左手記念日

 7


 
 もう、昼を回る。和琴はいよいよ、丸二十四時間何も食べていないことになる。
 左手は、丸三日間窓の下の壁から生えたままだ。
『おなかすかないの?』
 気になって、訊いてみた。
『そういえば、あんまり』
 スケジュール帳には、はっきりしない返事が書かれた。
 左手は和琴を引っ張り寄せ、ごまかすように髪に指を通す。気持ちが良かったので、和琴はそのまま、左手に頭を預けた。
『そう。私、このままきえてもいいかもしれない』
 白い左腕に書いてみる。そういえば、もともと乾いていた手ざわりが、余計にかさかさになっているかもしれない。大丈夫だろうか。でも少し不健康で、やつれた左手も、それはそれでそそられる。
 左腕は、突然やや乱暴に和琴の頭を抱え込んだ。びっくりする。非難するように、和琴の後ろ髪をぐしゃっと乱した。
 自分を棚に上げて。理不尽な攻撃の仕返しに、和琴は左腕を拳骨で殴った。
 和琴は身をくねらせて、左手の束縛から逃れる。所在なげに空を掻く左手を両手で掴まえ、大きな掌に、和琴は顔を押し付けた。左手は固まった。和琴は掌の中央にキスをした。
「あなたは私にとって大切な左手だよ。消えたりなんてしないで」
 腕を伝って、和琴の声は届いただろうか。
 頭をずらし、掌に耳をつけて、返事を待った。声は聞こえない。星空のカーテンを透かして部屋が明るくなってしまうほど空は明るいのに、掌を伝って、微かに雨音が響く気がした。
 手は和琴の頭を振りほどき、床をまさぐる。ボールペンを持たせると、
『携帯電話で助けを呼ぶ』
 と書いた。
 壁から生えてくるような摩訶不思議な存在のくせに、現実的でつまらないなあ、なんて和琴は思った。

 和琴は窓に背をもたせ、片手で腿を抱えた体育座りで、スケジュール帳を膝の上に開いている。左腕は和琴を逃げられないよう捕まえておくみたいに、肩に回されていた。話したいことがあると、左手はボールペンを受け取って、膝にセットされたスケジュール帳に書き込んだ。
 もうすぐ、予備の一頁のはずの、来年の四月の予定も埋まってしまう。次のページからはアドレス欄だ。予定ばかりではなく、知り合いも全て左手との遣り取りで埋まってしまいそうな勢いだ。
『だれをよんだの? 友だちいないでしょう?』
『失礼な。いないけど』
『わかるから』
 だって和琴にも友達がいない。いつかいずれ、腕が壁にはまるような時がきたらどうしよう。
『おや? けいさつ?』
 ぽんぽんと思いついたものを訊ねてみる。左手との会話は、言葉に悩まなくていいから心地よい。警察が来て、例えば壁を壊して左腕を抜くことになったら、和琴の部屋の壁も壊れてしまうのだろうか。
『親遠いから。警察は、この状況を説明したくない。腕がハマって、動けなくて、餓え死にしそうで、なによりトイレにもいけません』
 和琴は笑った。笑ったり泣いたりは、なんとなく左手にも伝わるようで、左手はからかうように和琴の顎をしゃくった。素直な和琴は、為されるがままに身を委ねる。左手に触れられるのは、心地いいのだ。
『ネイルサロンの、店員に電話しようと思う』
『なんで?』
『名刺もらったんだ。携帯の番号、その人しか知らない』
 和琴の店でも、また指名をもらうために担当したお客さんには名刺を渡す。でも、携帯の番号なんて乗せない。書き込むとしたら、あくまで先輩の話を盗み聞きした話で和琴自身思いもしなかったことだけど、そのお客さんにプライベートに気があるときだ。
 今は親指だけになってしまった、美しい五枚の彼岸花。これを描いたネイリストさんが、和琴の心の師匠が、もしかしてこの左手に興味があったのだろうか。自分に自信がなくて、逃げてばかりで、友達もいなくて、死にたがり。和琴にそっくりの、この左手を好きになったのだろうか。
 ……可笑しい。
『何笑ってるの?』
 我知らず、肩を震わせていたらしい。頬をつねる左手を払って、なんでもない、と和琴は口で返事をした。
『かけたの?』
『さっき一度、でもつながる前にすぐ切った。そういえばまだ仕事中の時間だと思って。君や僕と違って』
 言ってくれる。でも一緒にされるのは、ちょっと違うはずだ。
 和琴は左手とは違って、ニートではない。サボりだ。悪質なのは、どっちだろう。
『夜に掛けなおすよ』
 そうすると、もしかしてこのゆっくりとたゆたうような左手との二人の時間は、今日の夜までかもしれない、ということだろうか。
 四枚のネイルに下手な花の絵が描かれ、親指のネイルだけ美しい花火のような彼岸花の咲く、長い指の白い大きな手。
 和琴は左手を、そっと両手で包み込む。耳に当てて、脈を聞く。
「……誰か来た」
 血脈の向こうに、微かに人の声が混じった気がした。



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