ているのかもしれない。
 今男は、老人の、この表情の意味を理解した。
 自己満足的な悦びに、軽い酩酊を覚える。かつて師の作った狂女の人形の笑顔の裏の、隠れた慎みの欠片を見つけたときに、これによく似た恍惚を覚えた。
「もの作りを生業にする者にこういう申し出をするのが無礼だというのは承知しているが、商店街としてきちんと補償はするつもりだ。あの人形は、いくらくらいの物なのかね? 共済で、五万くらいまでなら出せるだろう」
 桁が、二つ三つ違う。瞳は本物のエメラルドだ。人形師の腕も、そこまで安いものではない。
「お譲りしたものですから、いりませんよ」
「いや、遠慮せんでくれ。商店街の仲間として……」
 立ち上がった老人を、男はカウンターから手で制し、喋ることを止めさせた。
 愛想を残した店主の仮面を、久々に自らの意思で外してみる。
「そんなはした金であの子を売った覚えはありません。お引取りを」
 外気にさらされた素の顔は、おそらくのっぺりと無表情で、瞳は死人のように昏いだろう。

 老人は、言葉もなく、立ち去った。
 アラベスク刺繍の肘掛け椅子を、店主はカウンターの裏に片付けた。



 人形が攫われて、三ヶ月が過ぎた頃だ。季節は春に移り変わろうという時だった。
 初めての客が、人形屋を訪れた。会うのは、確か二度目だった。三ヶ月前、服屋の店先でマネキンにされた人形をからかっていた時、この青年に激しく叱責された覚えがある。
 服屋の店先から攫われてしまったお姫様。プリンセス・プライド。
 題名をつけたものの、店主はその名をあまり気に入ってはいなかった。
 あの人形の本質を表すとしたら、『高慢』の一語に尽きる。だからそれは、的外れな名ではないはずだ。
「突然申し訳ありません。ヒスイの遣いで参りました」
 青年は、痩せた身体に合った高級そうなスーツに身を包み、優雅に一礼をした。あの日男を叱り付けた、どこか精神の不安定な青年とは別人のように挙措が落ち着いている。
 ヒスイ。瞳のエメラルドを和名にしただけの、安直な名だ。だが愛情のこもった柔らかな響きは、不思議と耳に心地よい。
「いらっしゃいませ」
 少し迷い、結局その名を口にする。
「……ヒスイは、あなたの元にいるのですか?」
「はい、一度あなたに会いたいと」
 店主はじっと、青年の瞳を覗き込む。人形を見慣れた店主にとって、青年の心は手に取るように形の見える、単純でわかりやすいものだった。
「遠慮させていただきます。ヒスイに幸せ自慢をされるのは、楽しくない」
 そこにいるのは、従者の人形だった。主たる姫君に対する、深い慈しみと忠誠心。ただ主の望みを叶えることを悦びとし、主にふさわしい自分たることを存在理由とする。
「ヒスイが幸せであることがわかっただけで、私は嬉しいですよ」
 動き、話し、思考をするが、青年はもはや人ではない。商店会の老人のように、複雑ではない。店主と同じ、いや欠陥のない分店主よりは出来のいい、生きた人形になっていた。
「そうでしょうか。私はアパート暮らしなので、ヒスイには狭い部屋しか与えられず、心配です」
「ヒスイは贅沢を望むわけじゃない。気高いあの子の心を、理解し、認めてくれる者を望んでいるだけですよ。ヒスイはあなたのもとで、充分幸せなはずです。ご自分でも分かっておられるでしょう」
 青年は少し俯き、至福の表情を浮かべていた。はい、と小さく店主の言葉を肯定した。
 あなたもちゃんと、幸せですか?
 そう訊ねようと思っていたが、青年の笑顔に、店主は言葉を飲み込んだ。
 聞かずとも、不思議そうに、はい、と応える青年の穏やかな顔が、目に浮かぶようだった。


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