左手記念日

 10


 
 ぎゅう、と左手を握り締めたいと思った。
 だけど、自分の描いた親指のネイルが綺麗で、そして触れると微妙なバランスが崩れてしまいそうな気がしてしまい、触れることができなかった。
 記憶の中の、師匠の彼岸花のほうがずっと精緻で優美だ。直接比べることができなくとも、技術の差を思い知る。筆遣いは、及ぶべくもない。
 それでも、和琴の彼岸花は、負けてはいない。
 左手は、戸惑ったようにしばらく空を彷徨った。和琴は、左手の届かない場所まで離れている。
 左手は動きを止め、掌を上にそっと空に指を伸べた。
 おいで、そんな無声の声を聞く。
 和琴は、我慢した。
 彼岸花を、描き終えたときにわかったのだ。触れてはいけない。触れると、壊してしまう。左手を帰してあげないと、和琴も、左手も、ダメになる。
 別れの予感を、受け入れることに決めたのだ。和琴の想いは、自分を、相手を、不幸にするものではないはずだ。この想いが、昏い汚れたものならば、和琴の描いた儚い彼岸花も壊してしまう。
 左手は、上へと伸びた。
 星空のカーテンを、赤い花火のような花が昇っていく。
 親指が、星空に触れた。カーテン自体は揺れない。暗い凪いだ水面のように、星空に同心円状の波紋が広がった。
 親指のネイルが、星空を下向きになぞる。音も揺れもなく、薄絹にカッターナイフでも通すよう、星空の水面が綺麗に裂ける。裂け目から、夜空よりも暗い暗闇が覗いた。
 未練がましく、口を開ける向こうの世界への入り口の前で、左手は和琴を待っている。和琴は手を伸ばそうとした。左手を掴まえて、引っ張って、帰れないようにしようと思った。
 左手は、和琴が手を伸ばす前に奪われた。
 夜空のカーテンに開いた裂け目から、女の小さな手が伸びて、左手を掴まえた。
 想像していたような職人の手という感じではなく、小さく不器用そうな手だった。小さな指にふさわしい、マニキュアのしがいのなさそうな小さなネイルは、綺麗に爪を切られて何の装飾もされていない。
 それでも流石にネイリスト、甘皮はきちんと処理されていて、きちんとやすりがかけてある。丁寧にケアされた爪だった。
 見慣れた小さな手――そして手首につけられたシュシュがずれて、見慣れた傷跡が見えていた。
 左手は数瞬抵抗したが、やがて諦めたらしい。力を抜き、小さな手に裂け目の向こうに引きずり込まれる。
 行かないで欲しい。願ったが、本気ではなかった。
 和琴は助けに入らなかった。左手は、それを和琴の意思と汲んだだろう。

 大きな白い男の手。長い指。和琴とお揃いの、手首の傷。小指から人差し指まで、形良いネイルには下手な赤い花が描いてある。親指には、やっぱり筆致はどこまでも未熟な、でも和琴にとってはとても上手な、気持ちのこもった彼岸花が咲いている。
 瞬きをせず、目を見開き、左手を網膜に深く刻みつけた。



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