周瑜嬢

9、僕はちゃんと学校行きます(by呂蒙)

「ベス、なんで幽霊に話し掛けちゃうかな」
「しかもやられてやがるし」
「……は?」
 地階でりょもと欽ちゃんを見つけたベスは、本棚の陰に連れ込まれた。なぜかりょもに襟首掴んで持ち上げられ、欽ちゃんに至近距離からガンつけられている。古書を並べた本棚の間、人気のない、薄暗い行き止まり。か弱い女の子チックなベスが、乱暴な不良チックなりょもと欽ちゃんに、意味不明な因縁をつけられているのである。
 状況としてベスは叫ばなければならない、そう思った。そしてベスは思ったことを、実行した。
「キャー助けて、強姦魔ー……!」
「な、何言いやがるこの馬鹿!」
「ベスが言うと割と冗談にならないんだから、誰か来たらどうするんだよ」
 欽ちゃんに口を塞がれた。りょもに首を絞められた。りょものほうが口調はちょっと穏やかなのに、やることはいつも一段過激だった。
 ベスは呼吸ができず視界を白黒させながら、りょもの肩をタップした。降参である、放して欲しい、死ぬ。
 なんとか解放されたベスは床に女の子座りで座り込み、恨みがましく二人の悪友を睨みあげる。
「りょも嫌いだよ、確信犯的に容赦ないんだもん。で、幽霊ってなにさ、二人で勝手にどっか行っちゃってさ」
 ベスの言葉に、りょもと欽ちゃんは顔を引きつらせ、お互いを見合った。りょもなどは目に見えて、黒い顔が蒼くなっている。
「理由もないんだが、あれは幽霊だと思う、少なくともこの世のもんじゃねえ」
 クールでスマートな欽ちゃんらしくない、曖昧で意味不明の言葉だった。
「うん、とにかく背景に浮いてたもんね。なんか見ちゃいけないもの見ちゃった感じだよ、綺麗すぎるのも怖いんだね……」
 こちらもまた、ワイルドでクレバーなりょもの台詞とは思えない。しょっちゅう髯の亡霊に取り殺される夢を見るらしく、幽霊が苦手なのは知っているが、それにしても意味が分からない。怪訝な目で見上げていたベスの視線の先、なにやら怯える二人の背後、不意に人影が現れた。
「あれ、ユキお姉様」
 りょもと欽ちゃんが振り向く。人影と目が合い、二人はへなへなと崩れ落ちた。
「こーら、学校は」
 ワインレッドのセーターと、ぴったりとした真新しい黒のジーンズのユキちゃんは、朝見た時より大人っぽく見える。そしてユキちゃんは、ちょっと怖い顔をしていた。
「創立記念日……」
 と言うと、制服で家を出たところから言い訳を考えなければならなくなる。
「じゃないよ」
 ベスはにへらと、奥義誤魔化し笑いを使ったが、ユキちゃんには効かないようだった。


