青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(1)


 思ったことは、レキやアリウムのことを放って置いて、忘れてしまうわけにはいかないということだ。そうは言っても、ジプや、イヌ仲間には相談できない。誰も取り合ってはくれないだろう。
 レイディならイヌではないので話は通じるかもしれない。だが一日一緒にいて、頼りようがないということがわかった。どういう育ち方をしたのか、儚げに見える外見と同様、根っからのお坊ちゃま、というかお嬢様気質なのだ。放り出したら、馬車に轢かれるか、鴉についばまれるか、運よく免れても飢え死にするか。リコに拾われる以前の幼児の頃から野良で生きていた、レキとはまるで別種の生き物だった。レイディとレキが、どんな話をして、どんな風に遊んでいたのだろうか。
 リコにはレイディ以外にも、一人イヌではない相談相手のあてがあった。
 シェットランド・カフェの入っている礼拝堂の向かいは、もともと瓦礫の散らかった荒地になっていた。しかし最近、一年ほど前、家が新築された。鮮やかな赤の煉瓦造りの、場違いに可愛らしい家屋には、これまた物好きなヒトが住み着いていた。
「センセイ、こんにちは」
 小さな花壇にひしめくスノードロップの世話を焼く、猫背の青年の名前をリコは知らない。皆、センセイと呼んでいる。ヒトの学校の学位を持っている頭のいい人だとは聞いているが、何の先生かも定かではない。質問をすれば、大概のことは知っていた。だがあだなの由来は保育所の先生なのかもしれない。センセイは仔イヌたちに異様に懐かれた。病院の先生ということも考えられる。センセイはドッグタウンで唯一のお医者さんだった。
「やあ、リコちゃん。昨日はカフェがおやすみだったね。もしかしてジプさんの具合が悪いとか」
「まさか、あの人が風邪ひくようなウイルスがあったとしたら、ドッグタウンのイヌはとっくに死に絶えてます」
 センセイは寒そうに薄いトレーナーの両腕を抱いて、気弱に笑って、さらに猫背を余計に丸めた。
 センセイはシェットランド・カフェのお得意さんであり、数少ないカフェをカフェとして利用するお客さんだ。センセイは下戸で、さらにはカフェインにも弱い体質らしく、アルコール臭漂う聖堂でいつも紅茶を注文する。しかし最近リコは、サービスでホットワインティーを出すようにしていた。お湯の代わりに、温めた赤ワインにティーバックを落とした代物だ。甘くて身体も温まり、季節の限定メニューだ。リコが持っていってもすげなく断られるが、ジプに持たせると、センセイは必死の形相で飲み干してくれる。
 人を見る目がないというか、何より命知らずというか、センセイはジプに恋心を抱いているようなのだ。
 顔を真っ赤に、ふらふらになって向かいの家に帰るセンセイを見送るのが、リコは楽しくてたまらない。
「お店のお休みにも関係あるんですけど、センセイに相談したいことがあるんです。ちょっと聞かれたくない話だし、お邪魔させてもらっちゃ、迷惑ですか?」
 センセイはどぎまぎした様子で、目を伏せた。レキたち仔イヌは、センセイの家を溜まり場にしていたくらいだというのに、リコは入れてもらったこともないのだ。
「構わないけど、深刻な相談なの?」
「はい。アリウムさんが、お店で死んだんです」
 え。小さく漏らし、センセイはショックを受けたように、大きく目を見開いた。呆然として、何の思考もできないといった様子で俯いた。
 センセイの動揺ぶりを見ると、リコは自分にもまた、半分イヌの血が流れていることを実感する。リコがアリウムの死体を見つけたとき湧き上がった感情は、見て見ぬ振りをするジプや客に対する怒りであった。純粋に、アリウムの死に心動かされたわけではない。
「全然、知らなかった。レキ君がいなくなって、なんだか続くね」
「センセイも……そう思いますか!?」
 センセイは、思案するように目を泳がせた。
「いや、不幸な偶然だと思うよ。寒いし、とりあえず家に上がってよ。話、聞くから」
 タブーだと思っていたことが、いとも簡単にセンセイの口から言葉になって形を取る。既に形を成してしまった物を否定されても、リコは素直に振り払うことができなかった。



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