青い水底に揺れる街

 一章、ジプソディア(3)


 朝、冷気の風船を抱えたように懐が寒くて、リコは目覚めた。まだ頭が重たい。いつものことだが、眠りに就いたのは深夜も過ぎて夜明けに近い。
 昨日、後片付けをせずに上がってきてしまったことを思い出す。流しや食器に、油の臭いが染み付き、固まって取れなくなる。便器には、黄色い染みや茶色いものがこびりついているだろう。汚れというのは放っておくと、感染病のように拡大する。今のうちに台所と、あと洗面所を掃除して、夜に備えて二度寝しよう。
 リコは決意を固めて、毛布を脱いだ。
「リコ、おはよう」
 不意に声を掛けられ、リコは目を瞬いた。目の前に、グレーの長袖のインナーシャツを着た子供がいる。リコの私服だ、どこから引っ張り出したのか。か細い仔猫には幅も長さも大きすぎて、ほつれた袖口からは指が覗いていなかった。
 レイディ。そうだ、昨日は仔ネコを抱えて寝たのだった。小さな耳からして、純血ではなくリコと同じあいのこのようだ。仔ネコが抜けたから、お腹の辺りの空間が、こんなにも冷えるのだ。
 態度からして、男の子のはずだと思う。だが小さな頭に大きな瞳、ジャケットを脱いでレキの面影を取り去ると、まるで女の子になってしまう。
「リコちゃん、おはよう」
 不意に、それまでとはまるで違う表情で繰り返された挨拶に、リコはわずかに戦慄した。
 レイディが、無邪気な顔で笑っている。レキと重なった。女の子のような顔の造作も、澄んだ高い声も、レキとは似ても似つかない。しかし飼い主に対する敬意も何もない開けっぴろげな好意や、口の端をほんの少し吊り上げる甘えた表情も、まるで完璧にレキそのものだった。
 いなくなったはずの子の幻影に、リコはおぞましさを覚える。同時に、ぎゅっと心臓を掴まれたように、切なくなった。レイディはここまでつぶさに、レキのことを観察していたのだ。
 レイディの扱いをまだ決めかねていたリコは、おはよう、と低く呻いて立ち上がると、仔ネコに目をくれず梯子に向かった。
 ジプはちゃんと自室に戻って寝たらしい。堂内はしんと静まり返っていた。
 水に浸してあった食器を、ぞんざいに洗剤を染み込ませたスポンジで擦って、流して、逆さに並べていく。最後に同じスポンジでざっとステンレスの流しを拭いて、排水口の網を外して全部下水に流してしまう。冬の水は冷たくて、指先の感覚はすぐに消えてしまった。テーブルとカウンターは拭いて回ったが、床の掃除はしなかった。
 台所回りの片付けを終えると、リコは洗面所に行くことにした。なにせ、酔っ払ったイヌたちの使う洗面所である。見るまでもなく、惨状の想像はつく。本当は先に済ませてしまいたいくらいだったが、洗面所から台所へいくのは、さすがに飲食業として生理的に受け付けられないものを感じる。
 そうは言っても、順番に関わらず、リコが掃除しなければならないのは変わらない。溜息をつきながら敷居の扉を開けて、リコは洗面所に踏み入った。小便器が一つあり、敷居の中にもう一枠敷居が設けられ、個室トイレになっていた。小便器の縁が黄ばんでいる。わざわざ工事を頼んで作ってもらった床の排水溝に、まだ液体が溜まっている。水でも掛けておけばいいだろうか。今更嫌悪感もなく、ものぐさなことをリコは考えた。
 誰もいないはずの個室に、気配のようなものを感じて、リコは扉に手を伸ばした。珍しいことではない、だから恐怖はない。水が滴っていたり、隙間風が吹き込んできたり、誰もいないトイレというのはそういった音がやけに存在感を持つ場所なのだ。
 個室に入り、その情景を見て、リコは息を呑んだ。やがて、だんだんと腹立ちが募ってくる。アリウムがいたのは、夕方の八時過ぎである。それから何人もの酔客が、この洗面所を利用したはずなのだ。大便器を利用しようとした客も、少なからずいたはずだ。誰一人顔色を変えた人はいなかった。昨夜も、何事もなく和やかに、シェットランド・カフェの夜は更けていった。
 こうしたイヌという種族の習性を目の当たりにするつけ、リコは軽蔑にも似た感情を覚えるのだ。
 何よりも怒りを込めて、リコは早朝のしじまに悲鳴を上げた。