 周瑜は三人組をカンファレンス室へ連行した。
 四人掛けの長方形の机の、一辺の真ん中に周瑜が座り、向かい側の一辺に三人の悪ガキがぎちぎちに詰めて座っている。権の友達二人は、早くも観念しているらしく、項垂れて言われるがままになっている。
「はい、まず権以外お二人。名前と連絡先を教えなさい。親御さんに連絡するから」
 強面の友達二人は俯いたままだったが、権の大きな青い目が反抗的に周瑜を睨み付けた。
「権くん、なに」
「ユキお姉様、横暴。いつも優しいのに」
「規律を破る人間に人権はないからな、優しくしてもしょうがないだろう。権はあとで伯母さんに言いつけるから、黙ってなさい」
 周瑜の言葉に、権は大きな目を見開いて呆然とした表情になった。青い瞳には涙が滲んでいた。
「お姉様、ヒドい……」
 呉夫人は怖い。門限を破って怒られた周瑜も、身に染みて知っている。学校をサボったなどと知れたら、ただでは済まないだろう。
 心中は察するが、規律を乱すものには罰を与えなければならない。
 泣いてみても見逃してもらえないことを悟ったらしい権は、涙目のまま膨れた顔になって、顎を机に置いた。反省の色が見えない。
「目つきの悪いほうが欽ちゃん、ちょっとヒゲ生えてんのがりょも、二人とも見ての通りストリートチルドレンだから、親に連絡なんてできないよ」
 みすぼらしくて人相の悪い孫権の友達二人は、確かに、浮浪者どころか山賊の子供を連想させた。だが周瑜は知っている、この世界のこの国には、孤児などほとんどいないのだ。こんな子供たちでさえ、昼間は学校へ行き、帰る家も温かな食事もあるのである。
 あいかわらず、権は人を馬鹿にした子供っぽい嘘をつく。だが仲間を庇おうとする、孫権の心根は好ましい。たまにはそんな心意気を買ってあげようか。権とは違い、友達二人は充分に反省しているようでもあった。
「それじゃあ、仕方がないな。すぐに学校に戻りなさい」
「やっぱりユキお姉様、大好き!」
 現金にも一瞬で顔を輝かせ、孫権は叫んだ。少し勘違いをしてそうな権に、周瑜はにっこり笑いかける。友達二人は見逃すが、権の悪行は呉夫人にしっかり言いつけるつもりだ。
 周瑜の笑顔に、なにやら余計に顔色が蒼白になった権の友達二人を訝りながら、周瑜はふと思って腕時計を見た。
「といいたいところだが、今から行っても間に合わないな。仕方がない、ここで勉強していきなさい。五時まで私が見てやろう」
 孫権が、えー、と子供っぽい不満の声を上げた。
 驚いたのは、友達二人の反応である。目つきの悪い子は、ぼろぼろ涙を流して泣いていた。強面だけに、外見は女の子の孫権の泣きまねとは訳が違う。大迫力であった。
 ヒゲの子に至っては、座ったまま白目を剥いて気絶していた。


