青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(1)


 突っ伏していると、しばらくセンセイの気配があった。
 どのくらいだろう、リコはしばし、緩い酩酊と自分の腕の中の暗闇に逃げていた。やがて悪酒に頭が痛くなってきて顔を上げると、堂内はもう暗くなっていて、ジプもセンセイもいなかった。向かいの席にはレイディの白い顔が浮かんでいて、両手に持ったマグカップに口をつけている。表情の読めない大きな金眼が、じっとリコを見据えていた。
 カップは棚の、レイディの手の届かない場所にあったはずだ。取るときに、落っこちたりしなかっただろうか。カップから、薄闇に白い湯気が上がっている。勝手に厨房の火を使うなんて、危なっかしいったらない。
「馬鹿ネコ」
 レイディは眉根を寄せて、カップを置いた。白いはずの頬がほのかに色づいていて、仔ネコの可愛らしさがむやみに割り増されている。
「何飲んでんのよ、それ」
「ワイン。苦かったから、砂糖を入れた」
「子供がワインなんて飲まないでよ。馬鹿」
 レイディは表情を変えることもなく、マグカップを脇に放り投げた。石床に陶器の弾ける音が響いて、リコは驚いて酔いが醒めてしまった。
「僕はそんなに大人じゃないから、いくらリコでも、そんな言い方されたら怒る」
 レイディが、大人なわけがない。世間知らずの子供のくせに、まっすぐリコを睨んできて、拗ね方までも生意気で腹が立つ。
「レイディのせいで、母親も、好きな人もいなくなっちゃった。どうしてくれるのよ」
「同情する。でも、リコが行っちゃわなくて良かった。僕はリコのことを、好きでいられる」
「仔ネコに好かれたって、慰めにもなんないよ……」
「そうでもないよ」
 レイディの白い顔が、口の端を吊り上げ、可愛らしく微笑んだ。相変わらずレキのものまねだったが、少しぎこちなく遠慮があって、仔ネコの本当の表情が垣間見えた気がした。
「もしリコが、僕を見捨てちゃうようなら、僕だってリコなんて助けない」
 ジャケットのポケットから、レイディは紙切れを取り出した。すぐにピンときた。レキの置いていった、レイディへの手紙だ。
「そんな顔しないで。レキが好きになった人だから、信じてはいたんだよ。でもジプがいたし、近くにセンセイもいたから、リコに言えなかったの。これでレキの手紙の通りに、僕がリコを守ってあげられる」
「レイディは、何者なのよ」
「……リコの言う、吸血鬼? なんでも話すけど。リコは、どこまで気付いているの?」
 仔ネコはいたずらっ子のように、可愛らしく首を傾げた。
 リコは何も知らない、気付いていない。
「手紙、朗読しなさい」
 女の子のように頬を染め、レイディは恥ずかしそうに目を逸らした。むぅ、と呟く。ピッタリと伏せった耳の先までも、赤く染まっているようだった。
 不謹慎ながら、可愛くて楽しくて、にやけてしまう。
「リコ、その顔、ジプみたいで嫌い」
 思わず、リコは意地悪な顔をしているらしい。面白いことを見つけると、ジプはいたぶるような酷薄な笑みを作るのだ。ジプの鋭い美貌を思い浮かべ、うれしさと哀しさが湧き出して、リコは今度は泣きたくなった。
「じゃあ、読むからね」
 拙い手つきで、仔ネコの小さな指が紙片を拡げた。



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