左手記念日
3
結局何もやる気がせず、和琴は左手と手を繋いだまま、眠ってしまった。
星空のカーテンの向こうに、朝日が照りつけているのを感じる。
長い鮮明な夢を見ていたつもりだった。だが和琴が違和感の残ったままの自分の右手を見やると、夢のままペンを握り締めた左手と繋がっていた。
『もしもし』『どうしたの?』『おやすみなさい』
開きっぱなしの五月のスケジュールには、三件の不在メッセージが書き込まれていた。悪いことをしたなあ、と思う。
ペンも和琴の手も離さないでいてくれた綺麗な左手。和琴は繋いだ手をほどくと、青い血管の浮き出る左手の甲を撫でて、朝の挨拶をする。
「おはよう。昨日はごめんなさい」
『おはようございます。雨ですね』
口にした和琴の言葉に、左手の筆談は、割と噛み合った。心は通じ合っているかもしれない。
ただ背中の、カーテン越しの日差しの気配を感じる限り、今朝は晴れている。
朝が来た。仕事に行かなければいけない。頭が痛い。
『しごといかなきゃ』
『がんばってください』
五月最終週の予定。がんばること。
左手が、ちょっとしゅんとした気がする。置いていかれるのが寂しいのかも、そんな風に解釈してみて、和琴は少しうれしくなった。
一人暮らしを始めてから、和琴はすっかり必要のない人間になっていた。アパートの部屋には誰もいないし、リコリスの和琴は、役立たずだった。
もう少しここにいたい。石膏像のような綺麗な左手の先に描かれた、理想の彼岸花のマニキュアを見ていたい。
『あたまがいたい』
真っ白な六月のスケジュールを開く。左手に手を添え、六月最初の予定に、弱音を吐いてみる。
『大丈夫?』
『ん』
『yes?』
『うん』
短くするために、『ん』の一文字に省略したのに、訊き返されたせいで、結局『ん』を一つ余計に書いてしまったではないか。右下がりの少し可愛らしいローマ字を見ながら、和琴は不機嫌になってみる。
『仕事、休んだら?』
『うーん』
『yes?』
『ううん』
左手の動きが止まった。甘えすぎた。怒ってしまったかもしれない。優しすぎるからいけないんだ。
和琴は焦った。消化しきれず、和琴の中で変な怒りが生成される。
ごめん。ばか。どっちを書こうか迷っていると、左手が先に動いた。
『……うんこ』
呆気に取られた。
申し訳ない気持ちも、変な怒りも、全部撤回だった。笑みを零したのは、少し面白かったとか心許したとかではない。レベルの低いオチに呆れたからの、純粋な苦笑だ。
頭痛は消えない。とても、立ち上がる気にはなれない。
出勤は午後からにしよう、どうせ和琴なんて、いてもいなくても変わらない。
携帯から、和琴はリコリスに電話を入れた。店長が出た。ネイルのことはあまりわかっていない、男のオーナー店長だった。
「……いえ。大丈夫です……はい」
携帯を切る。和琴は、文字通り手持ち無沙汰の様子だった腕の中に滑り込んだ。左手は、驚いて硬直している。掌を向ける左手の手首に、古いためらい傷の跡がある。
和琴は、そっと傷跡に人差し指を這わせた。左手は和琴の真意を窺うように、おそらくくすぐったさに耐えながら、じっとしている。
『おそろい』
開いた掌に、和琴は書いた。
だから、和琴は夏でも長袖しか着られない。おしゃれは嫌いだった。
和琴は腕を引っ張って、白い腕を首に掛ける。細い綺麗な腕だったが、男の人の腕で、骨は太くて硬かった。壁に挟まれると、圧迫感を感じた。
『しめころして』
腕に書く。
左手は、掌を返した。傷跡を、見せたくないようだった。
和琴の願いは叶えてもらえず、首は解放されてしまう。
左手は少し宙をさ迷い、和琴の腕に触れ、そして恐る恐る、そっと和琴の肩を抱いた。
何か言いたそう。そう思って和琴は、肩を抱く手にペンを渡し、自分の腕に手帳を開いた。
『細いね』
間の抜けた一言感想。気が抜けて、涙が溢れた。
「……店長、今日は来なくていいって。大丈夫って言っても、気持ちが落ち着くまで休みなさいって」
堰き止め切れない言葉が出た。左手には聞こえないから、独り言だ。
嗚咽は左手にもばれてしまったらしい。おずおずと、和琴の肩を撫でてくれた。綺麗な彼岸花の咲くネイルが、頬を伝う涙を掬ってくれた。