周瑜嬢

13、どじっ子の眼鏡メイドでごめんなさい(by『乙』)

 そこは確かに、『マック』の前だった。廃車買取・くるマック。想像していたマックと違って、周瑜はなんとなしに少し戸惑う。
 目指す『孔子碑苑』はというと、ウインクをするはじけた仙人――店名から想像するに、おそらく儒教祖の孔子のつもりと思われる――の看板が電動でくるくる回っている。それがいかにも頭が悪そうで、周瑜は少しげっそりするが、外観は至って普通のファミリーレストランだった。ガラス張りの窓から、店内はほとんどつぶさに見渡せる。お昼時にはまだ早いとはいえ、ずいぶんと空いている。リョーコは――まだ、いない。
 扉を開けて踏み入ると、いらっしゃいませー、と間延びした明るい声で出迎えられた。
「おかえりなさいませ、お姉さま! 本日はこのボク、メイドのベスがお席にご案内しまーす」
 無意識に手が出ていた。気付くと周瑜は、メイドの襟首を両手で絞り上げ、いよいよ正体を隠す気もなくなったらしい『乙』の身体を浮かせていた。
「お店に迷惑だろう、メイド」
「ヤだな、お姉さまこわーい。もともといたウェイトレスさんにちゃんとお話つけて代わってもらったんだから、問題ないよ。お姉さまの席は決まってるから。ボクとお兄ちゃんの前の席」
 ふと、黒縁メガネの奥の青い瞳が、鋭くなる。顔を背けた『乙』の視線の先を見やると、目出し帽の『甲』が腕を組んでボックス席を占領している。余計なお世話だが、この店の防犯対策はどうなっているのだろうか。
「ユキちゃん、はしゃぎすぎたらしいじゃん。悪いけど今日は監視させてもらうことになってるからね」
 有無を言わさぬ、勝ち誇ったような口調だった。周瑜は手を離して『乙』を放る。さしてよろめくこともなく体勢をとり、『乙』は笑顔で手を出して『甲』の前の席を示した。
 思った以上に、手が回っているらしい。周瑜はむすっと顔だけで怒りを示し、黙って指定された席へと向かった。

 前のボックス席に『甲』。視線を上げると、目が合いそうだ。勝手にウェイトレスをやっている『乙』。よく観察すると、店内全体の様子が不穏だった。
 客は、四人の壮年の男たちのみ。背の低い、がっちりとした頑丈そうな小男、すぐ隣の二人掛け席で短い脚を組んでいる、これを仮に『丙』とする。周瑜の後ろのボックス席には、二人の男が座っている。スポーツ新聞を拡げる、妙に迫力を漂わせる、白髪の初老の男。逆に視線を合わせても存在感のない、のっぺりした顔の男。『丁』、『戊』。周瑜が入ってわずかに遅れて店内に踏み入った、気短そうな大柄な男。『己』。一瞬だけ周瑜を睨み、無言で奥の席へと向かっていった。その視線に覚えがある気がして思い返すと、おそらくだが、『己』が先ほど受けた編入試験の、試験監督の教師であろうことに思い至る。
 紅東学園の経営者は孫堅だ。裏の世界の部下たちが紛れていることもあるだろう。『己』がそういった人物なら、丙丁戊も孫堅の手の者たちということになる。確認するまでもなく、誰一人、どう見ても堅気ではない。
 マダム・スゥ襲撃の時に見た、紅巾に顔を隠した賊たちを思い出してみる。先頭の、周瑜に出て行くよう指示したのは孫堅のはずだ。残り四人、丙丁戊己、見事に記憶していた賊たちの体格と一致する。周瑜は小さく、自嘲交じりに嘆息した。つまりは、周瑜の行為を目撃した上で、彼らは自分を監視している。


