左手記念日

 9


 
『目をつむって、私の描いたマニキュアを思い出して』
 和琴は言われた通りに目を瞑る。あえて思い浮かべずとも、花火のような彼岸花はまぶたの裏に刻み込まれていた。細部が、見えない。やっぱりもったいないことをした。写真でもとっておけば良かった。
 圧倒的に美しいのに、仔細をよく見ようとすると、大事なところがぼやけてしまう彼岸花。頭の中でぐるぐるさせて、少し酔ってしまったような苦い思いで目を開くと、スケジュール帳には既に師匠の次の言葉が記されていた。
『綺麗な絵が浮かんだわね。正確な手本なんていらないの。私の花をどんなに忠実に真似したところで、実物より綺麗にはなりようがないでしょ。でもあなたの記憶の中の花は、あなたがこの先どんなに上手くなっても、あなたが満足しちゃわない限り、いつまでも理想の綺麗な花でありつづけるから。お手本が欲しくなったら、目をつむればいいわ』
 さすが、心の師匠。言うことが違うなあ、と思った。もう一度目を瞑ると、まぶたの裏の闇に咲く彼岸花は、さっきよりもなお鮮やかになった気がした。
 描きたくて、たまらなくなった。
 師匠の指示も待たず、透明なベースコートを塗る。夜色の背景になる、藍色のネイルカラーに、手を伸ばす。
『焦らないように、乾くのを待ちなさい』
 見られているのかと思った。絶妙すぎるタイミングで、師匠から注意を受けた。
『そろそろいいわよ』
 うずうずベースコートの乾燥を待っていると、これまたまさに我慢の限界を迎えてもう一度カラーに手を伸ばしたタイミングで、指示が来た。
 壁を隔てている。和琴の手際も見えていないはずだ。それなのに左手の綴る師匠の指示は、専門学校の先生よりも的確だった。
 藍色の、夜空の背景を塗り終える。いよいよ彼岸花の絵を描こうとして、赤いカラーを取って、手が止まった。
 頭の中では溢れて気持ち悪くなるくらいに、鮮やかな赤い花火のような彼岸花が咲いている。ただ描こうとすると、細部が霞む。適当に筆をつけるには頭の中の花が圧倒的に美しすぎて、どうすればよいかわからなくなる。
 左手を見ると、じっと花を描いてもらうのを待っている。和琴は途方に暮れた。自分には、無理かもしれない。
 じっと、落ち着かない数瞬が過ぎた。やがて左手はまたボールペンを取ると、文字を書いた。また、師匠の言葉だった。
『泣かない。あなたには技術がないんだから、私と同じ絵なんて描けるわけがないの。気持ちを込めて描きなさい。今のあなたにしか描けないものが、必ずあるから』
 師匠はずいぶんな自信家だ。しかしそれは事実だったし、文字しかない言葉なのになぜか不思議と愛嬌が感じられ、言葉の割に追い詰められる感覚がない。
 今の和琴にしか、描けない気持ち。
『ヒントをあげる。彼岸花を描くんでしょう、花言葉を思い出して』
 彼岸花の花言葉。
――別離。
 もう予感はしている。これが終わったら、左手はきっと師匠が連れ去ってしまう。
――再会。
 壁の裂け目の向こうは、時の流れも違う別の世界だ。願って、いいのだろうか。
 目を瞑る。気持ちは溢れる。確かに、今の和琴にしかない気持ち。一年前にはありえない、一年後にはきっと薄れてしまっているだろう。
 しかしそんな気持ちでは、悲しくて切ないばかりで、とてもまぶたの裏に咲いている、理想の彼岸花は描けない。
 前髪に、そっと柔らかく触れる感触を感じた。目を開けると、左手が腕を伸ばして和琴のあたまをそっと撫でてくれていた。目の前の手首に、古い長い傷跡が走っている。
 白く長い、ネイルにぼやけた花を乗せた人差し指が、和琴の目の端から零れ落ちそうになった雫を掬ってくれた。
 和琴の頭の横、耳を覆うように左手が当てられる。和琴は甘えるように、寄り掛かる。
「泣き虫。勉強不足のあなたに、彼岸花のもう一つの花言葉を教えてあげる。赤い花に込められた言葉は、別離、再会、そして、貴方一人への想い……」
 頭の中に語りかけてくるように、左手から師匠の声が響いた気がした。
 優しい、しかし想像していたような迫力があるわけではない、親しみを持てる声だった。
 貴方一人への想い。赤い花が、鮮明に頭の中で花開く。
 和琴は覚醒すると、左手を引き剥がし、力づくで塗る体勢にセットした。筆をとる。穂先をカラーに浸ける。
 左手が、いないと困る。和琴は、役立たずのいらない子かもしれない。でも左手は違う。和琴が左手を必要としている。和琴には今、左手しかいなくて、左手と二人きりの三日間はとても幸せだった。
 藍色の夜空に、一枚目の細く赤い花びらを描いた。

 左手の親指のネイル。
 和琴の描いた彼岸花は、鮮やかに一瞬の命を燃やす花火のように、夜空の背景にどこか切なく儚げに花開いた。



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