周瑜嬢

4、お兄ちゃんベスにも分けて(by孫権)

 孫家には四男一女がいる。周瑜を除いても、父母合わせて七人の大家族であった。
 しかも男の子が四人、紅一点の尚香にしても、上の四兄弟を圧倒するような男勝りのお転婆であったから、朝の光景はまさに戦場であった。長男策、三男翊、長女尚香は武闘派である。力づくで人より多くの枚数の、小麦粉を練って焼いて膨らませた甘い円盤状の麺麭を奪い取ろうと争った。力と闘争心で劣る次男権、四男匡は、別の方法で朝の糧を得なければならない。
「お兄ちゃん、ベスにもホットケーキ分けて」
 薄手の白い上衣を着て、胸に厚手の赤い紐飾りを結び、下は紺色のひらひらを穿いた孫権が、両拳を胸の前に合わせ上目遣いで孫策を見上げ、媚を作って兄に頼んでいる。視線すら向けずに、策は金髪碧眼の女の子の姿の弟を裏拳で殴った。
 孫匡は一人喧騒から逃れ、台所で四角い乾いた麺麭を齧っている。武略策謀が駆使される兄弟の戦いに参戦する気にはなれず、周瑜は匡と相伴に預かった。尚香と同じくらいだというのに、上の三人の兄たちよりもはるかに落ち着いた様子の末弟は、乾いた麺麭に果物の煮込みを塗りつけて周瑜にも渡してくれた。
「これは『食パン』、今塗ったのが『イチゴジャム』。兄さんたちが取り合ってるのが母さん特製の『ホットケーキ』。策兄さんが着てるのは『高校』の制服、紅東学園の高等部は『ブレザー』なんだ、権兄さんは『中学校』の『セーラー服』を着てるんだ、外で会ったら兄さんって呼んでいいのか困っちゃうんだよね、赤い『リボン』は可愛いと思うけど。僕と尚香は小学生だから制服はないんだ。でも『ランドセル』って格好悪いから、早く中学生になりたいな。うん、そう、この箱がランドセル。男は黒で、女の子は赤いランドセルを使うんだ」
「みんな学校に行くんだね」
「うん、楽しいよ!」
 見慣れないものばかりの世界の光景を、周瑜は一つ一つ匡に質問した。照れたようにはにかみながら、匡は一つ一つ丁寧に答えてくれる。
 孫匡は孫家の兄弟の中では大人しい目立たない子であったが、一番良い子であった。戦乱の世では、いつも居心地が悪そうに軍議の末席に座っていた。しかし法が行き届き、穏やかに見えるこの世界にあって、匡は楽しそうに笑っている。
 やがて兄妹たちの母である、呉夫人が現れて、匡を除く全員に張り手を見舞って回った。我関せずに涼しい顔で『コーヒー』なる漆黒の汁を啜っていた孫堅も、兄妹の諍いを止めなかったとの咎で、一際強烈な平手打ちを受けていた。
「ごめんなさいね、うるさくて、男の子が五人もいるとどうしても、ね。あたしずっと娘が欲しかったのよ、ユキちゃんがきてくれて本当にうれしいの。自分の家だと思って、くつろいでちょうだいね」
 台所に戻ってきた呉夫人は、周瑜たちの机にもホットケーキを持ってきてくれて、優しい言葉を掛けてくれた。
「ちょっと、お母さん!」
「ベスも女の子だよ!」
 居間から長女と次男の抗議の声が聞こえる。正真の女の子であるはずの尚香が、邪魔をした権を殴っていた。
 孫家のみんなが揃っている。周瑜は平和な光景に目を細める。これからみんな、それぞれの学校に行くらしい。
「私もこの世界について勉強したい。どうすればいいだろう」
 周瑜の質問に匡は真剣に考えて、結局何も浮かばなかったらしく、申し訳なさそうに微笑んだ。
「勉強したいなんて、うちの子に訊いても無駄よ、学校にだって勉強しに行ってやしないんだから。お勉強なら、図書館に行ったらどうかしら。静かではかどるわよ」
 呉夫人は軽く匡の頭を突っつき、そう言った。図書館、なんでも本がたくさんある場所らしい。
 匡にもらった食パンでお腹はいっぱいであったが、周瑜は呉夫人の持ってきてくれたホットケーキを一片切って口にする。甘くてとても美味しかった。


