幽(うつ)ろな君にさわりたい!



 大学浪人、一年生。夜、受験勉強をしていると。窓の外にパジャマ姿の女の子が浮いていた。
「幽霊かな……」
  声に出して呟いてみる。
  ストレスによる幻覚だろうか。しかし、それほどまでに勉強に打ち込んだ覚えもない。
  ノートを枕に夢をみているのかもしれない。自分の性格からして、そちらのほうがよほどありうる。
  なんにせよ、かわいい女の子に会えるのは、すてきな幻だ。上着の裾をはためかせ、夜風に戯れる少女の姿に、自然頬が緩んでくる。
  にやけた僕に気がついたのか、窓の外の少女は、こちらに向かって両手を振った。花が咲いたような無邪気な笑顔が眩しくて、肘をついたまま、僕もだらしなく手をひらひらさせた。
  僕がひらひら手を振ると、自分から振ってきたにもかかわらず、笑顔を消して、女の子はびっくりしたように目を瞬かす。
  ふわふわ女の子は窓のそばに近づいて。
  今度は、僕の驚く番だった。

「私が見えるの?」
  閉じた窓のガラスから頭だけを突き出して、僕の目を見て、女の子は訝しげに聞いてきた。
  何も答えず、僕は少女の頬に手を伸ばす。
  夢の僕は大胆だ。片目を瞑り、反射的に首をすくめる女の子の反応にもひるむことなく、ほのかに色づく少女のほっぺに手を伸ばした。
「君は、幽霊かい?」
  伸ばされた僕の手は、目に映る少女の輪郭を突き抜けて、空しく冷たい窓のガラスを触れる。
  少女の顔に指を差し込んだまま、導き出された可能性を、少女に直接訊いてみた。

  窓から女の子を招き入れ、勉強机は捨て置いて、僕らは部屋の床で対面していた。 僕は板張りの地べたに座り込み、女の子には一枚しかない座布団を差し出した。 幽霊少女はせっかく用意した座布団から数センチ隔れた中空を、ふやけた笑顔で浮かんでいる。
  せっかくだから座ったら。僕が頼むと、少女は神妙な顔をして高度を下げた。下げたら下げたで少女の両足は床に沈み、座布団から胴が生えているように見えてしまう。不気味だから戻ってきて。僕は再びお願いせざるをえなかった。
  結局のところ、僕は地べたに、女の子には座布団の上をふよふよ浮いてもらっている。


「よかったー、私を見える人なんて初めてだよ。私、福島萌です。こんにちわ」
  少女――萌――は、空中正座から下のほうへ手をついて、僕に向かって深々と頭を下げた。
「あー。関一馬です。こんにちは」
  自己紹介をしてくれた萌にならって、僕も床に手をつき、名前を名乗って頭を下げた。
  お互い固まったまま、数秒間。
  きゃはは、とその年頃の女の子独特の嬌声を上げながら、萌は天井へと浮き上がり、僕もつられて、声は出さずに頬を緩めた。
 その晩、僕は一睡もせず、もちろん受験勉強も放棄して、朝まで萌と語り明かした。というより、萌は一方的に、しゃべり続けた。
  萌が火事で死んだこと。僕の指摘どおり、どうも幽霊になってしまっているようだということ。最初は透明人間みたいで楽しかったこと。しかし何も触れられず、誰にも気づかれないので、そろそろ退屈していたこと。
「私、一生懸命勉強して、超名門高校の合格もらったところなんだ。これから高校生活エンジョイしようって決めてたのに、ファーストキ……、まぁとにかく、いっぱいやりたいことがあったのに。未練タラタラで私、成仏できないみたい」
  僕が萌がどうして幽霊になったのかを尋ねてみると、彼女はそう答えてくれた。
「名門高校って、どこに受かったの?」
  なんとなく、聞いてほしそうだったので、聞いてあげる。この時期に内定をもらっているということは、私立か推薦だろう。自分は公立一本だったし、なにぶん昔のことなので、そこらへんは疎いが、有名な所なら名前くらいは知っているかもしれない。
「ん? 双葉高校」
  少し自慢げに、萌は答えた。だが残念ながら……僕の知らない学校だ。
「かわいい名前だね」
「でしょ。だって名前で選んだんだもん」
  窮して搾り出した僕の言葉に、萌はきゃはは、と笑ってそう答えた。
 やがて朝日が部屋に差し込む時間になっても、不思議な幽霊の夢は覚めなかった。

