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青い水底に揺れる街

 二章、センセイ(3)


 白い喉が、くぴくぴと上下に波打つ。ぷはぁ、と可愛らしい声で親父くさい息をつき、レイディはミネラルウォーターを飲み干した。ビール呑みたちの影響だろう。シェットランド・カフェは、教育環境としてはあまりよくない。
「レイディ、おかわりあげる」
 空になったマグカップに、リコはミネラルウォーターを再びなみなみとついでやる。カウンター席に座ったレイディは、怪訝そうに目を眇め、カップをとってまたごくごくと飲み干した。
 旺盛な飲みっぷりだ。しかしマグカップ二杯、普通一気飲みなんてするだろうか。あまりの飲みっぷりが、逆に怪しくも見える。
「レイディは、結構夜更かしするよね。子供は太陽の下で遊んだ方が良いよ」
「無理。僕、肌が弱いから、あまり日に当たっちゃいけないって言われてるから」
「そうなんだ……」
 ジャケットの袖口のファーから、真っ白な指先が覗いている。透き通るような、脆弱な白さだ。光に弱い。こちらは条件にぴったり当てはまる。
「ねえ、誰かを噛んだり、したことある?」
 唇を濡らしたレイディが、無表情にリコを見上げる。尖った耳が揺れ、すっと、仔ネコの琥珀色の眼が細まった。質問が単刀直入すぎただろうか。
「僕が、吸血鬼だとでも思っているの?」
 リコは思わず、手を滑らせてしまった。ミネラルウォーターの壜を倒してしまう。幸い水は流しに向かって川を作り、被害は最小限に済んだ。
 通常一足飛びに、思考が吸血鬼に飛躍するだろうか。リコは、センセイの話を聞かなければ、吸血鬼なんて思いもしない。
「なんて顔してるの。ジプに聞いた」
「センセイが言いふらしてるのよ、注意しろってさ、阿呆らしい。リコ、あんた、身内疑うのは最低だよ」
 調理台に浅く腰を乗せてもたれたジプが、鼻から大きく紫煙を吐き出す。煙が溜息の形に広がっていく。
 リコは納得して、同時に少しがっかりした。考えてみれば当然だ。ドッグタウンに危険な吸血鬼がいる。センセイがそう思えば、真っ先にジプに伝えるだろう。なにせセンセイは、ジプに恋心を抱いているのだ。
 ジプが知ったということは、いまやドッグタウン中に広まっていることだろう。ジプは面倒くさがりで無駄話はあまりしないが、ドッグタウンのボス役として、情報は必ず街で共有させる。イヌのコミュニティというのを、リコは未だにちゃんと理解できていない。レキの消えたことも、アリウムが死んだことも、誰も口にしないようなのに、おそらくドッグタウンのほとんどのイヌたちが知っているのだ。街で共有する、その種の情報を、リコは基本的にジプからしか伝えられない。
 もうみんなが知っている。センセイと二人だけの秘密を持ったと思い込んでいたリコは、まるで裏切られたような、ささくれた心地になってしまった。
「センセイ、吸血鬼が出たらあたしを守ってくれるって言ったよ」
 リコはセンセイの言ったことを、少し歪曲して言葉に乗せた。ジプへのちょっとした対抗心による行為だったが、完全に逆効果だった。ジプはおもしろそうに、少し酷薄に見える形に唇を歪めた。獲物をいたぶるような、ジプ特有の笑い方。ジプの鋭い美貌はより映えて、リコは自分が草食の小動物だということを再確認させられる。
「ジプのことも守るんだってさ……」
 リコが観念して白状すると、ジプは興味を失くしたように目を伏せて、親指の先ほどに短くなった煙草の、最後の煙を味わうことに没頭する。
「リコ。僕、ジプよりはリコのほうが好きだよ」
 無表情なレイディがとりなすように慰めてくれて、余計に惨めになってしまう。
「リコはご飯をくれるし、ジプより柔らかいし温かいし、煙草の臭いもしないし……」
「ありがとう」
 リコはカウンター越しに手を伸ばし、仔ネコの顎の下をしゃくってやった。じっとリコを見据えていた、琥珀色の大きな瞳が、くすぐったそうに瞬いた。
 レイディの言葉は、女に対する褒め言葉というより、快適な棲みかとしての条件だ。
「これ、レキにもよくしてたんでしょ。顎の下をくすぐるの」
 レイディは視線を外し、目を細めた。白い顔に浮かんだ変化はそれだけだったが、仔ネコの意識が遠く、レキのもとへ行ってしまったのが分かった。レイディは時々、こんな風に切ない顔でレキのことを考えている。訊ねたことはないが、リコはそう思っている。
 ドッグタウンにも、親兄弟や友達を失う者はたくさんいるのに、こんな表情を見せる者は誰もいない。
 役に立たない、わがままな上、可愛げもない。そんな全てを帳消しにするくらい、この瞬間のレイディは愛おしい。
「でも僕は、あんまり好きじゃない。気持ち悪い」
 リコは再びレイディの顎の下をしゃくってやった。嫌がっても、しつこくくすぐってやる。
 威嚇するように剥き出された白い牙は、小さく尖がっていて、可愛らしかった。



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