青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(7)


 集会所に集まっていたイヌたちが、三々五々に出て行ってしまった。
 何時だろう。午前中、慣れない神経の使い方をしたせいで、リコはぐったり疲れてしまっている。レイディはいつも通りうとうとしていて、案外適応している様子だった。
 あいのこのリーリはジプほどに認められていないらしく、ドッグタウンはすかすかのスポンジケーキのように結束が緩んでしまっていた。もともとのリーリ派である不良グループだけががっちりと団結しており、他のイヌたちは一歩下がって、自分の採るべき道を見極めようとしている。
 今さっき出て行ったガウラ爺さんは、リーリのマンションの一室を借りていると言っていた。身を守る術を持たない老人や孤児たちには、リーリは自分のナワバリを開放していた。
 一方もともとリーリ派でないイヌたちのほとんどは、昼間にたまに集会所に顔を出すことはあっても、基本的に自分たちのナワバリに潜んでいる。出歩くよりは安全とはいえ、家の中まで押し入って襲ってくる吸血鬼もいるらしい。リコのいる間にも、住民票の赤線は三本増えた。
 リコたちは、今夜はどうしたらいいだろう。
 リーリ派の若いイヌたちだけが、かろうじて組織として機能していた。マンションに泊り込み、リーリに命じられるとおりに、あるいは命じられるまでもなく、元不良グループだけが役割に忠実に動いている。
「今、何時くらいですか?」
 ずっと地下室にいて、そのうえレイディと一緒に少しうたた寝までしてしまって、時間の感覚がわからない。イヌの出入りの時に水を掛ける以外、微動だにせずドアに寄りかかっているシバに、リコは訊ねてみた。言葉はほとんど交わしていない。だが、レイディを除くと、リコが今日一番長く一緒にいたのはシバだった。
 シバは眉根を寄せた。のっぺりした、黒目がちのせいか幼く見える顔の眉間に、懊悩する深い皺が刻まれる。
「あの、だいたいでいいんだけど。ほら、夕方くらい、とか。もしかしてもう夜だったりして?」
「そうか、だいたい……夕方だ。五時か、六時か、まだリーリが帰っていないから七時にはなっていないはずだ」
「リーリはどこに行っているんですか?」
「吸血鬼狩りだ。俺は……弱いから、連れて行ってもらえない」
 シェットランド・カフェでは街の問題児集団にしか見えなかった、リーリたちのイメージが変わっていく。追い詰められた状況で、一番秩序を守り、一番互いを思いやるのが彼らなのだから、人は見た目ではわからない。
 少し、うらやましいと思う。久しぶりに、誰かのご機嫌を伺いたい気分になった。
「そう、どうもありがとう」
 リコはシェットランド・カフェの接客で培ったスマイルを披露してみた。シバはぷいと目を逸らし、番犬の職務に戻ってしまった。


 白いトレンチコートに、乾いた血痕が良く目立つ。帰ってきたリーリを眺めていたら、その不気味なコートを投げつけられた。どうも暇人と認定されたらしい。
 吸血鬼を狩りに行っていたとシバが言っていた。不本意だったが、ピリピリした空気には逆らえず、何より暇人扱いを否定することができなくて、リコはおとなしくコートを伸ばして腕に掛けた。どこに片付けたものだろう。
「いいよ、ソファーにでも置いといてくれれば」
 ……なら、渡さないでほしい。
 不満を込めてちらりとリーリに目を遣って、ソファーの背もたれに、無造作にコートを掛けた。
「あの、リーリ。今晩なんだけど、家に帰ろうかここにいようか……」
「カフェには帰らないほうがいい。危ないだろう」
 皆まで言わせてもらえず、リコは途中で遮られた。イヌらしい、感情味のない言葉だった。まるで昔のジプが言いそうな素っ気なさ。その冷たい調子をむしろ心地よく感じてしまう自分は、ちょっとかわいそうな子なのだろうかと、リコはほんの少し悩んでしまう。
 リコはまだ、リーリへの感情を和らげてはいなかった。だが不貞腐れるほど子供でもなく、納得したので頷いた。街の半分が吸血鬼。シェットランド・カフェに住んでいて、今まで何事もなかったのが、不思議なくらいだ。
「この地下室に泊まれば、僕もいるし一番安全だけど、どうする? 人が多いし敷居もないから、リコちゃんは落ち着かないかもしれない」
 イヌは群れる種族だ。なのに、一人でいることの方が好きなリコの心を見透かしたような気遣いに、リコは少しぎょっとする。だがお陰で、リコは譲れない注文を、さほど萎縮せずに口にできた。
「できれば、自分の部屋が欲しいです。狭くても寒くても、構わないから」
「じゃあ、マンションの部屋、どれか一つ貸してあげるよ。狭くて寒いけどね」
 リーリは気分を害した様子もなく、少し目許を和らげさえしてリコを見た。
 ほっとした。些細なくだらないことだけど、リコには安全以上に大事なことだった。
「どこを貸してもらえるの?」
「空いてるとこなら、好きなところを使っていい」
「決めてもらえないですか。不用意にドアを開けて、またリアトリスさんみたいのがいたら眠れなくなりそう」
 ぶふっ、と。リーリは失礼な吹き出し方をした。少なくとも、吸血鬼に怯えるか弱い女の子に向けるものではない。
「いいよ、安眠は大切だ。だけど僕に決めさせたら、僕がリコちゃんの部屋を知っちゃうよ。危ないんだけどなぁ」
「なんですかそれ。リーリも吸血鬼なの?」
「まさか。でも狼かもよ」
 ネコと垂れ耳イヌのあいのこ。得体は知れない。しかし狼とは、また程遠い。
 リアトリスのいた部屋には内鍵があった、ような気がする。おぼろげな記憶をあてにして、リコはリーリの指定した部屋を頭に刻む。三階の、三つ目の部屋。ゾロ目の縁起を担いだのかもしれない、いかにも思いつきの口ぶりだった。あるいはリコのおミソを気遣ってくれたのかもしれない。覚えやすい。
「これ、お守り。たぶん役に立つから、肌身離さず持ってるように」
 そう言ってリーリは、リコに革水筒をくれた。不吉な言葉にほんの少しむっとしながらも、リコはありがたくリーリの水筒を受け取った。



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