 駆けつけたジプは、顔色一つ変えなかった。リコの怒りに満ちた顔に、迷惑そうに少し小鼻に皺を寄せたくらいである。
 古びた毛皮のコートから、すらりと長い素足が見える。いつものように、下着だけのほとんど裸の状態で寝ていたのだろう。適当に羽織ってきたという感が丸出しだった。高価だったろう、毛皮のコートは、飼い犬時代の遺産らしい。
 まだ二月だ、寒くないのだろうか。ジプの姿を見るだけで寒くなり、リコはぶるっと震えてしまった。
「悪かったわね、あんたに見つかる前に始末しとくつもりだったんだけど。やっとくから、行っていいわよ」
「違うでしょう! 知り合いが死んでるのよ!」
 汚れた便器には、溢れそうに水が溜まっていた。背の高いドーベルマン種のイヌが、そこに顔をつけて固まっている。昨夜見たばかりだ、顔を見なくても分かる。アリウムが、死んでいる。
 ジプは眠そうな目を瞬かせ、右手をさ迷わせた。切れ長の眼は、母親ながらにこんな時でも色っぽい。右手は煙草を探したようだった。持ち合わせているわけもなく、ジプは不機嫌に目を細めて、人差し指と中指を立て、何もない指先を自分の口許に持ってくる。耳を伏せ、ひどく険悪な顔になり、煙草を吸うような仕草をする。こうはなりたくないから、リコは煙草だけは吸うまいと決めている。
「そうね、死んでる。生きてたら助けるけど、死んでるんだからどうしようもないわ」
 ジプは決して冷酷なわけではない。むしろこの地区一帯のボスで、面倒見のいい世話役だった。ヒトに追われる仲間がいれば、命懸けで庇う。困窮した仲間がいれば、身銭を切って助けた。夕刻のアリウムを見れば、ジプは面倒くさそうな顔をしながらも、お節介を焼いたに違いない。
 だがいなくなってしまった者、そして死んでしまった者。一度見切りをつけてしまえば、ジプはその対象が存在しなかったかのように無情になる。誰もが、今に必死でなければ生き残れない。消えてしまった存在に縛られるのは不毛なことだ。そんなルールが、イヌの本能に刷り込まれている。
 秩序と団結、それを守るためなら、感情を含むあらゆる無意味なものを排除する。ヒトの侵略に晒され、野生のネコがほぼ絶滅してしまったのにもかかわらず、イヌという種族はこうして共同体を作り、野良で生き延びることができた。それは種の血に刻み込まれた、そんな命令に従って生きてきた結果だった。
 あいのこのリコは、イヌの血が半分に薄れてしまっている。理解はできる。だがジプが、店のお客さんが、街の人たちが、この冷たい無関心を見せる瞬間には耐えられなかった。
 レキがいなくなった日、見知らぬ人までも、街が総出で捜索した。だが見つからず捜索が打ち切られた次の日には、誰も、一緒に暮らしていたジプさえも、レキを心配するどころか、覚えているそぶりさえも見せない。
 生前、人付き合いの悪いアリウムを、誰も除け者にはしなかった。不良グループとの諍いもあったが、街はアリウムを仲間として受け入れ、アリウムも少しずつ不器用に心を開いていっていたように見えた。しかしトイレで死んでいるアリウムに、誰一人として関心を示さなかった。リコが見つけるまで、惨めな体勢で放置され続けたのである。
 心配してくれるジプの目も、酔っ払ったお客さんの幸せそうな笑顔も、挨拶を交わす街の人たちも、全て偽者に思えてくるのだ。心を持たない機械人形のお芝居の中に、リコだけが一人生身で放り込まれている。本気で、そんな錯覚に襲われる。
「リコ、どうしたの?」
 澄んだ声を見やると、レイディが降りてきていた。惨状を見て、仔ネコが琥珀色の瞳を大きく瞠らせた。
 レイディはジプとリコを分け入って、音もなくアリウムに近寄る。後ろ髪を掴んで、レイディはアリウムを引っ張り上げた。アリウムの見開かれた白目が、ぎろりと睨んだ。肌は青白く変色し、顔中の筋肉がひきつった、恐ろしい形相だった。
「怪我もない。死斑も弱いし、窒息じゃなくて、ショック死だと思う。怖い目に合ったんだ、かわいそうに」
 かわいそう。かわいそうだ。その一言を言う者すら、ドッグタウンには誰もいないのだ。口に出すことも、思うことすら許されない。
 リコはレイディを、後ろから掻き取るように捕まえて、ぎゅっと抱き締めた。
 レイディは、いなくなったレキの面影を平気で真似して、死んだアリウムをかわいそうだと言った。
「ネコなんか拾って、ちゃんと自分で世話なさいよ」
「言われなくたってそうするよ!」
 イヌは、他種族に対しても冷たい。ジプの生活の面倒だって、ご飯に掃除洗濯、全部リコがやっているのだ。仔ネコ一匹、ジプよりよっぽど手間が掛からないに違いない。
「それはつまりは、僕を置いてくれるってことだよね?」
 腕の中で、仔ネコがボソッと呟いた。



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