周瑜嬢

5、これ一冊で全部わかるようになりましてよ(byリョーコ)

 周瑜の住むこの地は、中華の地ではなく、どこかの島国であるようだった。地図を見る限り、東夷のようである。
 しかし夷狄がこのように発達した文明を持っていたとすれば、中華はとうに侵略を受けているだろう。地図を見た限りの、ほんの確信のない推測であった。
 孫家は、三国市という場所に住んでいるようだった。市は、周瑜の世界の行政区分に照らすと県に当たるようだった。市の上にはこちらの世界では県があり、それが周瑜の世界の郡に当たる。こちらの世界では県の下に逆に郡が置かれることもあるようで、なんとも頭のこんがらがる行政区分であった。そもそもこの島国が大きな国ではないらしく、地図上でこちらの県の面積を計算すると、周瑜の世界の郡の下に置かれる県の大きさとさほど変わらない。
 さて三国市はそんな小さな県下のさらに細分化された一地方であり、その市の中でも孫家は南東の江南町に、図書館は南西の巴蜀町にあるらしい。
 地図のとおりに長江川に沿って歩き、荊町を抜けると、やがて腕時計の長針が円盤を半周するほどの時を経て、巴蜀町に行き着いた。番地案内の青い標識に、巴蜀町一丁目と書かれた場所に行き着くと、いつの間にか景色が江南町とすっかり変わってしまっていて、驚いた。江南町は長江川が氾濫を起こしそうなほどに水を湛え、稲刈りの済んだ田圃がいっぱいであったのに、巴蜀町は坂道が多く竹林があちこちに茂っていて、まるで山の中に迷い込んだような町並みだった。
 地図のとおりの場所に、市立翠蜀高校という、石造りの学舎があった。建物はあちこちにひびが走り、今にも崩れ落ちそうな、まるで廃城のような校舎である。砂地の校庭で緑色の調練服を着た生徒たちが揃って体操をしていなければ、まだこの建物が使われているとは思わないだろう。
 翠蜀高校から地図のとおり北へ少し行って、剣閣歩道橋を渡ると、果たして市立図書館に行き着いた。
 小さいながら、黄色に色づいた銀杏林の中に静かに佇む、煉瓦造りの可愛らしい建物だった。
 周瑜はすっかりうれしくなって、逸って呉夫人に借りた図書カードを握り締め、硝子の合わせ扉の前に立ち、やがて一瞬途方にくれた。どうやって入ったものだろう。悩み始めた矢先、周瑜を認識した透明な合わせ扉が勝手に左右に開いてゆき、図書館に入る道を開けてくれた。図書館の扉が生きてるなんて、物に命を吹き込む技術があるのだろうか。この世界の文明の水準の高さに、周瑜は改めて感動した。


 『孫子の兵法のビジネスにおける応用――読めばあなたも億万長者!――』。
 ビジネスとはなんだろう。後ろの副題が、理解が及ばないながらも胡散臭い。
 ただ孫子は兵法書の中でも周瑜が特に愛読しているもので、それがこの世界に応用されているとなると、非常に興味深かった。それに借りるだけなら、図書館の本は全て無料らしい。『奇貨置くべし、呂不韋流錬金術!』という本と、『管仲に見る会社経営』という本にの間、上段に並んでいるその本に、周瑜は胸ときめく思いで手を伸ばす――と、同じく伸ばされた誰かの大きな手とぶつかった。
「あ、すみません」
 白い手に、周瑜は謝った。大きな手だが、指が女性のように細くて長い。見やると葦草のようにすらりと背の高い、美しい女性が立っていた。
「いいえ、こちらこそ」
 女の人は、なんとなく孫権の趣味と重なるようなひらひらの服装をしていた。白の上下続きの一衣のスカート姿のその人は、白い羽根の絵柄を描いた扇を開き、優雅に口許を隠している。扇の上から覗く知的な双眸は、優しげに細められて周瑜を見ている。扇が芳しい匂いを振りまいていて、周瑜はうっとりしてしまった。
「管仲が欲しいのかしら?」
「いえ、孫子を取ろうとしたのです」
「あら、じゃあ重なるわけじゃないのね。でもあたくし、孫子よりも管仲の方が偉大だと思いましてよ」
 女の人の知的な瞳が、挑戦的にきらりと光った。論客の視線を、周瑜が受け流せるはずもない。
「おもしろいですね。管仲は所詮政治屋です。詭弁で戦は勝てません」
「国家の政治を考慮に入れない戦争なんて、猪が軍師でも務まりますよ。どうです、読書はあとにしてお話しません?」
 この世界に来て、誰かと孫子や管仲の話ができる。少しだけ自分の世界に近づいた気がして、わくわくした。
 これから論戦を交わそうというのに、どきどきして嬉しくて、笑みが表情に浮かんでしまうのを抑えられない。両手で頬を抑えて力づくで表情を正し、周瑜は一も二もなく頷いた。
「あなた、お名前は」
「周瑜。周瑜です!」
「まあ、じゃあユーコさんって呼ぶわね。あたくしのことはリョーコと呼んで。お話しても怒られない、カンファレンス席があるのよ。そこに行きましょう」
 孫策ばりに勝手に周瑜の呼び名を決めて、リョーコは周瑜に手を差し伸べた。素直に周瑜が手を出すと、リョーコはにっこり笑って、指の長い大きな掌で手を握る。ふわりと優雅に強引に、リョーコは周瑜を引っ張った。

