左手記念日
11
星空の模様のカーテン。窓の下の白い壁。勿忘草の、微かな甘い匂いが鼻についた。
あるべきものがいなくなっただけで、それらは別物のように無機質になった。
師匠は、名刺を一枚残していった。
『ネイルサロン・リコリス。ネイリスト。水口和琴』
彼岸花のロゴが印刷されている。ボールペン書きの、携帯電話の番号が書いてある。
和琴が勤める店と、同じ名前のネイルサロンだった。和琴と、同姓同名だった。和琴と同じ携帯番号だった。和琴とよく似た筆跡だった。
試しに、ボールペン書きの電話番号に掛けてみる。話し中の、短い待ち受け音が点滅する。電話を切った。
名刺の、お店の番号に掛けてみた。
三コール、長い呼び出し音が響いた。出た。誰か出ることなんて期待していなかったから、心臓が高鳴った。
「はい、ネイルサロン・リコリスです」
男の声だった。しばらく頭を真っ白にして、和琴は気付いた。こちらの世界のリコリスだ。電話に出たのは、店長だ。
「……水口です。今日は、すみませんでした」
「ああ、良かった。朝の電話だけじゃ心配で、何度か掛けたんだけどね」
携帯の電源は切っていた。店長の声は、怒っていないようだった。
「明日は必ず行きます」
「明日は来なくていいよ」
「申し訳ありませんでした。私、もう大丈夫です。もう絶対に休んだりしません。ネイルもお客さんに喜んでもらえるように、もっとちゃんと上手くなります。私、リコリスにいなくちゃダメなんです。お願いします、クビにしないでください……!」
声が詰まって、最後は涙声になった。
「泣かないで、大丈夫。クビになんてしないから。女の子に泣かれると、困っちゃうんだよなあ」
店長の少し困惑の混ざった、柔らかい笑いが受話口から流れてきた。
「明日はお店の店休日だから。気持ちを落ち着けて、うさぎ目を労わって、あさってから出てきてくださいね。頼りにしてますから」
月曜、店休日。明日は月曜。そういえば、そうだ。師匠の残していった名刺に、書いてある。
お礼を言って、謝って、通話を切って、電話を投げた。
どうせ明日は、お休みだ。
店長の言いつけを早速破って、結局和琴は一晩中、うさぎ目を酷使し続け、朝に眠った。