 周瑜は呉夫人に赤い腕時計をもらった。円盤に見慣れぬ文字が記されて、三本の針が勝手に動いている。文字は数を表し、天竺よりさらに遥か西域の、アラビアという地の数字らしい。時を刻む不思議な宝具である。こんな高価な物を、と周瑜は恐縮したが、千円の安物よ、と呉夫人はこともなげに笑って腕時計を周瑜に押し付けてしまった。
 『円』という単位の価値が分からない、しかし西域の神通力を込めた宝具である。安いはずがないだろう。
 時計の読み方は匡が教えてくれた。七時半を廻ると、孫家に静寂が訪れた。
 孫堅は仕事に、策は高校、権と翊は中学に、匡と尚香は小学校にそれぞれ出かけていったのである。まるで嵐が過ぎ去ったようである。
 図書館は九時に開くらしい。短針が円盤の十二を過ぎ、夕方の五時を指すまでには必ず帰るよう呉夫人に念入りに言い含められる。
 短針が九に近づくまで、周瑜は呉夫人の洗い物を手伝ったりなどして過ごした。娘ができたようと、呉夫人は重ねて大げさに喜んだ。小娘扱いはこそばゆかったが、呉夫人は周瑜にとっても母親のような存在である。向こうの世界にあっても、策や権と同じように、周瑜にも実の息子のように接してくれた。こんな風に喜んでもらうことは、この世界、この姿でしかできぬことで、複雑な思いを抱えながらも周瑜は素直に嬉しく思った。
 腕時計の、緩やかに動く方の長針が、円盤の九を指す。短針は、目盛り一つ分と少し、まだ九には届いていない。待ちきれず、周瑜はもう出かけたいと呉夫人に申し出た。
 呉夫人は快く外出を許してくれたが、そのまま出ようとすると、着替えて行くよう呼び止められた。
 尚香のくれた芙蓉の刺繍のチャイナ服は、なるほど狩衣としても礼服としても適っていたが、学問を修めるには上手くない。
「お洋服、買ってあげなきゃならないわね。権の服ならサイズも合うんでしょうけど、あの子の趣味はちょっと子供っぽいっていうか、普通の神経で外を出歩けるようなものじゃないから。今日は策のお古を着ていきなさい」
 呉夫人が用意してくれたのは、やや褪せた青色の丈夫そうな綿布の下裾着と、竜虎の派手な絵図の入った袖の短い薄い麻衣、その上に黒い牛革の上着を羽織らせてくれる。おどおどしていると、ジーンズ、ティーシャツ、革ジャン、と呉夫人はいちいち説明しながら着せ付けてくれた。ほとんど人形になった思いである。
「ごめんなさいね、これじゃまるで男の子だわ。それにしても呆れた、トランクスを穿かされてるのね」
 為されるがままになっているうちに、下着も見られてしまった。周瑜は呉夫人の顔を見られず、俯いて頬を暑くしてしまう。
「下着とか一通り、必要ね。今度買いに行きましょうね」
「でも、今日は、図書館に行きたいです」
 知りたいことがいっぱいあるのだ。下着なんて、全然後回しで構わない。腕時計は、すでに短針が九の数字を行過ぎている。
「わかったわ、じゃあ図書館がお休みの、日曜日にでも行きましょうね。待ってなさい、図書館までの地図を描いてあげるから」
 呉夫人は苦笑を零して、そう言ってくれた。何から何まで面倒見られて、さらにわがままを言ってしまった気分である。
 呉夫人は、何かが印刷された黄色い紙の裏側に、黒鉛の細い芯を木筒で固めた筆で、さらさらと図書館までの地図を記してくれた。広告の裏紙、そして鉛筆という物らしい。原理はわかるが、こんなものをどうやって製造するのだろう。この世界は恐ろしく技術が進んでいる、そんなことにもいちいち驚く。
「さ、行ってらっしゃい。気をつけるのよ」
 地図を渡され、尚香のものらしい赤い襟巻きできゅっと首に締められて、周瑜は家を送り出された。
 秋の木枯らしがひゅうと路地を吹きぬけて、外は案外冷えていた。
Copyright 2006 Makoku All rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-