左手記念日
6
三日目。
壁際で、目を覚ます。星空のカーテンを透けてくる朝陽が、ぼんやり空気に溶けて部屋の暗がりを薄めてしまう。
頭痛は、少し。あまり酷くないのは、今日はもともと諦めているからだった。
まだ七時台。いつも一番に出勤する店長にしても、店に来るまでまだ三十分以上ある。
和琴はリコリスに電話をかけた。
「今日もお休みさせてください。休み明けには、必ず出ます」
留守電に吹き込む。用を済ますと、携帯電話の電源を切った。誰とも話したくなかった。やることをやると、今日も頭痛は完全に消えた。
三日連続のサボりだ。
明日は月曜日、リコリスの定休日だ。明後日には、さすがに気持ちも回復している、はずだと思う。……無理をしてでも、さすがに出よう。
緩い決意をこねくりながら、和琴は綺麗な左手をいじくる。撫でられるとわかるやきゅっと固まる小犬のように、ネイルを始めると感づくや、左手は動かなくなる。その様子が、滑稽で愛らしい。
道具は出したままだった。せっかく店を休んだのだけれど。そうまで期待されたら、仕事をしないわけにもいかないだろう。
今日のアロマは、勿忘草をコンセプトにした、少し高い香水をセットしてみた。もともと穏やかな香りの上、やや薄めすぎたらしく、意識しないと甘い匂いを掴まえられない。
でも、これでいい気がする。この香りが、今日という日に一番ふさわしい。漠然と、予感がした。
和琴はなんとなしにしんみりした心を、切り替える。
よくわからない感傷に浸っている暇はないのだ。指は、あと二本しかない。
定位置に潜り込み、少し気を大きくしながら、除光液のビンを開ける。小指の彼岸花を、除光液を浸した脱脂綿で拭い落とす。
綺麗な花を消してしまうこの作業は、芸術品を壊しているようで酷く申し訳なく、同時に不思議な恍惚とした気分を和琴に与えてくれる。
ベースコートを塗り、待ち時間じっと固まっている左手の甲に、和琴は文字を書いた。
『つまんないよ』
別に伝わらなくてもよかった。質問に答えないのは感じが悪いな、そう思っただけで、話したいわけじゃない。
だから漢字を交えて、指で綴る。昨夜左手が訊ねた、和琴が手首に傷をつけた、どうして、の答。
『高三のときに切ったの。私親が離婚して母親がいなくて、ネイリストになる夢があったんだけど、専門学校に行くの父親に反対されて、私はこんなに弱いのに、こんなに不幸だなんてひどい、ムリだって思ったの』
一文字一文字、手の甲にゆっくりと書いた。左手は聞き入るように、宙に浮くきつそうな体勢のまま、じっと固まっている。
『わかった?』
訊くと、左手は頷いた。たぶん、嘘だと思った。ただステレオタイプな話だし、左手は三日間ずっとこうして和琴と話しているのだから、もしかして通じてしまったのかもしれない。
左手は床をまさぐり、ペンを探し、手帳を見つけて、文字を書く。ずいぶん手馴れてしまったものだ。
『つらかったね』
和琴は苦笑した。他人のキズに触れておいて、なんてひどいコメントだろう。
『今のほうがつらいなあ』
だけど、手首を切ろうとは思わない。せいぜいお店に行けなくなったりするだけだ。弱くて、役立たずで、誰にも必要とされない自分がいても、それで消えてしまうことは、きっともうない。
和琴は乾いた左手の小指に、彼岸花の絵を描いた。
親指のお手本は見ない。見なくても、藍色の夜闇に咲く赤い花火のような彼岸花は、夢に見るほどまぶたの裏に焼きついている。
無心で花を描き上げた。久しぶりの感覚だった。喉の渇きに、不意に気付いた。
