青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(6)


 地上階に出て、廊下を進んで、何番目のドアだっただろうか。心ここにあらずでリーリについてきてしまったので、リコは数えていなかった。リーリがドアを開けて、その途端奥から獣のような声が響いて、リコは初めて我を取り戻した。
 リーリは平然とした顔で入っていく。手を繋ぐレイディを見ると、一瞬眉を顰めただけで、いつものように無表情だった。周りがそんなものだから、リコも叫び声にいまいち実感がわかず、レイディに引っ張られてついていく。
「ルバ婆ちゃん……」
 何もないがらんとしたコンクリート壁の部屋には、パイプベッドが一つだけ備え付けられている。傍らには、紫のエプロンドレスのルバ婆ちゃんが、胸を突き刺されて死んでいた。痩せた男が、ベッドの四隅に手足を縛り付けられて寝かされている。ガリガリの身体を千切れそうに仰け反らせ、恐ろしい叫び声を上げていた。落ち窪んだ眼は赤く充血していて、口からは叫びと共に黄色い泡を吹き出している。吸血鬼、これが、おそらく。
 説明されるまでもなく、理解せざるをえない存在。
「ルバ婆さんはその吸血鬼に噛まれていた。まだ覚醒していなかったから、死に場所を自分で決めさせた。ここで、そいつの傍で死にたいと言ったから、さっき連れてきて殺してあげた」
 ルバ婆ちゃんの死体を前に、リーリは淡々と説明した。リコは、納得した。縛り付けられた吸血鬼を実際に目の前にして、感情が程よく麻痺している。
 そのままにしておけばルバ婆ちゃんもやがて吸血鬼になって、更なる被害者が出たかもしれない。ルバ婆ちゃん自身も、余計に苦しむことになる。秩序を守るため、リーリの決断は仕方のないものなのだろう。
「その、ベッドに縛られている人は?」
「ルバ婆ちゃんを噛んだ吸血鬼。もともとはルバ婆ちゃんの息子だった。アリウムと同じ頃に覚醒した初期の吸血鬼で、その分たくさんの被害者を出しやがった」
 お菓子屋の乱暴者の息子。リアトリスは、でっぷりと肥満した中年男だったはずだ。骸骨のような身体を痙攣させ、叫び声を上げて暴れる吸血鬼と、リコの記憶の中のリアトリス。二人はまるで重ならない。
「かわいそう」
 不意に、ぼそりとレイディが呟いた。リコも小さく頷いた。怖いよりも不気味よりも何よりも、これは非道だ。なぜリーリは、リアトリスを生かしているのだろう。
「元に戻す方法でもあるの?」
「ないね。こうなったら、というか、噛まれた時点で絶望的だ。狂って苦しみ抜いて、飢え死にする」
「なぜ、殺してあげないの? ルバ婆ちゃんは殺したのに」
「そいつはたくさんの仲間を噛んだ。自分の母親にも手を掛けた。吸血鬼になって狂っても、完全に意識がなくなるわけじゃない、自分のやっていることは自覚しているはずなんだ。リアトリスには、ルバ婆さんと同じように安らかに死ぬ権利なんて……」
「くだらない!」
 リコは叫んでいた。リーリが呆気にとられたように口を噤んだ。レイディまで、驚いたようにピクンと耳を尖らせる。
 まずい、自覚はあった。リーリはリコよりずっと格上だ。それも分類するなら、武闘派の極めて危険な部類のイヌである。気分次第で、リコなど簡単に殺される。
 だがもう、一度口についてしまったら止められない。
「こんなの無意味です、残酷で不合理、イヌのやり方ですらない! ベッドに縛り付けた縄だって、引きちぎるかもしれないわ。生きてる限り、また誰かを襲うかもしれない。リーリの自己満足で、危険を増やして、リアトリスを無駄に苦しめてる。早く今すぐ殺してあげて!」
 リコに呼応するように、リアトリスが絶叫を上げた。対照的に、リーリは薄く静かに笑って、ナイフを取り出す。殺される。背筋が冷たくなったが、リーリはナイフをリコには向けずに地面に落とした。
「いちいち、もっともだ。リコちゃんがやりなよ。吸血鬼といったって、不死身じゃない。生身のイヌとさほど変わらない。心臓を突いても死ぬし、首を絞めても死ぬ。水を掛けても、叫び声を上げてショック死する」
「全部、試したのね」
 リーリはにっこりと、場違いに華やかに笑った。確かめるまでもなく、肯定の笑みだった。リーリは一体、何人その手にかけたのだろう。
 リコはリーリの笑顔を睨み付け、床のナイフを一瞥し、結局リーリの手に持っていた革水筒をひったくってベッドに向かう。
 ルバ婆ちゃんの死体の傍らに立ち、リコはリアトリスの顔を見下ろした。唇を捲くって巨大な牙をむき出して、黄色い唾液をぶくぶく溢れさせている。今にも噛みつきそうに興奮している。だが四肢をベッドに縛り付けられているせいで、リアトリスは胴を仰け反らせながらガタガタ揺れるだけだった。
 水の入った革水筒を、吸血鬼の顔の上でちゃぷちゃぷ揺らす。悲鳴とも恫喝ともつかない、声帯の千切れそうな掠れた絶叫が爆発する。その大きく開いた口に、リコは水筒の水を流し込んだ。
 リアトリスはごぼごぼと咽た。目玉が浮き出る。苦痛から自分の意思で暴れていた先ほどまでとは違い、身体は反射的な小刻みな痙攣に変わる。構わず注ぎ続けると、やがてリアトリスは、咳喘も痙攣も止めてしまって、目を瞠った真っ青な顔で硬直した。
 ショック死。便器に顔をつけた、アリウムと同じ死に顔だった。
 死んだことを確かめて、リコは振り返る。レイディは眉を顰めてリコを見ていた。リーリは、呆れたような苦笑いを浮かべていた。
「怖いよ。リコちゃんの方が、よっぽど残酷だと思うけど」
「リーリが間違ってる。あたしは誰かを殺す力なんて持ってないもの、どうしようもないじゃない。リーリがナイフで一突きすれば、ずっと簡単に済んだはずだわ」
 リーリは肩を竦める。芝居がかった仕草だった。
「ならそう頼めばよかった、聞いてあげたかもしれない。意地っ張りは、イヌのあり方じゃないだろう」
 リーリは楽しそうだった。リコは心の底から、不愉快だった。



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