青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(2)


 センセイの家は、可愛らしい赤レンガの外見とは違い、中は打って変わって殺風景だった。天井も壁紙も真っ白で、物が極端に少ない。センセイはヒトなのに、無駄なものを排してしまう内装は、イヌのようだ。
「二階には上がらないでね。散らかってるから」
 一階の大部屋に通され、リコは置いてきぼりにされた。
 ここは、居間なのだろうか。ガラス製の洒落たテーブルがあるが、椅子が一脚しかない。ダイニングキッチンというのだろうか、シェットランド・カフェのカウンターのように、少し高めのボードを境に、台所とも一間になっている。
 何もないキッチンボードの端っこに、スノードームが置いてあった。ガラスの中に水と、スノーパウダーを閉じ込めた置物だ。ひっくり返すと雪が降る。青みがかった水の中に座り込む細工を見て、リコは赤面した。それはリコの作品だった。レキをイメージして作った、レトリバーの子犬のマルツィパン細工だ。イヌではなく、動物の犬の姿をしている。クリスマスに、レキにあげたはずだった。
「お待たせ、立ってないで座ってよ」
 慌しく戻ってきたセンセイは、折り畳み椅子を脇に抱えていた。
「今、お茶か何か……」
「あたしがやります、センセイこそ座ってて」
 センセイは余計に慌ててリコを座らせようとしたが、あたし本職ですよ、の一言であっけなく折れた。先生の家の紅茶は、ティーバックではなく茶葉だったので、リコは思いがけず戸惑った。ポットから淹れる紅茶なんて、ずいぶん久しぶりだ。
 分量も作法も何も分からず、ついカップも冷たいまま出してしまった。それでも口をつけるなりセンセイは、おいしい、と笑ってくれた。リコもうれしい気持ちになって、一口啜る。薄くて温くて不味かった。
 センセイは低い折り畳み椅子に座っている。リコはテーブルを挟んで向かい側、しっかりした白いダイニングチェアに座っている。身長はセンセイのほうが頭半分大きかったが、今の視線の高さは変わらなかった。
「ところで、レキ君とアリウムさんの話を聞いて思い出したんだけどね」
 本題だ。リコが紅茶相手にあたふたしながら語った話を、センセイは黙って聞いてくれていた。
「僕は昔、イヌの民俗学について少し研究していたんだけどね、リコちゃん知ってるかな、吸血鬼の伝承」
 リコは首を横に振った。母のジプは飼いイヌ出身なので、イヌ独特の伝承のようなものは、リコには何も伝わっていなかった。
「なんてことのない伝承なんだ。吸血鬼が現れる。凶暴で、普通の食事を取らず、他のイヌを襲って血を吸う。噛まれたイヌは吸血鬼になってしまう。吸血鬼になったイヌは光に弱く、眠らなくなり、夜に行動するようになる。水が苦手で、退治方法は水を掛けることらしい。吸血鬼の伝承自体は珍しいものじゃない、ヒトの世界にも類似したものが沢山ある。だけどイヌの伝承が不思議なのは、バニシュの国中どこで聞いても吸血鬼に関する伝承だけはほとんど全く差異がなく、しかもテリア種からバーナード種まで、ほぼ全ての部族で同じ話が伝わっている。イヌという種族はかつて、ヒト以上に、はるかに多様な文化を持っていたんだ。偶然、同じおとぎ話が広まるなんてことはありえない。吸血鬼の伝承は、なんらかの根拠があるはずだと思うんだ」
 何らかの根拠。センセイは言葉を濁したが、奇妙なことはもう一つある。
 いなくなる間際のレキ、死の間際のアリウムの、その行動だ。レキは夜な夜な出歩き、誰彼構わず喧嘩を売った。アリウムは暴れることは最後までなかったが、剣呑な目で必死に何かを耐えているように見えた。
 レキはなぜか水に怯えたし、アリウムは、便器の水に顔を浸けてショック死した。
 そしてレキの友達であり、死の間際アリウムに接触した、素性の知れない子供がいる。
「心当たり、ある?」
 リコは返事に窮した。そこにリコとセンセイしかいなくても、言葉にしてしまった途端、思念や疑惑は形を取る。リコの頭に浮かんでしまった想像は、気軽に口にしていいことではない。
「そうは言っても、リコちゃんは吸血鬼なんて存在、信じるかい?」
 ゆっくり、首を横に振る。偶然では片付けられない符号が、いくつもある。しかし、神の存在しない世界だ。吸血鬼なんて、存在するはずがない。
「なら、恐れることなんてない。もしも仮に現れたら、リコちゃんもジプさんも、僕が守ってあげるよ」
 一瞬、きょとんとしてしまう。次いでリコはくすりと意地悪に笑ってしまった。
 センセイは頬を染め、拗ねたように目を逸らす。気が弱く、いかにもひ弱に見えるセンセイが、思いがけないセリフを口にするものだから、リコはつい顔に出してしまった。
「ごめんなさい、でもセンセイのお陰でずいぶん気が楽になりました。ちゃんとジプにも伝えておきますね。ところでセンセイ、あのスノードームの中の犬、私がレキにあげたものですよね。水が青みがかっていて、とっても綺麗」
 センセイはキッチンボードのスノードームに目を向け、懐かしそうに目を細めながら息をついた。
「レキ君がね、大事なものだから、食べてしまうのがもったいないって。コーティングして、腐らないようにホルマリン漬けにしたんだ。リコちゃんに見せちゃ、まずかったのかな。レキ君に怒られる」
 マルツィパンの子犬が、溶けそうになりながら、じっとリコを見つめていた。



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