・・・

「だー、なんでだよ! 意味一緒じゃねえか!」
  萌が僕の部屋に居ついて早一ヶ月。この不思議な共同生活にも、なんだかすっかり慣れてしまった。
  時が流れ、受験勉強も佳境に入っている。試験本番まで一週間をきっている。 さすがの僕も、少しナーバスになっていた。
「ほりゃ、だってここ否定文だよ。someは肯定文しか使えないんだって」
「おまえ、見た目の割に頭いいのな」
「何言ってんの、こんなん中学レベルの知識だよ。やーい、一馬くん絶対今年も浪人だー。てか、さりげに失礼なこと言ったでしょ」
  超名門高校は、伊達じゃないらしい。はっきり言って、萌は僕より頭が良い。
  しかし、四つも年下の子供に教えられるのも腹立たしい。しかも萌の精神年齢なんて、明らかにさらに下だろう。
「だーいじょうぶ。いざとなったら本番でも私が答、教えてあげるよ。だって私のこと誰も見えないし、聞こえないんだから、カンニングもし放題だよ」
  頭を逆さに宙に浮き、無邪気な笑顔を僕の前に近づけた。
「そうだな。そりゃ、助かるな……」
  妙案だ。しかしそれより僕は、逆さに流れ落ちる萌のサラサラとした髪に、触れてみたいと思っていた。


 試験は明日に迫っていた。この一週間、滑り止めはことごとく落ちている。僕はもう、すっかり気持ちが不安定になっていた。
「ぐぉー、知るか! こんな記号は知らんぞー」
「みゅ、エムがこけたみたいな記号だね。私もわかんないな。あっほら、『シグマ』って読むんだって」
  仮にも受験生だ。読み方くらいは知っている。意味もかろうじて覚えている。だが、使えん。
  僕はすがりつくように、机の上に浮かぶ萌を見上げた。 悲しいかな、今やこの幽霊だけが頼りなのだ。
  明日の作戦として、わからない問題は萌が他の受験生の答を盗み見て回り、僕にこそっと教えてくれるということになっている。
  良心が痛むが、二浪には代えられない。試験は必ず、受かるだろう。
「一馬くん、なんか恐いよ。目が血走ってる」
「萌、明日は頼むぞ。おまえだけが頼りなんだ」
  僕の言葉に萌は少し、眉根を寄せる。自分の唇に指を当て、何か考え込むように宙返りをしてみせた。
「……明日、一馬くんに教えるの、止めようかなぁ」
  ちらりとこちらに視線をくれて、萌は無責任にそう漏らした。
「なんかズルいし、二浪でもいいじゃん」
「おい、萌。ふざけんなよ! おまえ、ヒトゴトだと思って」
  人の不幸を弄ぶようににぱっと笑う萌が許せなくて、僕は本気で叫んでいた。逃げようとする萌の足に手を伸ばすが、実体のないそれは、僕の指をすり抜ける。
「ご、ごめん。でもそんな怒んなくたって。一馬くんが大学行っちゃうと、もう幽霊の私なんかの相手してくれないかと……」
「ふん、どうせ軽い気持ちで言ってんだろう。幽霊はいいよな、うらやましいぜ。受験もないし、なんも悩まなくったっていいんだもんな。こっちは人生賭かってんだからな。二度とふざけたこと言うなよ」
  萌の言葉なんて聞いていなかった。それに僕は追い詰められて、頭に血が昇って、感情の制御が利かなくなっていた。
「……じゃあ、一馬くん。死ねばいいじゃん」
  いつもと違うトーンで、萌は唐突にそう口にした。
「幽霊になりたいんだったら、一馬くんも死ねばいいじゃん!」
「な、なに……」
  僕に口を挟む間を与えず、萌は堰を切ったように話し続けた。
「ほら、窓から飛び降りちゃいなよ。手首切っちゃいなよ。一馬くんの人生なんか知らないよ、私、もう死んでるもん。だいたい私、好きで幽霊なんてやってるわけじゃないんだからね。誰も見えないし、さわれないし、気づいてももらえない。一馬くんがいなかったら、自分でだって自分がいるって自信、なくなっちゃいそうなんだから」
  桜色に高潮した頬を、涙が一筋、流れた。初めて、萌の泣き顔を見た。
  これまで萌は、自分が死んだことを話すときですら、笑っていた。未練を残し、炎に焼かれ、苦しみ死んだことを、たかが十五、六の少女が笑いながら話していたのだ。気づかなかった。思えば、そんな笑顔は、嘘に決まっていた。
「一緒にいてほしいだけなのに。一馬くんが、死んじゃえばいいんだ」
  慰めの言葉が思いつかない。幽霊の萌では、頭を撫でてやることすらできはしない。
「ごめん」
  大きな瞳に浮かぶ、いっぱいの涙が、宝石のようにきれいだった。
  僕が幽霊になれば、この涙を、やさしく拭き取ってあげることができるのだろうか。そんなことを夢想していた。


