青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(3)


 目覚めると、静かな朝だった。酔客の喧燥どころか、小鳥の囀りすらもない。誰も存在しないかのような、平穏と静寂。居心地が良くて、心が落ち着く。ただリコは、今ではそれが、『死』に繋がっていることを知ってしまった。
 そのまま自分も静寂に消え入りたい、そんな退廃的な思考が一瞬よぎる。しかしすぐに振り払い、リコは乱暴に立ち上がった。
 厨房の流しに向かい、蛇口を強く捻る。黄土色がかった水流が、勢いよく迸る。蛇口の下に頭を突っ込み、冬の水道水を直接に浴びた。拭き取りもせずに頭を上げて、今度は水を掬って洗顔する。頭からすぅっと体が冷気に支配され、生まれ変わったような気分になった。
 乾いた布巾で頭や顔や、髪を伝って水の染みた服の下を拭きながら、堂内を振り返る。床でマグカップが木っ端微塵に割れていて、陶器の破片があちこちできらきらと朝の光を弾いていた。ワインの広がった赤い染みが、まるで血痕のようだ。少し不謹慎な気持ちになりながら、リコは薄く笑みを浮かべる。
 散らかしたままにしておくと、それは伝染病のように拡大していく、リコはそう思っている。掃除をしてしまいたい。しかしその誘惑を飲み込んで、リコは時計塔への梯子に飛びついた。
 二階のリコの部屋はカーテンが閉め切られ、薄暗いままだった。仔ネコが眠っているかと思い、ベッドに目を凝らしてみるが、誰もいない。ふと視線をずらすと、部屋の隅っこで金色の瞳が爛々とリコを睨んでいて、思わず一歩よろめいた。
「レイディ、びっくりした。これからどうしよう」
「僕に訊くの?」
「だって。あたし何も分からないのよ」
 レイディの言い草に腹が立った。仔ネコは白い無表情に、目だけを呆れたように細めてみせる。その態度にまた、腹が立つ。
「よく分からないけど、レキの手紙によると、レイディも悪いんでしょう。ジプもセンセイも行っちゃったの。少しは考えてよ」
 毛布を身体に巻きつけたまま、レイディは立ち上がった。灰色の毛布は薄闇に溶け込み、真っ白い顔だけが宙に浮かび上がるようにも見える。
「考えるよ。僕はリコを助ける。だけどそんな簡単に僕を信じるリコが理解できない。ジプたちについて行くのが正解だったかもしれないよ。僕は吸血鬼かもしれない。イヌって、モノを考えない種族なの?」
 嫌な子だ。リコに言わせてもらえば、レイディの方がよっぽど普段から何にも考えてないように見える。そもそも誰のせいでこんな状況になったと思っているのだ。レイディがいなければ、リコは何も迷わずジプたちについて行くことができたのだ。
「合理的なだけ。仮にこの選択が間違いで、レイディが吸血鬼だったとしても、今更どうしようもないでしょ。考えるだけ無駄。それにレイディがあたしを騙すつもりなら、そんなことは言わないと思う」
 レイディはリコから視線を外した。瞳が反射する光が方向を変え、爛々と輝いていた双眸は、琥珀色のガラス玉のように薄闇に紛れる。細い肩に毛布を纏ったまま、レイディはリコの横を足音もなく行き過ぎる。そのまま梯子から降りてしまおうとするレイディを、リコは目で追い掛ける。立ち尽くしているうちに、レイディはもう、身体半分床より下に降りていた。
 ふと仔ネコの目線が上がってリコに焦点を合わせられ、金目が強烈な光を放った。
「行こうよ」
 また、呆れたような声だった。
「わ、わかってるわよ」
 とりあえず、出よう。音も立てず羽根のように軽く梯子から飛び降りた仔ネコを、リコは慌てて追い掛けた。


