周瑜嬢

10、慣性空間の考え方なんですが(by陸遜)

 図書館の、受付の上に掛かった鳩時計が、ポルッポ、と四回鳴いた。
 呂蒙たちの学校の終業時間が午後三時らしい。学校から図書館まで、徒歩約三十分。帰りの支度など、何かと時間も掛かるであろうに、呂蒙は毎日きっかり三時二十分に図書館に到着する。息せき切らせ、顔色を蒼白にして、いつも走ってくるのである。
 生徒にそれだけ熱意があると、教える周瑜も気合いが入るというものだ。呂蒙のために、周瑜も呉夫人に頼み込んで、門限を六時に伸ばしてもらったほどだった。
「周瑜先生、ごめんなさい、遅れてしまって」
 午後四時。そんな勉強熱心な呂蒙が、今日はいつもより少し遅く来た。呂蒙のブレザーの裾を握る、かわいいオマケ付きだった。

 おかっぱ頭の、目のくりくりした子供だった。呂蒙とお揃いの臙脂色のブレザーを着ていたが、まるでちぐはぐな取り合わせに見える。まるで身だしなみの、悪い見本と良い見本を並べたみたいだった。
 おかっぱの子は、制服はパリっとしていて、少し長めにネクタイをピシっと上まで締めている。ちなみに呂蒙はというと、制服はよれよれでシャツは出しっ放し、ネクタイも大きな輪を作って首に引っかかっているだけで、襟元は第二ボタンまではだけていた。そんな二人を並べると、シャツの白さまで呂蒙はくすんで見えてしまう。
「紅東中学校、一年蓮組、陸遜です」
 呂蒙の背後から出てきた子供は、警戒心剥き出しの目で、しかししっかりとそう言った。もう半月も経とうかというのに、いまだにおどおどしている呂蒙とは、こちらも対照的だ。
「周瑜だ」
 そう応えてから、周瑜はまた、まじまじと二人を見てしまった。
 臆病な山賊の子と、しっかりしたお坊ちゃま。見れば見るほど、摩訶不思議な組み合わせだ。
「呂蒙、この国では誘拐は重罪だぞ。最近は子供でも、重い刑罰が科せられるらしいし」
 刑法二二四条、未成年者略取及び誘拐、三月以上七年以下の懲役である。周瑜はとりあえず、六法全書は通読している。司法試験くらいは受かると思う。
「近所の子です、怖いこと言わないで下さい。遜は小さいけど、ルー・ファミリーのボスですよ。手を出したら、こっちがどんな目に遭うか」
「待て、呂蒙。途中からおまえの言っていることがわからなくなった。ルー・ファミリーってなんだ?」
「え、周瑜先生知らないんですか? 江南町では有名ですよ、南京マフィアの陸家、四大ファミリーの一つ」
「呂蒙先輩! 一般人を巻き込むのは止めましょう」
 陸遜は不意に、顔と声に似合わぬ強い口調で呂蒙を遮った。ずかずかと寄ってきて、周瑜の隣の席に座りこむ。じろり、と大きな瞳が周瑜を睨む。よくわからないが、無礼を承知で無礼を行う、生意気な態度であることは確かだった。
「なんだ。足、生えてるじゃないですか。怖くもなんともない、ただの綺麗なお姉さんに見えますよ」
「呂蒙の言っていることも、君の言いたいこともさっぱりわからない。とりあえず君は、少々性格の悪い、かわいいお坊ちゃまに見えるな」
 大きな目とほんの少し睨み合って、説明を求めて呂蒙を見ると、呂蒙は泣きそうな顔になっていた。
 思わず、ため息をついてしまう。努力家なところも、頭の切れるところも、どれも周瑜の見込んだとおりだ。だが、この臆病さはなんであろう。向こうの呂蒙は、こんな男ではなかったはずだ。
「来なさい。座りなさい。宿題はやってきただろうね」
 周瑜が命令すると、呂蒙はすごすごとやってきて周瑜と陸遜の向かいに座った。呂蒙がノートを開いて周瑜に提出すると、陸遜もなにやら勉強道具をとりだして、教科書を開き始めた。