小指に咲いた彼岸花は、人差し指よりも中指よりも薬指よりも綺麗だった。自分でも驚くくらいの、会心の出来だ。花に、命を吹き込めた。そう思えたのは、初めてだ。
動悸が高まるのを自覚しながら、和琴は親指のネイルに目を遣った。
彼岸花が咲いていた。
五本並べたら、和琴の会心の出来と思えた小指のネイルは、中指と薬指と同じ、薄い平板な花の絵だった。自棄になってストーンを貼り付けた、人差し指とも変わらない。
親指の花だけが、女王よろしく、圧倒的な存在感を放っていた。
『仕事、辞めようかな』
『こんなに素敵なマニキュアを描けるのに?』
『見えてないくせに』
『見えなくてもわかるよ』
なんて調子のいい左手だろう。
適当すぎる慰めに、和琴はさすがに腹が立った。
『私の絵なんて、ラクガキみたいなんだから。平板で、雑で、自信がなくて、同じ藍の背景と赤の花なのに、色までくすんで見える!』
和琴は感情の赴くままに、白い左腕に書き殴った。
左手は辛抱強く聞いていた。しかし和琴が書き終わって、数瞬考えるように固まった後、描いたばかりの小指をくるくる回して、読み取れなかったと白状した。
くるくる回る彼岸花を見ても、それなりに上手に見えた。構図に不安定さはない、筆に揺らぎはない、火花のような細い花びらの一枚一枚まで丁寧だ。
ただ揺れる小指を見ても、もうあの魂を吸い取られてしまうような酩酊を感じない。和琴の描いた彼岸花と、今は隠れている親指のあの美しい彼岸花では、比べることすら虚しくなる。
『私、あなたのネイルのすごくきれいな花の絵を四枚消して、子どものラクガキみたいな絵を四枚かいたの』
長い文章。今度は一文字一文字、ゆっくりと丁寧に書いた。
通じただろうか。
スケジュール帳の、バレンタインデー、と印字されたマスにペン先を突きたてたまま、左手は数秒固まっていた。
やがて左手は、一画一画丁寧に、言葉を探るように文字を書いた。
『君の描いてくれた爪は見えないのだけれど、僕の中ではどんな絵よりも、本物の花よりも綺麗な彼岸花が見えているんだ。腕がそっちに行っちゃって、ずっとベッドに寝たきりだから、君の描いた絵をずっと思い描いている。とても言葉にならないくらい、綺麗なマニキュアだよ』
和琴は、肩に巻かれた腕を外して、身体を倒して床に寝転がった。
申し訳なかった。
師匠の描いた、魔法のように美しい、芸術的な彼岸花を消してしまったのが申し訳なかった。そこに、比べるとラクガキのような、稚拙でへたくそな自分のマニキュアを施したのが申し訳なかった。
見えないことをいいことに、左手に期待を抱かせ、その期待を完膚なきまでに裏切っている現状が、申し訳なかった。和琴の描いた彼岸花は、まるで、欠片も、綺麗ではない。
ひさしぶりに、死にたくなった。
しばらく、転がっていた。カーテンの星空を見上げていた。
お腹が空いた、と思った。昨日の昼に最後の食パンを齧って、食糧が切れた。それからずっと、何も食べていない。補給のあても、まるでない。
和琴は起き上がった。
相手にしてもらえない左手は、ぐったりと垂れ下がっている。
スケジュール帳を見る。左手が自分で捲ったらしい、真っ白な三月。一週目。
『君にマニキュアを塗ってもらっている時間、あれほど幸福な時を、僕は知りません。君のマニキュアは、どんな上手なネイリストよりも素敵です』
涙が零れた。
誰もいないから構わない。左手はいるが、左手には目がないから、見られる心配はない。左手には耳もないから、和琴は構わず、隣の部屋に響かないよう小さく声も漏らした。
『もしかして泣いてる?』
泣いてなんか、いない。
『おなかすいたよ』
涙を拭った濡れた指で、和琴は無神経な左手の、白い手の甲に文字を書いた。