左手記念日

 5


 
 一日休んだ次の日も、朝起きると頭が痛かった。
 どうしよう。頭が痛い。どうしようもなく痛い。
 左手と指を絡めながら迷っているうちに、九時になった。『リコリス』の始業時間だ。自棄になっている。止めてくれる人が誰もいないから、刃物にだけは近づかないようにしなくてはならない。
 冷静なのか危険なのか、我ながらよくわからない精神状態で、左手を床まで引っ張り下ろす。重力で血が落ちて、左手の甲の青い血管が浮き上がった。作り物のように綺麗な手が、やっと有機的に、少しグロテスクになる。
 携帯電話が鳴った。左手を床に放置して、携帯電話の着信画面を見ると、お店からだった。無意識に通話ボタンを押して、初めて焦った。
「すみません、連絡もせず。はい。今朝も頭は痛いんですけど、精神的なものかもしれないので、午後から出ます。いえ、はい……」
 店長は、今日も休みなさい、と言った。和琴が言い募ると、不安定な状態でできる仕事じゃないからね、とやんわり叱られた。
 気が抜けた。結構、社会人としてまずい状態かもしれない。もともと乏しかった信頼が、これできっとマイナス圏まで失墜した。
 その割に焦りがない。空っぽの風船だ。手首に小さく傷をつければ、空気が抜けて萎んで消える。
 和琴は左手を拾って、中指を撫でた。左手が固まる。餌をもらうことを覚えた、小犬みたいだ。ネイルを塗ってもらえると思っている。お望みなら、塗ってあげようではないか。
 道具を取ってこようと手を離すと、逆に腕を掴まえられた。引っ張り屈まされ、頭に手を当てられる。
――頭痛、大丈夫?
 声がするわけはないのだけれど、そんなようなことを心配してくれているのがわかった。
 頭の乗せられた手を取って、甲に軽くキスして、放り捨てる。
 加湿器の今日のオイルは、ペパーミントの香りだ。頭をすっきりさせて、今日は集中して描こうと想う。
 結局その日も、中指と薬指に描かれた和琴の彼岸花は、消してしまった彼岸花と比べて、酷く稚拙な出来だった。それでも、中指は人差し指よりマシだったし、薬指は中指よりは良い気がした。
 進歩してるもの。そう言い聞かせて、和琴は自分を慰める。
 午後になると、日がななにもやることもなくなって、八月、九月、十月、十一月、十二月と、スケジュール帳はほぼ半年分、他愛無いやり取りで埋まってしまった。
 なんと左手には本体があって、本体は現在左腕が壁にはまってしまって、ベッドから身動きが取れない状態らしい。しかも和琴の側に腕を伸ばそうとしたら肩まではまって、はまったはいいが抜けなくなって、ずっと壁に体をくっつける体勢を強いられ、窮屈らしい。
 寝たきりニートだ、と危機意識のない調子で嘆くもので、和琴は思わず笑ってしまった。散々説明させた挙句、和琴は笑ったことを伝えるため、左手に、笑、と怠けて一文字だけを書いてやる。
 左手の書いた『今日』の日付は、和琴の世界と同じだった。年号は、和琴のスケジュール帳の表紙の数字より、三年先の年だった。左手は、和琴のちょうど三年後の世界にいるらしい。
 未来から伸びた左手。未来のことを知るのは怖かったから、和琴はあまり詮索しなかった。だから嘘かもしれない。だけど和琴は信じた。なにせ左手は、壁から生えてきているのだ。不思議が一つ二つ増えたところで、いまさらだと思うのだ。
 一人暮らしの住まいを聞くと、スケジュール帳に書かれたアパートの住所が、和琴の部屋のすぐ近くで驚いた。こんなマイナーな、地元の半径百メートルくらいの住人しか知らないようなアパート名を書く以上、これは本当だと思う。
 和琴は教えなかった。名前も秘密にした。うら若き乙女の一人暮らし、そうそう得体の知れない左手を相手に、無防備にするわけにはいかないと思う。
 実際のところ、筆談の方式からして、左手が和琴に言葉を伝えるのは易しく、和琴が左手に伝えるのは難しい。必然左手が話し手を担って、和琴はほとんど聞き側だった。
 話すのが苦手な和琴にとって、この役割分担は心地よかった。話しているとなんとなく、左手も本来どちらかといえば聞き手側の性格なんじゃないかな、と思ったりする。不用意なことを言わないよう和琴を気遣ってくれるのがわかるし、しょっちゅう言葉を探して筆が止まる。その上で、一生懸命饒舌になってくれる左手を、優しい手だなあ、と和琴は思ったりするのだ。
『そろそろ寝ようか』
 壁際で目を覚まし、加湿器のスイッチを入れて、綺麗なネイルに花を描いて、気の向いたときに食パンを齧って、紅茶など淹れてみて、ずっと左手と筆談をしていた。そして眠たくなって、左手と手を繋いで壁際で眠ってしまおうとしている。
 自堕落で、至福の時間が過ぎていった。
『どうして手首を切ったの』
 スケジュール帳のクリスマスの週に、左手はそんな味気ないことを書いた。
 壁から生えて以来、初めての不躾な問いだった。
 自己紹介をした夜、左手の手首の傷を見て、おそろい、と書いた。その時は返事をくれなかったものだから、伝わっていないものと思っていた。
『おやすみ』
 答は夢の中で考えようと思う。
 左手も書き募ることなく、おやすみなさい、と返してくれた。



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