左手記念日

 8


 
『ネイルサロンの店員』
 走り書きの状況報告。本当に来たのだろうか。左手は電話を掛けたが、出てさえもらってないはずだ。まだ助けを求めたわけでもない。しかもそのコールから、まだ一時間も経っていないはずだ。
 それなのに、赤の他人のネイルサロンの店員が、左手を助けに部屋まで駆けつけてきたというのだろうか。
 和琴は、ボールペンを握る左手に自分の手を重ね、続報を待った。しばらく、おそらくほんの短い時間、しかし和琴の中では数時間にも感じられる長い時間を待ち、左手は文字を綴った。
『食パンをもらった』
 なぜか、なんだか気が抜けた。とりあえず左手は、ネイリストさんの救援によって、飢え死にを免れたらしい。ぐぅと自分のお腹がなって、和琴も空腹を思い出す。
『君と話したいって。この人の言うこと、書くからね』
 この人というと、左手に食パンを恵んでくれたネイリストさんで、名刺に携帯番号を書いてしまうくらいだから左手にもしかして気があるかもしれないネイリストさんで、そして左手の親指の、幻想的に綺麗な彼岸花を描いたネイリストさん、『師匠』だろうか。
 どうしよう。心の準備が出来ていない。一度油断させておいての不意打ちなんて、卑怯だ。そもそも三日間、身も心も弛緩しきった今の和琴に、突然そんな緊張を強いられても困る。
「ま、待って!」
『道具はある? 親指のマニキュアを落としなさい――って』
 口に出して叫んだところで、意味がない。左手は容赦なく、師匠の言葉をスケジュール帳の真っ白なアドレス欄に転記してきた。
 どうしよう。左手を握って、意味もなく辺りを見回してみる。
 誰も助けてくれない。左手も、ボールペンを握ったままだ。
『除光液、こぼさないように』
 それどころか、左手は師匠の言葉をそのまま伝え、追い討ちを掛けてきた。
 和琴はあたふたと除光液のビンを取り、二度手を滑らせて中身を零し、何とか脱脂綿を湿らせた。零れた除光液の、アセトン成分のツンとした臭いが、和琴をさらに焦らせる。
 ネイルからだいぶはみ出しながら、乱暴に左手の親指を拭いてやる。手を滑らせ、脱脂綿を取り落とす。
 和琴の手が離れた一瞬の隙に、
『なんか今日は、指のほうもすーっとして、気持ちいい』
 左手得意の、ピントの外れたコメントがきた。お陰で少し落ち着いて、混乱がかろうじて収まった。
 深呼吸をして、和琴は気を取り直す。
 美しい彼岸花の最後の一輪は、慌てた和琴の手によって、落ち着いて名残を惜しむこともできないまま、無残に滲んでしまっていた。激しくもったいない思いに駆られながらも、和琴はこれまでの四枚以上に丁寧に、親指のネイルを消していく。
『用意はできた?』
 クレンジングが終わり、絶妙なタイミングで左手が訊ねた。正確には、師匠が訊ねてきたのを、左手が書いた。左手はタイミングを外す天才だから、左手自身でそんなことができるはずがない。
 相手が左手ではない。その分和琴も気持ちを張って、いつもより丁寧な文字で、
『はい』
 と力強く返事を書いた。



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