青い水底に揺れる街

 三章、リーリウム(8)


 膝の間の仔ネコが、むくりと立ち上がった。
 昼間からうとうとしているせいだろう、レイディは夜行性のケがある。かくいうリコも、今日は日中にずいぶん睡眠をとってしまったので、眼が冴えていた。
 なにもないコンクリート壁の一室に、備え付けのパイプベッド。階は三階でも、窓に寄らないと外は見えない。そうするとリアトリスを縛り付けてあった部屋と、間取りまでもまるで同じで、なにも見分けがつかなかった。目を瞑ればリアトリスとルバ婆ちゃんの死体が浮かび、吸血鬼の断末魔が耳鳴りとなって聞こえる気がする。横になる気にもならず、リコはベッドの隅で、仔ネコを抱えて蹲っていた。
「どうかしたの?」
 礼拝堂に、センセイが訪れた時の反応に似ている。気配に敏感なレイディは、眠っていてもすぐに起き上がり、センセイが扉に手を掛ける前に、素早く時計室に逃げていた。
 やがて、ドアノブがかちゃかちゃと音を立てた。カーテンなどは備えられていなかったので、部屋の中は影が浮かび上がるほどに、夜光が差し込み明るかった。かちゃりと鍵の外れる音がして、内鍵のつまみの部分が回ってしまった。
「こんばんは、リーリ」
「……こんばんは、リコちゃん」
 間の抜けた声が返ってきた。ドアを開けた侵入者は、さほど驚いた様子はなく、気まずげに笑う。立ったまま威嚇するレイディを、リコは抱き寄せ無理やり座らせた。
 まさかとは思ったが、本当に来るとは思わなかった。同じ感想を、前に毛布に潜り込んできたレイディにも抱いたことを思い出す。全く、ネコという生き物は。仔ネコを抱く腕に力を込めて、リコは対象を大雑把に心の中で毒づいた。
「何か用ですか?」
「ほら、同じ屋根の下で好きな子が寝ていたらさ、遊びに来ちゃうのは不可抗力というか、もはや義務だと思うんだよね」
 この巨大なマンションに、同じ屋根の下はいくつあることだろう。レイディといいリーリといい、ネコは『好き』という言葉をろくな使い方をしない。純粋に懐いてくれたレキが、どうしようもなく懐かしい。
「そんな顔しないで。気付かれたからには何もしやしないから。ここからリコちゃんに近づかない」
 そう言いつつ、リーリは後ろ手にドアを閉めてしまい、ドアノブを握ったまま不敵な笑顔で寄り掛かった。袋の鼠。草食動物の根性で、状況にリコは少し暗鬱になる。
「ねえ、アリウムの最期を聞かせてよ。あいつは僕にとって、リコちゃんと同じくらい、ちょっと特別な奴だったんだ」
 ずいぶん簡単に、死者の名前を口にする。首を傾げて、リコは眼を眇めた。猜疑と警戒があいまってしまい、あまり良い顔ではないだろう。リコの感情を察するように、腕の仔ネコが唸り声を大きくする。
「リーリが、何を聞きたいのかわからないわ」
「いいから、話して。じゃないと、そのネコ殺して、リコちゃん襲うよ」
 リーリのネコの目が、薄暗がりに瞳孔を拡げ、ぎらぎら赤みがかって輝いている。変わらない気軽さに、リーリの感情が伝わらない。本気だろうか。
 怯えるリコに人を食った柔らかな笑みを浮かべる画が目に浮かぶ。同じくらいに鮮明に、無造作にナイフを振るうリーリの姿も想像できた。どちらにしてもリーリは失うものはなく、選択権はリコにはない。
「アリウムさん、一人でお店に来たのよ。ウィスキーの水割りを頼まれて、すぐに持って行って。口はつけてたけどほとんど飲まないで、ずっと煙草ばかりふかしてた。注文の時とかも、話し掛けるとなんとなく迷惑そうだったから、あまり近づいてないの。危ない雰囲気はあったけど、アリウムさん、リーリたちといる時もそんなところあるから、それほど気にはしなかった」
 リーリはドア伝いにずり落ちて、その場に座り込んだ。天井を見上げて、遠くを見ていた。