 扉が開いた。周瑜を除いて七人目の人物を、仮に『庚』としよう。店内の空気は、一瞬にして冷たくなる。リョーコ、ではない。今の周瑜や孫策と同じ年頃の、高校生と思しき少年だった。頭はぼさぼさの茶髪だが、服の仕立てはお金が掛かっているようだ。ジーンズも茶色い上着もいい趣味をしているが、なにより袖からのぞく金色の腕時計がきらきら光っている。凍りつく店内の空気を意にも介さず、興味深そうに店内を眺め回す仕草が奇異だった。
 周瑜の後ろの席から、ぴょこんと『乙』が飛び出してくる。メイド服の『乙』はひょこひょこと客に駆け寄り、
「おかえりなさいませ、ご主人様。メイドのベスでございます。ご主人様、本日はお一人様ですか、それともお待ち合わせですか?」
 無邪気を装う笑顔で訊ねた。
「お待ち合わせ、だね。みんな友達になる予定だから。とりあえず全員分、僕と君を入れて八つ、コーヒーを出してくれるかな。お代は僕につけてちょうだい」
 『乙』の金髪にぽんと手を乗せくしゃりと撫でると、『庚』は『乙』の脇をすり抜け、まっすぐ周瑜の席へとやってきた。
「お待たせ、ユキちゃん。一度帰って着替えてきたから遅れちゃった。お詫びになんでも頼んでいいよ」
 当然のように、『庚』は周瑜の向かいの席に滑り込んだ。初対面なのに、『庚』はやけに気さくで、むしろ不敵だ。
「君を待っているわけじゃない」
「ご挨拶だね、あの人は来ないよ。上海マフィアの巣窟になったこの店にあえてやってこられるほど、あの人は自由な身分じゃない。それに、君にメモを渡したのがこの僕で、待ち合わせが僕の住んでいた徐州町。僕が来ることくらい、予想ついてたと思ってたんだけど」
 周瑜は、きょとんとした。まじまじと、『庚』の顔を覗き込む。そういえば、受験会場で一緒に編入試験を受けたガクランの学生、だろうか。やっぱり記憶にない。しかし、目の前の『庚』の話を総合するとそうなる。
「もしかして、本当に覚えてない? 参ったな、キレる子だって聞いてたのに。あの人に嵌められたかな。リスクを犯して、ここにいる意味がない」
「いや、十分だ。私にそんな権限がないのも事実だが、徐州町から逃れて孫ファミリーに近づきたいというなら、力になる。私は、何をすればいい?」
 沈黙が降りた。一瞬目を瞠った『庚』は、珍しいものでも見つけたように口許を歪ませている。ひそひそ声で話したわけではないため、後ろの『甲』にも筒抜けだろう。気短な『甲』らしくもなく、黙って聞き耳を立てているようだった。
「あの人が、そこまで話したの?」
「君の話から、想像してみただけだ。私を信用できないようだったから、根拠のないことを、少し大袈裟に言ってみた。試験会場では気が抜けていて、正直君の事を覚えていない。でもあのメモはリョーコさんの筆跡だったから、リョーコさんの紹介なら、私は君を信用する」
 思わず勢い込んで話してしまった。我に返った周瑜は、そこで『庚』を安心させようと、にっこり笑みを浮かべてみせる。『庚』の頬にさっと朱が差し、途端に幼い顔になる。
「参っちゃうね、惚れちゃいそうなんだけど」
 『庚』が照れたように頭を掻く。この手の冗談は、向こうの世界でもときどき言われていたので、さほど気にはならなかった。腹は立つが、口癖だった誰かを思い出して、むしろ懐かしさのほうが先立ってしまう。
 そういえば、この少年も良く似ている。三国鼎立を推進した、孫呉の誇る稀代の戦略家――
「僕は魯粛。たぶん新学期から、ユキちゃんのクラスメートになる予定。ユキちゃんが受かってればだけどね、よろしく」
 気さくな態度で、手を伸ばして握手を求める。自分が受からないということは、ありえないらしい。自信家で不敵なのも、やっぱり向こうの魯粛と生き写しだった。
「周瑜だ。ユキちゃんはやめてくれ」
「待った! ていうか、ユキお姉さまに近づく悪い虫は、孫家の名に賭けて排除するよ」
 豊かな金髪を左右に揺らしながら、黒縁メガネにエプロンスカートのメイドさんが、全速力で駆けて来る。伸ばしかけた手が、思わず止まる。銀色のお盆には、並々とコーヒーの注がれたカップが二つ。危なっかしいことこの上ない。
「お待たせしました、沸騰したての熱々コーヒーです。あーれー、足がもつれちゃった!」
「うわぁ、ひどっ!」
 声高に宣言しながら『乙』は盛大にすっころび、コーヒーは狙いすまして、手を差し出した魯粛を襲った。
 魯粛は上着を脱ぎ捨て、ほうほうの体で座席から飛び退った。
「ベス、どじっ子の眼鏡メイドでごめんなさい」
 ぬらりと立ち上がった『乙』――こと孫権は、もはやぶりっ子も放棄して、棒読みの怖ろしい口調に変わっている。色でいうなれば、黒。例えば罪なき者にあからさまな私怨で死罪を下す、心から腹の底まで真っ黒で残虐な悪代官の声だった。
「俺のユキに手ぇ出そうたぁ、喧嘩売られたととって差し支えねぇわけだよな。いい度胸だよ、徐州のぼんぼん」
 今度は周瑜の背後で、『甲』――こと孫策がゆらりと立ち上がる。戦場で敵を屠って屠って、興奮状態になった殺戮狂の策の声。鳥肌が立って、振り返ることもできない。なぜこの場、この状況で、そんな声を聞かねばならないのか。
 孫家の兄弟の声を合図にするように、店内を占拠している、丙丁戊己の四人の男も、ざっと揃って立ち上がった。
「魯粛、逃げるよ!」
 周瑜は、灰皿をガラス窓に投げつけた。水面に伝う波紋のように、窓に大きなひび割れが拡がる。
「ユキちゃんがその気になってくれるなら」
 魯粛は椅子に立って、ひび割れたガラス窓を蹴破った。爽快なほど鮮やかに、ガラス窓が弾け飛ぶ。
「さあ!」
 伸べられた手を周瑜は掴み、魯粛に引っ張り立たされた。掴んだ魯粛の掌は、コーヒーで血糊のように濡れている。我知らず、気が昂ぶってしまう自分がいる。
 魯粛は容赦ない孫策の拳を間一髪すりぬけて、周瑜は自縛霊かのごとくしがみつこうとする孫権の手を振り払い、窓から表へ逃げ出した。
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