 陸遜が、トイレに立った。
 完全に陸遜が見えなくなったことを確認すると、周瑜はすかさず呂蒙の赤いネクタイを引っ掴み、引っ張り寄せた。
「おい、なんだあの子は。詳しく説明してくれ」
 呂蒙がびっくりして怯えた顔になっている。落ち着けようと、周瑜は呂蒙の頬に手を当てた。経験上、女子供は大概これで大人しくなるのだが、呂蒙は凍えたように顔面蒼白にガタガタ震えている。周瑜の手が冷たいのだろうか。それにしても大げさだ。
 陸遜は、周瑜の第一印象の通りの、ちょっと生意気な良家のお坊ちゃま、といった感じであった。ただ、天才だった。いつの間にか周瑜は、小さな陸遜と相対性理論について話していたのだ。周瑜をして、未だ六割程度しか理解の及ばぬ、この世界の難解な科学理論である。
「き、近所の子だよ……」
「泣くな、情けない。まずは大きな枠組みを取って、それから焦点を絞っていこうな。南京マフィアって、なんだ」
 呂蒙を脅しなだめすかし、周瑜は矢継ぎ早に問い詰めていった。
 呂蒙の説明によると、三国市の江南町は南京マフィアの縄張りらしい。大陸から来た犯罪集団に、江南町は支配されているというのだ。その中でも古くから江南町に根を下ろし、強大な勢力を誇る四つのファミリーがあるという。その四家というのが、朱家(ジュ・ファミリー)、張家(チャン・ファミリー)、顧家(ゴ・ファミリー)、そして陸遜の陸家(ルー・ファミリー)ということである。
「で、陸遜は何者なんだ?」
「抗争でお父さんが死んじゃって、今は陸遜がルー・ファミリーを纏めてる。まだ中一だよ、結構大したもんですよね」
「先輩、一般の人に余計なこと言うのはやめましょうね」
 気配もなく戻ってきた陸遜が、ポンと呂蒙の肩に手を置いて、声を落として呟いた。
「それで周瑜さん、さっきの続きで、慣性空間の考え方なんですが……」
「ああ、そうだったね。三次元空間の距離ならば、ピタゴラスの定理で簡単に暗算できるんだけど、四次元空間の距離となるといまいちわからないね」
 話の腰を折られてしまった周瑜であったが、本人が戻ってきてしまっては仕方がない。陸遜の言葉を引き継ぎ、周瑜が顔をしかめてそう呟くと、ノートになにやら数式を書き込んでいた呂蒙が、不意に会話に口を挟んだ。
「あの、四次元でも、この式からローレンスの変換測が導けそうな気がするんですけど……」
 驚いた。正の数、負の数の勉強をしていたと思っていた呂蒙が、なんと周瑜たちの話にしっかりついてきていたのである。
「なるほど、でも先輩、まずそもそものその式に、信頼性が足りないと思います」
 結局、陸遜の正体については、なんだかうやむやのままだ。なんとか自分で調べよう。周瑜の宿題である。
「じゃあもしかして、物体の速度にエーテルが同期するわけではない……?」
 いつの間にか、呂蒙が意味の解らないことを言っている。
「うん、慣性空間を考えるとそうなる気がするんです。ね、周瑜さん」
 ほんの少し意識を飛ばしているうちに、周瑜は陸遜と呂蒙に置いていかれてしまったようだった。つられて相槌を打つが、陸遜の言っていることもさっぱりわからない。
 仕方なく、周瑜は立ち上がった。
「呂蒙、陸遜、たまには少し早く終わりにしようか」
 周瑜はにっこり笑って、二人を黙らせた。屈辱的であるが、ここは逃げるしかない。半月前まで四則演算すら怪しかった呂蒙と、周瑜の実年齢の三分の一ほどに小さい陸遜の会話に置いていかれてしまったなんて、晒すわけにはいかないだろう。
「周瑜さん、先輩が怯えていたから、最初どんな怖い人かと思ってましたけど、全然違いました、ごめんなさい。優しくて綺麗で、すっごく賢い人ですね。僕にもまた、勉強教えてください」
 邪気のまるで欠片もない、百点満点の可愛らしい笑顔で陸遜はそう言った。そこはかとなく裏を感じてしまうのは、その才能に圧倒された自覚が周瑜にあるからだろう。
 対抗して、周瑜もにっこりと、大人の笑みを返してみせた。