 翌日。試験が終わり、僕と萌は大学のテスト会場となった校舎の、屋上にいた。
  田舎の学校だ。緑に包まれた、見渡しても視界に収まりきらないくらいの広いキャンパス。街は寂れてはいるが、お寺や歴史的建造物がたくさんあって風情がある。僕の性質からして、最高の大学生活が送れそうな環境だった。
「一馬くん。本当によかったの、私が答を教えてあげなくても」
「ああ、今萌に頼ったら、カッコつかないしさ。それに、思ったよりも良くできた。たぶん、受かったよ」
  大いなる決意を持って臨んだ試験。僕は異様なほどに頭が冴えていた。
  まず、試験には受かっているだろう。
「変なの、一馬くん、すっごい自信。似合わない」
  そう言いつつ、萌は心からうれしそうに笑ってくれる。
「まあね。それにもう、試験は受かろうが落ちようが、どうでもいいんだ。とりあえず、最後に一つ、仕事をやり遂げたかっただけだから」
  僕はそう言って、屋上に巡らされた柵の上に腰掛けた。背中は断崖。吹き降ろすような強い風が吹いている。
「ひゃあ、一馬くん、助けてー」
  萌が風に吹かれるままに流し降ろされて、飛び降り自殺ごっこをしている。
  萌を無視し、吹き付ける風を心地よく感じていると、突如胸元から声がした。
「一馬くん、そんなとこに座っていると、落ちちゃうぞ」
「萌、むしろ俺を落とす気だろ……」
  驚いた。はずみで死ぬかと思った。
  声のした自分の胸元を見ると、そこからにょっきり萌の首が生えている。何度見ても慣れない、不気味な光景だ。 萌はきゃははと笑いながら、僕の胸から体を出してゆき、足まで抜くと、振り返って僕と顔を向かい合わせる。
「一馬くん、ご苦労様。よくがんばったね」
  なびく髪。潤んだ瞳。そして唇。萌の顔は僕のすぐ目の前にあって、微笑んでいた。
  触れたい。この子に、さわりたい。
「萌、ご褒美に、キスさせてもらっても、いいですか?」
  一瞬萌は、キョトンとした顔をする。そのあとひとしきりけらけら笑い転げた後。
「いいよ」
  そう言って萌は目を瞑り、唇を突き出した。

 無論、このまま僕が唇をつけたところで、萌に触れることはかなわない。
  寄せられる萌の唇から逃げるように、僕は背中を傾がせた。
  重心が崩れる。柵から離れ、重力が消える。意識をなくす寸前に、萌が叫ぶ声を聞いた気がした。