 論戦は、おそらく周瑜の負けだった。判定する第三者がおらず、周瑜としても今日はうまく口が回らなかったとはいえ、決して孫子が管仲に劣ることを認めたわけではないため、弁士として無条件に敗北だなんて言う気はない。周瑜は負けず嫌いなのだ。しかしリョーコの話は論理立っていて、知識も深く、リョーコなりの新たな展開も見せつけられた。それに対して周瑜は、舞い上がってほんの少し感情的な論を展開してしまったように思う。
 周瑜が劣勢になったところで、リョーコはさりげなく論戦をやめて、周瑜の身の上を訊ねた。リョーコは頭が良い上に、周瑜の心を案ずる優しさと余裕もあるのである。こちらの世界にはこんなすごい人もいるのかと、周瑜はリョーコを、憧れのような感情を持って見てしまう。
 記憶喪失だと告げると、リョーコは気の毒そうに美しい顔を曇らせた。そんな表情をされると、嘘をついてしまった自分に周瑜は酷く罪悪感を感じてしまう。自分は本当は別の世界から来て、三十六歳の男で、呉の都督として戦っている最中だった。そんなことを、この世界の、それも図書館で会っただけの女の人に打ち明けるわけにもいかないのである。
 それでもリョーコは、親身に真剣に、色々な相談に乗ってくれた。
 記憶を失って、外来の言葉がわからないものが多いと悩みを話すと、リョーコは立ち上がり、分厚い辞書を持って帰ってきた。英和辞典と題がある。
 英国という、天竺もアラビアもさらに越え、西の最果ての海に浮かぶ国があるらしい。この世界ではその英国が、世界を統べていた時代があったらしく、周瑜とリョーコがいるこの国も、英国発祥の文化が非常に多く流入しているとのことである。周瑜の悩みの種である外来語も、ほとんどはその英国の言葉らしい。そこでこの、英国の語彙を編纂した辞書を覚えれば、外来語のほとんどを網羅することができるというのである。
「本一冊覚えるだけで、この世界の言葉がほとんどわかるようになるの!?」
 四書五経はもちろんのこと、孫子も春秋も空で言える周瑜にとってみれば、決して難しいことではない。
「ええ、ユーコさんにとっては英語の文字も読み方も文法も、初めてのことでしょうから、あたくしが少し教えてあげますわね」
 時間なんて、忘れてしまった。
 辞書のほかにも、科学やこの世界の歴史など、世界を理解するための色々な本をリョーコに薦めてもらった。
 リョーコは教えるのがとても上手で、数刻で周瑜は英語の文法と読み方を一通り理解した。語彙を増やせば、もう普通に会話もできると思う。
 気付いてみれば、腕時計の短針は、既に七時を回っていた。リョーコともっと話したい。しかし呉夫人と五時に帰ると約束したのだ。怒られてしまう。
「あの、リョーコさん! 日曜日、空いてますか?」
 立ち上がった周瑜は、思わずそんなことを口走っていた。どうしてもリョーコと、また会いたいと思ったのだ。
「よかったら、一緒に買い物に行きませんか?」
 リョーコは周瑜を見上げ、にっこり笑った。
「喜んで」
 扇をたたんで、唇に当てる。リョーコはいたずらっぽい上目遣いで周瑜を見ていた。
「あたくしも、ユーコさんとお喋りをしていてすごく楽しかったから、誘う口実を考えてましたの」

 その晩、孫家に帰ると呉夫人にこっぴどく叱られた。
 門限は五時。今後破ったら、一週間の外出禁止。厳しい法律が決められてしまった。
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