「それで、どうやって死んだの?」
「トイレの、便器に顔を浸けて。吸血鬼は水が弱点なのよね。リアトリスさんと、同じ顔で死んでたわ」
 いなくなった仲間は、忘れ去るのがドッグタウンのルールだった。それが苦しすぎることに気付いたから、リコはレキもジプもセンセイも、アリウムもルバ婆ちゃんも、去った人も死んだ者も覚えていることに決めたのだ。
 死者を口にすることは、もうタブーではない。それでも声が上ずり舌が絡まり、記憶の底に沈めるのとは違う痛みが胸をつく。
「アリウムらしい。馬鹿だな、克服できないものなんて、この世にはいくらでもあるのに」
 たぶん、独り言だった。愛情と悲しみの入り混じった目に、少し動揺してしまう。センセイの目にも、似た色が時折垣間見えて好きだった。ただリーリの目は、それよりずっと切実だった。
 リーリとアリウムの絆。それはリコの関知するべきものではないだろう。
 レイディの口に腕を宛がい黙らせて、リコも口を噤んで目を逸らす。案外抵抗もなく、仔ネコは牙を収め小さくなって固まった。
「アリウムはね、僕のことを怖れてたんだ。来てすぐに集団で半殺しにしたからね。ケンカ屋の一匹狼なんてドッグタウンでは異物だったから、制裁は僕の仕事だったんだ。ただアリウムがおもしろかったのは、ここから。とにかくアリウムは逃げ出さなかったし、こっちが準備万端整えて襲い掛かるまで絶対向こうから手を出しては来なかったし、何度どんなにやられても服従しなかった」
 不自然に楽しそうに語って一息つくと、リーリはしんみりと視線を外して壁を見た。
「ようは番犬として、恐ろしいものに立ち向かうようヒトに仕込まれただけなんだろうけど。絶対に僕に敵いやしないのに、一人でずっと逆らってた。吸血鬼になって理性を奪われるのも、水を怖れるのも、とにかく許せなかったんだろう。逆らってどうなるものでもないだろうに。それでそんな間抜けな死に方してちゃあ、世話ないよね」
 リーリは四つん這いに、少しベッドににじり寄った。抱き締めて口を塞いだ仔ネコが暴れ出す。ただリーリの様子は、例えばテーブルの上のお菓子を狙う小犬のようにやましげで、リコはまだ恐怖も怒りも湧いて来なかった。
「別に、死んだやつの思い出話をしたいわけじゃないんだ。ドッグタウンのイヌって、従順で冷淡で、それは居場所としては心地いいんだけど、時々不安になるんだよね。世界が全部偽者で、僕は一人なんじゃないかって思う時がある。アリウムは街のガン細胞だったけど、僕をこの世界に繋ぎとめてくれる存在で、こっそり気に入っていた」
 いつの間にかリーリは、ベッドのすぐ足元まで這い寄っていた。ベッドに座ったリコは視線が高く、まだなんとなく距離がある。
「ねえ、まだ僕に逆らわないの? 僕どこで怒られるかと思って、ずっとドキドキしてるのに」
 リーリはベッドの下から顔を出して、無遠慮にリコの手を取った。リコは少し身を硬くする。振り払うと剣呑な空気になる気がする。リコは拒絶するタイミングを逃していた。
「たぶんヒトの血が混じってるからかな、リコちゃんは時々思いも掛けないことをする。おもしろいから、ずっと見ていた」
 リーリは床に両膝をついたまま、リコの手を引き寄せた。キス、されるのだろうか。卑屈な姿勢はイヌの実力者のものではない。ただ半分ネコのリーリだと、その姿にも気品と愛嬌が伴って、リコは不覚にも少し胸が高鳴った。
「あたしは、リーリに逆らわないよ」
「馬鹿だな」
 リーリは小さく呟き、引き寄せたリコの手の甲に唇をつけ、優しく、噛んだ。



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