・・・

「一馬くん、一馬くん!」
  温かな手に揺り起こされる。
  目を開けると、萌が泣いている。真珠のように零れ落ちる、萌の涙を指で拭う。萌はくすぐったそうに、目を瞬かせた。
  やがて涙を収めた萌に、髪に一梳き手櫛をかける。柔らかな髪が心地よかった。
「萌にさわれる」
  僕の言葉に、萌は再びじわりと涙を滲ませた。
「一馬くん、死んじゃったんだよ」
「いいんだ。萌に触れたかったから」
  そう言って僕は、萌の頬にそっと手を添えた。
 僕は幽霊になれたみたいだ。萌の肌の温もりが、柔らかな産毛までもが感じられる。
「キスをしても、いいですか?」
  萌が顔を真っ赤に染めて、小さく頷いたところ。僕が萌に顔を寄せようとしたところ。
  突然、頬に添えた僕の手が、光り始めた。
  そのまま、僕の体中が光り始める。輝くに従い、感覚が虚ろになってゆく。自分が、消えてゆく。
「萌に触れたいって未練がかなっちゃったから。やば、もしかしてこのままじゃ、成仏しちまう」
「よかったじゃない、一馬くん。成仏できたほうが、幸せなんだよ」
  不思議なほど落ち着いた面持ちで、萌は僕を見つめていた。
「ああ、成仏はいいとして。でも萌一人残して、消えるわけにはいかねえよ」
  僕の必死の叫びに、萌は小さく、うれしそうに微笑んだ。
「じゃあね。萌も成仏するよ」
  そう言って萌は、その唇を僕に近づけた。
  消え行く唇の感覚に、僕は軽い甘さを感じた気がした。
「私の最大の未練はね、せっかくの女の子なのに、好きな人とファーストキスもできずに死んじゃった、ってことなんだ」
  冗談のような口調でそう言った萌は、僕と同じ、眩い光を放っていた。
  意識の消えるとき、最後に見た萌は、いつものように、けらけら楽しそうに笑っていた。

・・・

「かーずま君。起きた?」
  萌が、浮いている。背景は、真っ白な天井だ。
「どこだ、ここは。天国か?」
  成仏して、消えてしまったと思ったのに。また萌に会えるとは。
「ブッブー。ここは病院です。一馬くんは死に損なったのです」
  そういえば、薬品のにおい。腕の点滴。足は包帯を巻かれて吊るされている。
「足の骨はボキボキ。リハビリも含めて、完治には一年以上かかるとか」
  生きている。うれしくない。しかも天井の幽霊は、人の不幸がそんなにうれしいのか、いつもに増してテンションが高い。
「よかったね!」
「よくねえだろ!」
  幽霊は僕の腹の上に舞い降りる。ふっと萌の笑顔が優しくなって、きれいに見えた。
  腕もがっちりギブスに固められてしまった僕は、萌の顔に手を伸ばすことすらも叶わない。
「これから一年間、一馬くんヒマでしょ。相手してもらえるから、萌はうれしいよ」
  言葉をなくした僕の唇を、萌の細い指が塞いでくれる。幽霊の指は、触れられても何の感触も感じないが、それでも照れたような萌の笑顔が暖かかった。
「一馬くん、まだ死ななくたっていいからね。私もう少し、待ってられるよ」
  こっちは待ちきれないんだけど……。
  僕の言葉を待たずに、萌は飛び立ち、病室内を旋回し始める。
「萌、俺は生きてたんなら仕方ないとして、なんでおまえ成仏してないんだ? キスすれば消えるんだろう」
  髪を撫ぜたい。手を握りたい。捕まえたい。触れたくてたまらない。けれども、手を伸ばすことすら叶わない。
  こっちの欲求不満をよそに、萌の満足げな笑顔が悔しくて、僕は大きな声でそう叫んだ。
「うぬぼれるなよ、一馬くん!」
  右手で銃の形を作ってみせて、萌は中空で、人差し指を僕に向ける。
「あたしカッコいい人とのキスじゃないと、ダメみたいなのよね。今の一馬くんじゃ置いていくのが心配すぎて、成仏なんてできないもん。今度キスしてくれるときは、私が安心して成仏できるくらい、カッコよくなって死んできてよね」
  バンッ、と口で発砲して、萌は空中でけらけら笑い転げていた。


おまけ

 一ヶ月後、病室で迎えた試験発表当日。
  送られてきた封筒の中身は、萌が僕より先に盗み見た。萌は、変な顔をしている。
  覚悟を決めて見てみると、薄い紙に、少しずれたマル否のスタンプが押されていた。
「ダメじゃん」
  ……格好悪い。


読んだよ!(拍手)


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