左手記念日

 2


 白い腕には、意思があるようだった。壁の向こうに本体があるのだろうか。そう思って、念のためカーテンの裏に潜って窓の外を覗いてみた。ガラスの向こうは、どんよりとした春先の曇り空が垂れ込めていて、二階からマンションの狭い裏庭を見下ろしても誰もいない。綺麗な手をした男の人がぶら下がっている様子はなかった。
 白い手は、状況をよく分かっていないようだった。ふらふら和琴の気配をまさぐったり、ぐにゃぐにゃ脈絡なく動いたり、終いには諦めたのか指で狐の形を作ったりしている。和琴とて、いくら綺麗なマニキュアだといっても、冷静になると気味が悪い。そうおいそれとも、さわれない。
 突然腕が、ぐいっと伸びた。二の腕くらいまでしか生えていなかった白い腕が、肩の付け根まで現れた。可動域が広くなった腕で、さらにしばし、腕はぐるぐる宙を彷徨う。床に手を当て、星空のカーテンのひだを摘み、それでも和琴の捕まらないことを悟ると、しゅんとしょげたようにうなだれた。
 その後、腕はしばらく、一人悶々ともがいていた。動きは少ないが、筋肉や盛り上がったり青い血管が浮き出たりしている。伸びてみたはいいが、抜けなくなったのかもしれない。
 腕は、苦しそうだった。
 やがて力尽きた様子の白い手は、ネイルに彼岸花の咲く長い人差し指で、空気に何か字を書いた。
 和琴はじっと目を凝らす。指は同じ言葉を、何度も繰り返し書いているようだ。
 コ。ン。ニ。チ。……ワ。
 解った。
 和琴は手に掴まらないよう横に回りこみ、ためらい傷の走る手首を掴んで動かないよう固定する。青い血管の走る、色白の細い腕に、和琴も指で字を書いた。
 コンニチワ。
 壁から生えた手が固まり、何か考えている。もう一度書いてみる。コンニチワ。
 五本の長い指を反らして、掌は大きなパーを作った。彼岸花の咲くネイルが五枚、ぱっと和琴の目の前に広がった。伝わったらしい。ちょっと迫力で、綺麗だった。
 よく見ると、人差し指のネイルだけ、ほんの少し欠けている。しかしそんな不完全さすら、美しい、なんて思ってしまう。
 マッテ。ペンヲトッテクル。
 さらさら書いてしまったから、たぶん伝わっていないだろう。所在無げな様子がどうも不憫に感じられ、和琴は白い手にミルクティーのペットボトルを預けた。自分の行為ながら、訳がわからない。それでも彼岸花を揺らす五本の指は、しっかりとペットボトルを握り締めている。
 腕を放置して、和琴はベッドに投げ出していたバッグをまさぐる。あった。お店のボールペンを、一本くすねているのだ。適当な用紙はない。仕方なく、スケジュール帳を使うことにした。
 まだ一ヶ月しか使っていない。書き込んだ予定は、ハートマーク付きの『初めてのお客さん』という昨日の予定だけで、それを思うと少し胸が締め付けられる。
 案外、吹っ切るために、正しい使い方かもしれない。少しうきうきしてきた。
 気配を悟られないよう、忍び足でそっと腕の横に座り込んだ。ペットボトルを握ったままじっとしている腕が間抜けだ。せっかくの芸術的な彼岸花まで、安っぽく見えていけない。
 和琴はわざといきなり、ペットボトルを奪い取ろうとする。腕はびくっと硬直し、反射的にペットボトルを強く握り締めて抵抗した。すぐに思い直したらしく、握り締めた指を解く。
 和琴は返してもらったミルクティーのペットボトルの蓋を開け、一口含んで唇を湿らせる。わずかな待ち時間に、腕がまた所在無げにしている、ような気がする。
 和琴は長い指に『ネイルサロン・リコリス』のロゴの入ったボールペンを絡ませる。為されるがままになる手を、正しいペンの持ち方にセットしてあげた。ボールペンにプリントされた彼岸花のアニメ絵より、長い指先に描かれたマニキュアのほうが百倍綺麗で、うっとりする。
 握り方を矯正されて、手も握らされたものがペンだと気付いたらしい。手首を掴んで、床に開いたスケジュール帳へ誘導する。真っ白な五月のカレンダーの見開きだ。
 おずおずと、手は文字を書いた。
 書き慣れない、カクカクとした字だ。まるで左手で描いた字みたい、和琴はそう思って、壁から生えているのがそういえば左手なことに気がついた。
 五月三日から六日まで、和琴の社会人初のゴールデンウィークの予定は、
『はじめまして』
 になった。
 無性にうれしい。和琴は声に出して呟いた。
「はじめまして」
 壁に生えた左手は、無反応だ。そういえば、左手には耳がない。目もない。
「今日すごく嫌なことがあって落ち込んだんです。明日、お店サボろうと思います」
 和琴は安心して、彼岸花のマニキュアの左手に向けて、弱音を紡いだ。
 返事がわからないことに業を煮やしたのか、左手がまた動く。
『あなたは誰ですか?』
 五月の三週目も、予定が入ってしまった。
「私は、壁から突き出る生腕と語らう変な子です」
 聞かれないのをいいことに、心の呟きも声に乗せる。
 和琴は左手にペンを握らせたまま、手首を取って文字を書く。
『きれいなてですね』
『ありがとう。顔はブサイクですよ』
 和琴はくすりと笑った。相手が見えないから、気軽に笑える。和琴もこんな風に器用に冗談を話せたら、もっとお店でもうまくやっていけるだろうに。
 左手に羨んでも詮無いことだ。そもそもこの二の腕の先に、肩があって頭があって顔があるのだろうか。想像すると、ちょっと怖い。
『あなたのネイル、とてもすてきです』
『僕の、何?』
『つめ。すてき』
 通じて、左手は少し戸惑ったようだった。しばし、筆談が止まる。
『ありがとう』
 不慣れな左手の、カクカクとしたほんの五文字に、面映さと隠しきれないうれしさが溢れている。
『いいな』
 こんな綺麗な花を描いて、お客さんにこんな風に喜んでもらいたかった。
 どんな人が描いたのだろう。このネイルを描けるネイリストさんは幸せだろうな。
 加湿器から漂うラベンダーの香りが、そろそろ部屋を満たしてきた。左手には鼻もないから、きっとこのリラクゼーションスメルは味わえまい。
 ネイルに彼岸花の咲く長い指に、和琴は自分の短い指を絡ませる。左手の抵抗はない。
 和琴は憧れとほのかな嫉妬を混ぜ合わせた思いを、ほんのり蒸気に湿った空気に浮かべた。



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