「ユキ、なにしてるの」
 夕焼けに紛れ、周瑜は孫堅伯父さんの書斎にこっそりと忍び込んだ。
「なんだ、策か……」
 戸口には光に赤く染められた孫策が立っていた。周瑜が思わずほっとすると、孫策は不満そうに顔をしかめる。わかりやすい表情に、思わず笑ってしまう。
「策なら、安心だよ。信頼してる」
「まぁ告げ口なんてする趣味はないけどな。親父怒るよ。家ではアホなオッサンだけどさ、プライベートとビジネスは違う顔してるから。仕事に顔突っ込むと怖いぜ」
 だから、見つからないようにやっているのだ。権や尚香に見つかったら弱みを握られる事になるし、翊は口が軽いので信用できない。匡は秘密を守ってくれるだろうが、良い子過ぎるので周瑜が申し訳なくなってしまう。策なら、遠慮会釈なく口封じができる。
 孫堅の書斎は、とてもシンプルだった。臙脂色の絨毯を敷かれ、それなりにお金の掛かった雰囲気がある。書棚もあるが、中身は疎らであった。黒い机の上にも書類などはほとんどなく、整頓されているというより物がない。ノートパソコンが一台置いてあり、横に少し物騒な黒い物体が転がっていた。
「策、これは拳銃じゃないか」
 手に取ると、黒い物体はそれなりの質感を持っている。鉛玉を吐き出して人を殺す武器である。
 策は辺りを窺ってから書斎に入って扉を閉めると、やってきて周瑜の手から黒い物体を奪い取った。廊下からの光が塞がれ、部屋は少し薄暗くなり、赤みを増した。
「そんなわけないだろう」
 策は銃口を自分のこめかみに当て、にかっと不敵に笑った。
 周瑜は慌てた。無謀無茶無駄。策は根拠も意味もなく、命を懸けてしまう癖がある。
「策!」
 迷うことなく引き金を引いた孫策に、周瑜は思わず叫んでしまった。カチッと小さな音がした。あちっ、と孫策は顔をしかめて銃を降ろした。下げた銃口には、ちろちろと青い炎が踊っている。
「銃の形のライターだ、びっくりした。俺が死ぬと思った? かわいいな」
 腰が抜けて、うまく力が入らない。やっとの思いで、周瑜は椅子を引き寄せ腰を落とした。
「孫堅伯父さんって、何の仕事してるんだ」
「学校法人経営者。紅東学園の、平和な学園長だよ」
 周瑜に睨まれ、孫策は一瞬困った顔をして、すぐにその表情をごまかすように複雑な顔で目を逸らした。策は、顔に出るので解りやすい。つられてつい、苦笑が漏れる。
「……ユキは、どこまで知ってるんだ」
「何も。江南町が南京マフィアに牛耳られてるって聞いた。四つのファミリーとか。権の友達の、呂蒙のお義兄さんが孫堅伯父さんの部下だったり、蒋欽のお父さんが孫堅伯父さんの会社の下請けだったりするらしい。でもマフィアと孫堅伯父さんを繋げる物は何もないし、伯父さんが私立学校の立場のある人で、呂蒙や蒋欽の家の人を雇っていると言われれば、疑う材料も何もない」
 孫策は、カチカチと銃口に火をつけたり消したりして遊んでいる。何度か繰り返しているうちに、火花が散るだけになり、青い炎はつかなくなった。
「俺も似たようなもん。親父は裏の仕事のことを話さない。俺は親父の跡を継ぐ気だからそれでも気にしているけど、翊から下は本当に何も気付いていないと思う。権は、よく解らないけどな。ユキは鋭すぎる」
 周瑜は策から視線を外し、大きく息を吐いた。確かに、好奇心が過ぎた。物事には順序がある、孫堅伯父さんを信頼しているのであれば、望まれてもいないのに首を突っ込むべきではない。少なくとも、策を飛び越えて探ることではないだろう。
「策、いざという時には必ず力になる。だから、その時は私をあてにしてくれ」
 孫策は夕焼けを見つめ返し、不敵な顔で小さく笑った。
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