 孫権は終始不真面目であった。追い詰められないと頑張れない性質なのだ。もともと頭の良い子であるから、それでもそれなりにできるのだが……と、周瑜は向こうの世界で何度も零した溜息を、ここでも吐く。
 悪ガキ二人については、惨憺たるものであった。数学は四則計算から怪しかった。英語は『b』と『d』を勘で書いていた。国語は、二人して何を悩んでいるのかと思えば、平仮名の『む』がどうしても出てこなかったらしい。
 だが根気強く教えているうちに、周瑜は二人が思いのほか賢いことに気が付いた。目つきの悪い方の子は、機転が利いて、知識欲旺盛で、打ち解けてくると周瑜を質問攻めにした。ヒゲの子はというと対照的で、黙々と自分で勉強している。しかめっ面で悩んでいたりしても、少し助け舟を出してあげると、怯えたように顔を伏せて、すらすら問題を解いてしまう。
 機転が利いて、知識欲旺盛な子。理解が早く、黙々と勉強が出来る子。もったいない、キッカケさえあれば、こんなにも出来る子たちなのだ。
 新しい才能を見つけて、周瑜はすっかり嬉しくなった。呉に連れて帰りたいくらいである。
「そろそろ終わりにしようか」
 秋の日は短い。四時半で既に、太陽は傾き始め、薄暗くなってしまう。図書館での時間はいつも短いが、今日は一段と早かった気がした。
 権はバンザイとはしゃいだが、他の二人はまだやり足りない様子であった。
「ちゃんと学校行って、勉強しろよ。でないとまたしごいてやるからな」
 周瑜が笑ってそう言うと、目つきの悪い方の片割れは、くすぐったそうに笑った。ヒゲの子は、まだおどおどしている。少し薬が効きすぎたのかもしれない。
「じゃあ、勉強しねえ。また来てやるからしごいてみろよ。俺は蒋欽、覚えとけよ」
 目つきの悪い子は、不敵に笑ってそう言った。生意気である、だがその度胸や良しだ。
 しかし蒋欽とは……。子供にしては全く可愛いげがない。だが幼く身奇麗な分、周瑜の記憶の中の蒋欽からは想像もつかないほどに可愛らしくて、面影はそのままなのに周瑜はまるで気付かなかった。
 そうすると、と思い、周瑜はもう一人の子を見た。ヒゲの子は慌てたように目を伏せる。
「ぼ、僕はちゃんと学校行きます。勉強もしますし……」
「呂蒙か」
 周瑜の呟きに、ヒゲの子はビクッと肩を震わせ、さらに顔を隠すように俯いてしまう。見れば見るほど、そこにいるのは小さな呂蒙だ。呉でも一二を争う勇将で、その武勇で数多の功績を立ててきた。赤壁でも周瑜の指揮の下、大いに活躍してくれた。生まれが貧しかったため教養はなかったが、一度学問を始めるや、瞬く間に書も治めてしまった。
 勇気と才能があり、努力を惜しまぬ呂蒙に、周瑜は全てを託してきたのだ。それなのに、目の前のこの子ときたら。
「阿蒙」
 怪訝そうに、呂蒙は上目遣いで周瑜を窺う。身の丈は既に周瑜より幾分高いが、大柄な身体で縮こまられると、余計に情けなく見えてしまう。
「弱虫で、阿呆の呂蒙、ということだ。情けない」
 呂蒙は、泣きそうだった。厳つい顔をしているのに、目尻が下がると途端に泣き虫の子供の顔になる。心を鬼にして、周瑜はもう一度、阿蒙、と呼んだ。
「ちゃんと学校に行くように。自分で勉強もするように。そして学校が終わったら、必ずここに来るように。私が徹底的に鍛え直してやる」
 呂蒙はぼろぼろ涙を流して泣き出してしまった。しゃくりあげながらも、必死に声を上げるのを我慢しているのは、男子としての最後の矜持だろう。友達甲斐のない蒋欽は引いてしまい、距離をとって半笑いで目を背けている。権はさすがに、困った様子で大きな呂蒙をよしよしと慰めていた。
「泣き虫の阿蒙、返事は」
 呂蒙は、はい、と答えたのだと思う。声がかすれてしまっていてよく聞こえなかった。抱きつかれた権が、迷惑そうにひきつった顔になっていた。


 周瑜は三馬鹿と一緒に、家路に就いた。図書館から、帰る方向は同じだった。
 空は燃えるような茜色になっていた。曹操の軍艦が、紅々と燃えている。夕焼けの度にそんな光景を回顧していては、進歩がない。
 次は、荊州に劉備の家来の髯の化け物が居座っているから、追っ払わなければいけないのだ。周瑜がいないのだから、それは全て呂蒙にやってもらわなければならない。蒋欽にも頑張ってもらわなければならない。
 学校から家に帰さず引き止めたものだから、周瑜は呂蒙と蒋欽をそれぞれ家まで送って、謝った。呂蒙の家ではお姉さんが出てきて、すみませんすみません、と逆に謝られた。可愛らしい人だった。呂蒙は可愛らしくはないが、呂蒙と似ていた。大丈夫だよ、と孫権がなぜか偉そうに応対していたので、周瑜は権の頬を捻ってやった。蒋欽の家では、両親が揃って出てきて、孫権の姿を見るや土下座してきた。まあまあ頭を上げて、と孫権はまた上からの物言いをした。周瑜は面食らってしまって、孫権を叱ることも忘れてしまった。
「りょものお姉ちゃんの旦那さんはパパの部下だし、欽ちゃん家の会社はパパの会社の下請けなんだ」
 権曰く、そんな色々なしがらみがあるらしい。だが孫堅伯父さんがいくら偉かったとしても、それが権が偉そうにできる理由にはならない。現に今、居候の身分の周瑜であるが、まだ権を立てる気はさらさらない。周瑜は孫権に、優しく注意を与えた。権は物分りよく、はーい、と答えた。にっこり笑みを返しながら、周瑜は孫権に同情した。
 家には、権のお母さん、呉夫人が待っている。
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