 店内を散らかしっぱなしにしたまま、リコとレイディは往来に出た。戻ってこられる保証もないのだ。そんなことを気にするのは無意味だと頭では分かっているが、なんとなく後ろ髪を引かれる思いである。
 レイディの割ったカップの破片を、片付けていきたい。一人だったらそのまま踏み出すことに、相当の気持ちが要っただろう。幸いといえるのか、レイディがさっさと行ってしまうものだから、リコも懊悩している暇もなく、毛布を引き摺る仔ネコの背中についていった。
「レイディ、あたしたちも街を出よう。街の人たちは心配だけど、状況もわからないし、まず自分たちの身を……」
「無駄だと思う。ヒトはリコほど馬鹿じゃない、きっともう誰もこの街からは出られない。リコ以外のイヌたちなんてどうでもいいけど、状況は知っておいたほうがいい。イヌたちの集会所に顔を出してみよう」
「なにそれ?」
『イヌの集会所』。レイディが当然のように口にした単語がわからなかったので、問うてみる。仔ネコはちらりと振り返り、ほんの少し目を細めた。また、呆れられた。というより哀れまれたような気がしてしまい、その微かな表情が余計に癇に障った。
「僕だって知らない。レキに聞いただけだから。街庁舎ってどこ」
 街庁舎は、ドッグタウンの中心街にある。前に広場の開けた大きな建物で、往来も多い。レイディは逃げ出すつもりがないらしい。リコと、この小さな仔ネコだけで何かできることがあるというのだろうか。
 なんだか前途が心配だった。だがリコには考えがない。レイディには目的があるらしい。選択肢がないのだ、悩んだって仕方がない。
「わかった、街庁舎に行けばいいのね」
 小走りに追いつき、毛布の隙間に手を差し込んでまさぐって、仔ネコの小さく温かな手を握り締める。レキと違って、仔ネコはされるがままになる。それはよい。しかしレキと違って、照れるどころか仔ネコは澄ました表情を変えてくれない。そんなところは可愛くない。
 街庁舎広場には、礼拝堂から街の奥の方向に、ほんの五分ほど歩いて着いてしまう。街庁舎から礼拝堂にかけてが、かつて人が住んでいた時代のドッグタウンの中心街だったのだろう。その役割は、ドッグタウンがイヌの棲みかとなった今でも続いている。礼拝堂から町庁舎広場への往来は道幅が広く、背の高い建築物が密に建ち、ヒトの住まない街にも関わらず水道やガスといったインフラもかなり整備されていた。
 冬の朝方、太陽の昇りかけるこの時間になっても、通りには誰一人存在しない。そんな光景を、リコは初めて目にしている。
 広場に辿り着き、背の高い尖塔のそそり立つ街庁舎を、リコは仔ネコと手を繋いで二人だけで見上げた。
「リーリウムの家ってどこ? そこが集会所のはず」
 レイディと目を合わせ、リコは思わず顔をしかめた。なるほど、そういうことか。ジプに頼れない以上、リーリウムのもとに駆け込むのが当然の選択かもしれない。
 リーリウム、通称リーリは、特に血の気の多い若いイヌたちに人気のある、ドッグタウンの実力者だった。ドッグタウンの次期ボス候補とも見なされており、そのため現ボスであるジプとの間には微妙な緊張がある。リーリ自身はむしろジプの政権に協力的で、ジプもそもそもが無頓着な性格だから、表立っての対立などがあるわけでもない。それでもリーリの取り巻きはしばしば騒動を起こしたし、ジプの支持者は、リコも含めて、リーリ一派を毛嫌いしていた。
 リコに限定すれば、リコはリーリ本人も苦手だった。リーリには、イヌとしては規格に外れる点が幾つもある。例えばその一つ、こういう区別をするのは自分自身も惨めに感じるので嫌いだったが、リーリはリコやレイディ以上に特異な出自だった。
 リーリは、イヌとネコとのあいのこだった。



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