青い水底に揺れる街

 一章、ジプソディア(2)


 レキは、いなくなった仔イヌは、リコの飼いイヌだった。拾い子だったが、ほとんど弟のようなものである。
 いなくなる間際、一週間ほど、レキはとても不安定だった。最初の二日間くらいは、何か塞いでしまって、部屋の隅に蹲ったりして、落ち込んでいるように見えた。天真爛漫なレキには珍しいことだったが、リコ自身にはそれは親しんだ感覚だったので、さほど心配はしなかった。経験から言うと、そんな時は放っておいてもらったほうがありがたい。
 三日目から、レキは食事を受け付けなくなった。深刻に塞いでいるのかといえば、そうでもないようだった。夜な夜な、ふらふらと外を出歩き、しょっちゅうどこかで喧嘩をして帰ってくるようになった。小さな子供のくせに、荒くれな大人に喧嘩を売るらしく、いつもぼろぼろになって戻ってくる。
 リコとは違って人付き合いの器用なレキは、誰かと衝突するような子ではないはずだった。リコは戸惑った。男の子の考えることはよく分からない。反抗期のようなものだろうか。ただ作ったご飯を食べてもらえないのは、リコを少し落ち込ませた。そんな呑気なことを悩んでいた。
 次の日から、不安定さは更に急速に悪化した。レキは眼をギラギラさせ、リコやジプの目の前で、平気で誰彼構わず乱暴そうな客に喧嘩を売るようになった。無鉄砲かと思うと、今度はまるで何かに取り憑かれたかのように、何もかもに怯えたりした。リコが近づくと、耳を倒し牙を剥いて本気で拒んだし、コップ一杯の水に、涙をぽろぽろ零して怯えたりした。乱暴な衝動と恐怖の感情が、幼いレキの精神に順番に襲い掛かり、レキは必死にそれに抗っているようだった。目を血走らせても、絶対にリコやジプに乱暴をすることはなかったし、リコの視線に気付くと、膝を震わせ目に涙を浮かべ、聡明な笑みの名残を痛々しく口端に浮かべてみせたりした。
 そして七日目、様子がおかしくなってからちょうど一週間後、レキは姿を消してしまった。
 レキは、明るさと優しさと賢さと、そのあらゆる性質に、運命の女神の愛情が透けて見えるような子供であった。暗い街に棲みながら、いつも光に包まれたところにいた。
 レキという子は眩しすぎて、リコは手を伸べるのを躊躇してしまったのだ。レキを、何が蝕んでいたのかは分からない。しかしリコは手をこまねいて、何もせずに、手放してしまった。
 リコが悪いわけではない。何も起こってもいない。悲観しなければならない証拠は何もない。それでも、ごまかしようもなく後悔と罪悪感が溢れてくる。レキの存在を消してしまったのは、リコかもしれない。そんな思いを否定できない。
 ドッグタウンに棲んでいると、誰かがある日いなくなるというのは、慣れてしまう日常だった。街の営みは休むことなく続いていて、次の日にはリコ以外の、誰も気にはしていなかった。少なくとも、表面上はそう見えた。
 リコもこの街の住人である。街の流儀に従い、ここに生まれ、生きてきた。
 手紙は今も、リコの手元にある。リコ宛ではなかったから、封は開けていない。
 絡み付くようなあらゆる感情を心の奥に押し込めて、リコは半ば諦めに似た静かな気持ちで、消えてしまった小さなレキに、思いを馳せた。


 オレンジ色の傘を被せた、灯火の火影がちろちろ揺れている。子供が勝手に火を扱うものではない。レキならばと想像する。暗い部屋の隅っこで、毛布に包まりじっと膝を抱えていることだろう。ただ暗闇に放っておいてしまったのはリコであるから、レイディを叱るわけにもいかなかった。
 リコが仕事からあがると、レイディはまだ時計塔のリコの部屋に居座っていた。梯子を上った先の歪な台形の空間は、かつては機械時計の技師が詰めていた部屋らしい。街を見下ろす大きな時計の裏面の、化石化した歯車が、今もむき出しになっている。
 ネコの子は、リコのベッドに我が物顔に腹這いに転がって、むっつり手紙を読んでいた。可愛い顔の頬を膨らませ、実に不機嫌な顔である。両膝を曲げて、時々ぱたぱた泳いでいる。
 既に夜の二時を過ぎている。深夜のドッグタウンは昼に増して危険であるし、こんな時間に追い出すわけにもいかないだろう。余計な仕事ばかりが増えている気がするが、日が昇ってからヒトの街まで送ってやろうと思っている。
 リコが部屋に入っても、レイディは耳を少し揺らしただけで、視線すらもくれなかった。ベッドには近付けない。縄張りをすっかり奪われてしまったようだった。
 リコは、いつもレキのいた部屋の隅にこっそり座って、膝を抱えて毛布を被った。我ながら情けないが、嫌ではない。固いベッドよりも、気持ちは落ち着く。実はレイディがいない時でも、レキがいなくなってから、リコは部屋を暗くして時々一人で蹲っている。
 便箋は、二枚あるようだった。レイディが一枚を読み終えたらしく、一枚を繰って下に重ね、次の便箋を読み始めた。しばらく観察しているのだが、つい数分ほど前にも、同じことをしていた気がする。ペースも表情も変えず、レイディは手紙を読み返しているらしい。
 レイディが来たのは夕方の八時過ぎだったから、もう五時間ほど放っておいてしまっている。一度読むのに掛かる時間が例えば十分だとしたら、もう何回読み返していることになるのだろう。両手を広げ、リコは丸っこい自分の指をしばらく眺める。やがて十本の指では計算できないことに気付き、リコは数えるのを諦めた。
「レイディ。レキの手紙、なんて書いてあったのか、訊いてもいい?」
「ダメ」
 即答だった。
「そう」
 なんとなく予想はしていたので、リコは大人しく諦める。レイディへと、宛名された手紙なのだ。今それがレイディの手にあるのは奇跡に近いが、そこにはレイディに伝えたかったことしか、記されていないはずである。
「レキ、リコのこと好きだったんだって」
「そう」
 そんなことを友達に宛てて書いているのか、可愛らしい。レイディに嫉妬されはしないだろうか。
 リコは毛布に鼻の上までうずまって、息を吐いて冷たい毛布を湿らせた。
「僕、レキの代わりにここに住むから」
「そう」
 相槌を打って、リコはつと考えた。レイディの言葉は、どれも淡々としていて同じ冷たい調子だから、意味を取るのに時間が掛かってしまう。
「ダメ」
「決めたから」
 どうしよう。わがままな仔ネコの扱いなんて分からない。
 助けを求めて部屋を見回したが、ジプは下でとっくに酔いつぶれて眠ってしまっていたし、レキはどこにもいなかった。
「ねえ、こういう寒い夜には、レキはどうしてた?」
「くっついてきたかしら。遠慮のない子だったから」
 頭まで毛布を被って、リコは薄く柔らかな暗闇の中に逃げ込んだ。足音もなく、気配だけがそっと寄って来るのを感じる。もしかしてとは考えたが、本当に来るとは思わなかった。細っこく温かい物体が、リコの足元から毛布の中に潜り込んできた。
「僕、リコのこと好きになることにするから」
 リコの膝の間に強引に居場所を作り、今までの言葉と同じ調子で、レイディは無感情に呟いた。おそらく、『レキの代わりに』を省略している。
「ダメ」
「決めたから」
 温度が上がった毛布の中で、リコは逃げ込もうとまどろみを探した。



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